不可逆怪異をあなたと 床辻奇譚

二 禁忌 ①

 その日、つきは委員会のせいで、学校を出るのがすっかり遅くなってしまった。

 彼女は、薄暗い街灯が照らすバス停に立ちながら、所在なく辺りを見回す。

 バスを待っている人間は他にいない。車通りもほとんどない。真っ暗な中に立っていると、自分が闇の中に埋没していきそうな気さえする。

 そうでなくても、ここ一年の間少しずつ市内で行方不明や家出が増えているのだ。確か皮切りになったのは、一年前に東の山中から若い女性の遺体が発見されたという事件で、身元不明の遺体は首と胴が切り離されていたらしく、いまだに未解決だ。

 そして、そこからいなくなる人間が増えだした。彼らが全員死んでいるとは思いたくないが、あまり夜に一人でいたくない。スマホを持っていないと、こういう時に不安だ。中学三年の奈月の周りでは、スマホを持っていない人間の方が少ない。


「今年は委員会があるから、スマホ買って欲しいって言ったのに……」


 奈月はぼやきながら、祖母にもらった腕時計で時間を何度も確認した。まだバスが来るまであと五分もある、と思ったところで、暗闇にバスのヘッドライトが浮かび上がる。


「あ、よかった……」


 思っていたよりもずっと早かった。奈月は暗闇の中、目の前にまったバスに急いで乗りこむ。乗客がいない車内で一人掛けの椅子に座ると、彼女は読みかけの文庫本を取り出した。そうして本を読みだしてしばらく、奈月はバスがいつまでもまらないことに気づいた。


「あれ? なんで……?」


 気づいてみれば次のバス停を案内する放送もない。奈月を乗せたバスは、ただ夜の住宅街を走っているだけだ。今どこを走っているのか、彼女は窓に顔を近づけて目を凝らす。

 そこは床辻市内の住宅街で、けれどいつものルートとはまったく違う。本来なら駅方向に向かうはずのバスは、今は東の山の方へと向かっていた。奈月はぎょっとして体を引く。

 その時、道路のカーブミラーにバスの外観が映った。

 対向車のライトに照らされたその色は、見間違いようがないほど【赤い】。


「え、うそでしょ……赤バスじゃん……」


 子供の頃、市内の小学校に広まって恐れられていたうわさの一つ。

【市内を走っている赤いバスが自分の前にまっても、決して乗ってはいけない】

 子供たちの中で「赤バス」と呼ばれていたその話を、奈月はもちろん知っている。知っていて、けれど忘れていた。奈月自身も友達も、実際赤バスが走っているところなど見たことがなかったからだ。だから彼女はそれを「よくあるオカルト話」と思って記憶の奥底に押しやっていた。まさかそのうわさが、床辻市に伝わる多くの禁忌の一つだとは知らずに。


うそ……うそうそ、どうしよう」


 赤バスのうわさでは「乗ってしまった人間はどこかへ消えてしまう」と言われているだけだ。実際に乗った人間がどんな終わりを迎えるかは不明だ。奈月はぶるぶると震えかけて、けれど全てが自分の早とちりである可能性にすがった。運転席に向かって弱々しい声をかける。


「す、すみません……乗るバスを間違えてしまったみたいで……」


 返事はない。バスの前方は妙に暗く、いきさきの電光掲示板は真っ暗だ。運転手もよく見えない。

 奈月は勇気を振り絞ってもう少しだけ声を張った。


「すみません! 下ろしてください!」


 反応は、ない。奈月は目の前が暗くなるような感覚に襲われた。窓越しに犬の散歩をしている老人が見えて、奈月は窓に飛びつく。


「助けて! 助けてください!」


 だが、手をかけた窓はびくとも動かない。叫ぶ声も車内にむなしく響いただけだ。バスは老人の横を通り過ぎる。

 奈月は絶望して車内前方に視線を向け──道の先に、誰かが立っているのに気づいた。

 ヘッドライトに照らされた横断歩道の真ん中に、男子高校生が一人立っている。

 異様なのはその高校生が、ぐに向かってくるバスを見据えていることだ。彼はその手に見慣れぬ何かを構えている。

 黒塗りのクロスボウ。奈月が初めて見るその武器の照準は、赤バスに向けられていた。

 バスは、横断歩道の上に人がいても止まる気配がない。スピードを変えぬまま走っていく。

 残り五メートル。

 奈月は、高校生が人形のようにねられるところを想像して思わず目を閉じた。

 だが──


「え?」


 次の瞬間、奈月の体は空中高く放り出されていた。

 家々の屋根が眼下に見える。生臭い風が下から吹き付けて、彼女はその時、自分が乗っていた赤バスの前半分が地上で左右に裂かれているのを目にした。普通のバスのように金属でできているわけではない、まるで煙の塊が風で散らされたかのように、バスは真ん中から二つに割れている。

 そのただなかにいるのは、横断歩道に立っていた男子高校生だ。

 彼は持っていたクロスボウを捨てると、背に負っていたケースから木刀のようなものを取り出す。彼は散らされたバスが緩やかに元に戻ろうとする、その中心へ問うた。


「──神隠しにあった女の子の体がどこにあるか知っているか」


 りん、と響く声。

 それは夜の中に鋭さをもつて切りこむ。彼の持っている木刀が街灯の光に青白く照らされ、まるで真剣のように見える。

 返事はない。

 彼は、二度は問わなかった。代わりに再生しようとするバスのただなかへ踏みこむ。

 いつせん

 空気さえも断つ速度でがれた赤バスは、パン、と軽い破裂音を立てて四散する。

 そこから先を奈月は見ることができなかった。落ちていく自分の体に悲鳴を上げる。


「ひっ、きゃぁぁぁあ!」


 ──地面にたたきつけられる。

 そう覚悟して身をすくめた時、けれど奈月の体は一瞬だけ、ふわりと下から空気に押し上げられた。勢いが減じたところで彼女の体は二本の腕に受け止められる。固く目を閉じていた奈月は、薄目を開けて様子をうかがった。

 街灯の白色光に照らされて見えたものは、自分を抱きとめてくれた男子高校生の顔だ。

 少し猫毛の黒髪に意志の強さを感じさせる眉。その下の細められた目に既視感を覚えて、奈月は口を開く。


「あ……ちゃんの、お兄さん?」


 確かに彼は、同級生であるの兄、そうだ。何度も顔を合わせたことがあるから間違いない。ただ最後に会ったのは不登校になってしまったについて聞かれた時のことで、当時と比べてそうの印象は正反対だ。

 快活で、誰にでも優しくて、運動万能な人気者で、「みんなの憧れの兄」だった彼とは違う。今のそうは夜の暗闇と慕わしいようなかげを、全身から立ち昇らせていた。

 あまりの様子の違いに奈月は驚いて、だがすぐに思い出す。

 そうの高校はあの『しお事件』の被害に遭った学校だ。彼自身は遅刻して難を逃れたと聞くが、それでも相当のショックを受けただろう。が巻きこまれなかったことは救いだが、それが何の慰めになるわけでもない。

 奈月がそこまでを考えた時、そうは彼女を道路に下ろした。


「赤いバスに乗っちゃいけない。あれは床辻市の禁忌の一つだ」

「す、すみません。よく見てなくて……」

「うん。次は気をつけて。あと、ここで俺と会ったことは誰にも言わないで」


 そうは言いながら、身をかがめてクロスボウを拾い上げる。そうして立ち去りかけた彼は、けれど不安げな奈月の様子に気づくと「家まで送ってくよ」と苦笑した。


                 ※


 コン、コンコンコン、と俺は厚い木のドアをノックする。

 このリズムは子供の頃にと決めたものだ。両親が共働きだった我が家は、の方が俺より先に帰って留守番をすることが多かった。