不可逆怪異をあなたと 床辻奇譚

一 血汐事件 ①

『床辻に住むと早死にする』


 西日本の海に面したこの地方都市には、古くはそんな俗説が流れていたという。

 きっと医療も発達していなかった頃の話だ。現代、とこつじの平均寿命は、国の平均寿命より男女ともに一歳半短い程度で、これは他の市と比べてそれほど早死になわけではない。

 ああでも、他の市と比べてなんて、今は無意味な話かもしれない。

 一昨年辺りから、日本のあちこちでぽつぽつと街が消える現象が起きている。最初は街の中で行方不明者が増えだして──ある日突然、街の人間全てが消えてしまう。

 そして消失した人間の数は、既に全国で三百万人を超えている。


 だから、先に言っておこう。

 これは平穏な日常に潜むささやかな怪奇の話ではなく

 怪奇が当たり前のものとして定着した、変質後の世界の話でもなく

 今まさに街の生活に流れこんできている異物との──闘争の話だ。


                 ※


、朝だぞー」


 コン、コンコンコン、とドアをノックする。

 だがいつも通り扉が開く気配はない。ただ中で少しがさがさと物音がしただけだ。

 俺は家の二階にあるこのドアが開いたところをもうずっと見ていない。ただ中に閉じこもっている妹も食事やトイレの必要はあるから、俺の知らないところで出入りしているのだろう。時々夜中にそういう気配を感じる。

 コン、コンコンコン。


「俺は学校に行ってくるから。誰か来ても玄関開けなくていいからな」

「……わ、かった」


 かすかにれた声で返事が聞こえる。俺は妹の声にあんすると、高校のせいかばんを持って家を出た。ちょうど斜め向かいの家から出てきたあやが、俺に気づいて手を振る。


そうさん、おはようございます」

「おはよう。今日は珍しく徒歩なんだ?」

「お父さんが出張中だから。久しぶりに電車で行こうと思いまして」

「それは……大変なことになったな。途中まで一緒に行くよ」

「ありがとうございます」


 おさなじみむらくらあやは、俺とは違う市外の高校に通っている。普段は父親が出勤ついでに車で送っていっているけど、今日は駅まで自力で行くみたいだ。

 ただあやってすごい方向音痴なんだよな。「近所のコンビニに新作プリン買いに行ってくる」って出かけて、逆方向のホームセンターに辿たどいて駄菓子を買った、とかは日常茶飯事だ。さすがに駅までは道が分かりやすいから行けると思うけど、こわいから一緒に行こう。

 あやはちらりと俺の家の二階を振り返る。カーテンがしまったままの窓はの部屋だ。半年前からそこは、まるで描かれた絵みたいに変わらない景色になってしまっている。


「……ちゃんの様子は、どんな感じですか?」

「いつもと同じだよ。でも別にいいかなって。今は登校しなくても、ネットで授業を受けられる高校に進学したっていいんだし。俺が心配しすぎてもよくないだろ」


 幸い親の遺産には余裕がある。今、が部屋から出たくないっていうなら、無理じいしようとは思わない。それより出たくなった時に困らない環境作りをしておきたいと思ってる。

 あやは空き地の横を通り過ぎる際、ふとそこのフェンスに結ばれている黒いリボンに気づいてしやくした。俺もそれにならってしやくする。


そうさんは、いいお兄さんですね」

「だったらいいんだけどさ。普通だよ」


 そう、こんなことは普通なんだ。は俺の妹で、俺はの兄。

 両親は二年前に事故で死んで、ただ一人の血縁である伯父さんは「床辻には帰りたくない。お前たちもそこを出ろ」と電話してきただけで葬式にも現れなかった。ただ代わりに、相続とかの面倒な手続きは伯父さんが全部やってくれて、今でも節目節目には「何かの足しに」と口座にお金が振りこまれている。

 それ以来、と俺は二人きりの家族だ。これ以上減りようがない最小の家族。

 だから俺はずっと「にはできる限り不自由がないように、寂しかったりこわかったりすることがないようにしよう」と心がけてきた。けど、残念ながらそれができていたかは不明だ。はずっと自分の部屋から出てきていない。

 そうなったのは両親が死んですぐにってわけじゃない。もっと後だ。は俺と二人になってから一生懸命家のことを分担してやってくれた。俺に気をつかっていつも笑顔でいて、何も困っていないようなそぶりで学校に行っていた。

 そして、ふっとその糸が切れてしまったのが半年前だ。は部屋から出てこなくなった。の同級生に何かあったか聞いたけど、いじめられていたとかではないらしい。

 ただ妹は昔から、他の人間には見えないものを見て、聞こえないものを聞いてしまうとこがあった。それが原因で一人になりがちだったから、今もその延長線上にいるのかもしれない。


そうさん、このままぐでいいんですか?」

「っと、よくない。危なくまた遅刻するところだった」


 いつの間にか国道の交差点まで来ている。ぐ行くと駅が見えているけど、俺の高校はここを右に曲がるんだ。


あやはちゃんとこのまま行って駅の改札を通るんだぞ。乗り場は一番線な。それ以外に来る電車に乗るなよ! 快速とか急行とか欲張らなくていいから各停で!」

「そんなに心配しなくてもちゃんと行けますよ。任せてください」

「俺も心置きなく任せたいんだけど……気をつけてな」


 俺は駅に向かうあやをしばらくその場で見守った。よし、道をれないな……大丈夫そう。父親が出張中なら他の家族が送って行ってやれば、って思うけど、あやの家はお姉さんが独立して市内のマンションに住んでいて、お母さんの方は車の免許持ってないんだよな。あやももう高一だし、自力通学を確立した方がいいってことなんだろう。

 俺はあやが駅に入っていくまで見届けると、国道沿いに西へ歩き始めた。車通りが少なくなったあたりで、道にしゃがんで側溝をのぞきこんでいる女の子に出くわす。

 小学生くらいに見えるその子は、困り顔で側溝の蓋に開いてる小さな穴をにらんでいた。


「何か落としたの?」


 俺が声をかけると、女の子は驚いた目で見上げてくる。だけどすぐに視線をらした。


「いいのじゃ。わらわが落としたとしたら、そのものとは縁がなくなったということじゃ」


 ……ずいぶん変わった言葉遣いだけどキャラ付け重視だろうか。

 まあ、そこは個人の自由だし触れないでおこう。


「よし、ちょっと待ってて」


 俺は側溝の蓋に手をかける。かなり厚みがあって重いけど、ひょいと力を入れて手前側を引き起こした。幸い中はそう深くない。見ると乾いた泥の上に黄色いビー玉が一つ落ちていた。

 俺はそれを取ると、手の中で転がして砂を取る。そして女の子に渡した。


「はい、どうぞ」


 女の子はぜんとした顔でそれを受け取る。あれ、反応がない。まさか事案になるのか?

 俺が気まずい思いをしながら側溝の蓋を閉めていると、あきれた声が聞こえる。


「今時、押しの強い人間じゃな。……と思ったら『足跡付』か。そのおかしな力の強さもそのせいじゃな」

「へ? あしあとつき? 力は子供の頃からこんなだったけど」