不可逆怪異をあなたと 床辻奇譚

一 血汐事件 ②

 確かに身体能力は「お前、ちょっとおかしくない?」って言われることもあるけど、異常ってほどじゃない。せいぜい部活のすけに重宝されるくらいだ。


「ふん、幼い時分にわらわ以外の誰かから力を浴びたか。この街では珍しいことでもないが、自覚がないとは幸運じゃな。……まあ、これはありがたく受け取っておく。せっかくわらわが子供たちにもらったものじゃからな」

「役に立ったならよかったよ」


 見ると女の子はビー玉を太陽にかざしている。確かめるように片目をつぶっていた彼女は、けれど急に何かに気づいたように顔をしかめた。


「──なんじゃこれは。よしめ、見逃すにしても穴が大きすぎじゃ」

「え?」


 まるで大人みたいな苦々しい声。側溝の蓋を閉めていた俺が立ち上がってみると、既にそこに女の子はいない。


「あれ? なんでだ?」


 今まですぐ隣で話していたよな? 気のせいだとしたら割と怖い。

 俺は首をひねりつつも、その後、道に迷っている海外の観光客の案内をして、貧血でしゃがみこんでいる女性を公園のベンチまで連れて行って、拾った財布を派出所に届けて……そんな風にいつもと変わらない感じで、学校に向かった。ちなみに人助けに特に理由はない。巡り巡っての助けになることがあればいいな、ってくらいだ。それくらいの方が俺自身、気負わずやっていける。


 そんな感じで結局俺が学校についたのは九時半になった。

 思いっきり遅刻で、ここまで派手に遅れることはさすがの俺でも月一くらいだ。留年はしないように心がけているけど、この段階であせっても仕方ない。

 俺はのんびり校門を通り過ぎて、昇降口に向かい──

 そこで、立ち尽くした。


「は……?」


 空はすがすがしいくらいの青空だ。

 そして差しこむ光が、箱からしたたる赤い液体を照らしている。


「血、だよな……」


 ちょっとで飛び散ったって量では、まったくない。箱は、血の雨に降られたように真っ赤にれそぼっていた。

 けれど凄惨と言うには現実味がないのは、それを流した人間の姿が辺りにないからだろう。

 ただ大量の血は、まるでバケツででもぶちまけたように、昇降口の奥から左右の廊下へ続いている。嫌な生臭さが鼻をついて、俺は反射的に口元を押さえた。


「え、ちょっと意味が分かんないんだけど。何かのイベントか?」


 文化祭には早い。今はまだ五月だ。それに校内で何かイレギュラーなことをする場合、まっさきに話が来るのは俺のところだ。「お祭り人間」「イベンター」「何でも屋」なんて言われているけど、要は面倒事を頼みやすい人間ってだけで……そんな俺が知らないまま派手なイベントなんて起きるはずがない。

 ──つまりこれは、正真正銘の異常事態だ。


「は……うそだろ」


 息が浅くなってくる。校内は静かだ。自分の心臓の音が聞こえてきそうだ。

 俺は一歩を踏み出そうとして、その時ようやく足元にあるものに気づく。


「白線……」


 昇降口の入ってすぐのところにある、横に引かれた白線。まるでスタートラインのような真っ白い線に俺は息をのむ。

【もし、何かの入口に白線が引かれていたなら、その先に入ってはいけない】

 それは床辻市に古くから伝わる禁忌の一つだ。

 もっとも市内に住んでいる人間でも、禁忌を知らない人間は多い。でも知っている人間は少なくない。俺もくなった祖母からいくつか床辻のタブーを聞いている。「床辻で生きるなら、これらを知らないと行き当たってしまった時、命に関わるから」と。


「なんで学校に白線が──」


 ペンキで勢いよく引いたようにも見える線は、昨日までは確かになかったはずだ。

 ならこの先はどうなっているんだ。

 どうして誰もいない? なんでこんなに校内が静かなんだ。現実にしてはたちが悪すぎる。


「……警察、を」


 呼んでいいものか迷う俺の耳に、不意に着信音が聞こえてくる。制服の後ろポケットから聞こえてくる音に、俺はあわててスマホを抜いた。


「え、なんで」


 そこに表示されている名前は「」だ。電話なんて珍しい。いつも用事があってもメッセージで済ませるのに。俺はこわりかけた指で通話ボタンを押した。スマホを耳に当てる。


、どうした?」


 返事はない。というか電波が悪いのか、ざざ、とノイズ音がかすかに入っている。


?」

『きこーえますかー』


 唐突な声は、俺の言葉にかぶせるように返ってきた。

 の声じゃない。知らない女性の声だ。


「……誰だ」

『聞こ……えま……すかあ……』


 声はまるでボリュームをめちゃくちゃに動かしているみたいに、遠くなったり近くなったりしてる。その度に声も高くなったり低くなったりする。なんでの電話からこんな声が聞こえてくるんだ。嫌な汗が額ににじんでくる。

 その時、通話の声が唐突にクリアになった。


『妹さんはあなたの教室にもう来ていますよ』

「は?」


 あなたって俺だよな。え、俺の教室?


「……は部屋にいるだろ。あんた誰だ」

『妹さんは、あなたに会いに先に教室に来ました。ほら、その箱の下を見てください』


 言われて俺は白線の向こうを見る。

 当たり前のように広がっているまりの中に、靴が片方落ちている。青いラインの入ったスニーカーはうちの玄関にあるはずのものだ。かかとにちょっとついている緑の斑点は「学校でペンキがかかっちゃった」って言っていた。が恥ずかしそうに笑ってそう言ったんだ。


「そんな馬鹿な」


 俺は白線を踏み越える。

 自分に「違う」と言い聞かせながらまりに踏みこむ。

 ぴちゃん、と血が跳ねて制服を汚した。誰のものかも分からない大量の血の川を、俺は自分の教室の方へ歩いていく。

 は、もう半年も学校に行っていない。今朝も部屋の中にいた。

 第一、ここはの学校じゃない。の籍があるのは隣の中学だ。

 だから──ここにがいるなんて、そんなことがあるはずない。

 一年四組の教室が見えてくる。俺が在籍しているクラスだ。けれど人の気配はない。ここに来るまでの廊下にもやっぱり誰もいない。ただ壁も天井も鮮血にまみれているだけだ。

 俺は、恐る恐る教室の中をのぞきこむ。


?」


 全ての机が血の海の洗礼を受けている中、ただ一つ汚れていない教卓。

 その上に置かれているものを、俺は穴が開くほど見つめる。


「……なんで」


 こんなことは夢だ。あってはならない。

 遅刻したら、学校が無人で血まみれになっていることも。

 家にいるはずの妹が、生首になって教卓に置かれていることも。


……?」


 あってはならない。

 悪い夢だ。

 の、日に焼けていない白すぎる肌。

 伸びすぎてしまって傷んだ髪。固く閉ざされた両眼。

 それだけが俺の前に、現実としてある。

 よく料理を作ってくれた手も、子供の頃に神社でつけた傷痕が残る足も、かない。

 意味がわからない。

 俺は自分の呼吸が浅くなる音を聞きながら、ぐらりと倒れそうになる。

 けどその時、はうっすらと両目を開けて──俺を、見た。


「……ぉ……ぁ……」


 かすれた声が聞こえる。言葉になっていないそれは、けど確かにの声だ。


!」


 俺はスマホを投げ捨てると教卓に駆け寄る。小さな首に両手を伸ばすと、はちゃんと俺を見上げた。胸に抱きしめたは確かに体温を感じる。生きてる。

 俺は子供の頃から何度もかけてきた言葉をつぶやく。


「大丈夫だ、


 何が大丈夫なのか、何が起きているのか、少しも分からない。


「俺がついてる。大丈夫だ」


 ただ一人の妹を抱いて、俺は血の海の中に立ち尽くす。

 まりの中に落ちたスマホから女の声が聞こえる。


『妹さんは間に合わなかったようで残念でした。ですがそうなってしまった以上、体を取り戻す方法は一つだけです』


 淡々と、驚きもなく喜びもなく。

 声は俺がこれからすべきことを告げる。


『この街に存在する怪奇を、これから百体滅ぼしてください。そうすれば妹さんの体を取り戻す機会が来るはずです』


 俺はその声を、どこか別世界の出来事のように聞きながら血の海の中でを抱きしめる。「大丈夫だ」と何度も繰り返して。


 これが世に言う──『しお事件』だ。