その時、花乃が「お兄ちゃんじゃないものが来る」とひどく怖がった時期があった。俺じゃない誰かがなんだったかは今も分からないけど、以来俺は、花乃のいる部屋をノックする時には、このリズムで叩くようにしている。
「──ただいま」
そう言って開けたのは、看板も出していないアンティークショップの扉だ。
古いビルの地下にあるこの店の名は「ミラビリス」。もっとも、俺はもっぱらこの店を「記憶屋」って呼んでいる。アンティークショップとしてはほとんど客がいないから、こっちの通り名の方が分かりやすいとまで言える。
時間は夜の二十二時。本来なら閉店している時間だけど、俺はちょっと特殊客だ。
いくつものランプで照らされた店内は、本来的には広いんだろう。でもそこには丁寧に磨かれたキャビネットやチェスト、丸テーブルなど家具類を始め、年季の入った置物や雑貨が所狭しと置かれている。
奥のカウンターの傍には年代ものの揺り椅子があり、そこには白いアンティークドレスを着た花乃と同じくらいの年の少女が座っていた。彼女は膝の上に小さな籠を抱えている。
その籠の中にいる妹に、俺は声をかけた。
「ただいま、花乃」
「ぁ……お……にぃちゃん」
掠れた声が首だけの妹から返ってくる。ノックの音が聞こえていたんだろう。籠に敷かれたクッションの上で花乃は薄く目を開けていた。俺はほっと笑顔になる。
「遅くなってごめん。今日は調子いいみたいだな」
いつもと比べて、比較的言葉が聞き取りやすい。一年前の一件で体が失われた花乃は、どういう仕組みか分からないけど、首だけで生きている。けど体がないせいで、駄目な時だと声を発するのに時間がかかって、ずっと息しか洩れないこともあるんだ。ヒュウヒュウと空気だけが行き過ぎるそんな音を聞く度、俺は「どうしてあの日、学校に遅刻してしまったのか」と叫び出したくなる。
俺の高校で起きたあの一件は、世間では『血汐事件』と呼ばれている。
校内から突然全生徒と教師が消えてしまった。それも大量の血液を残してだ。
ただ凄惨と言ってしまうには謎が多すぎる事件だ。第一発見者は俺で、午前九時半に学校へ着いた時には既に全てが終わってしまっていた。近所の人は八時半までは普通に生徒が登校しているのを見ていたらしいから、本当に俺が到着する直前に何かが起きたんだろう。
血汐事件は全国ニュースでも取り上げられ、けれどすぐに他の事件の中に埋没した。と言うのも日本ではこの時、似たような怪事件が頻発していたからだ。
最初に事件が起きたのは、山に囲まれた小さな漁村だった。
ある朝、隣の町の漁師が車で村を訪ねたところ、村中の人が消えていなくなっていた。その代わりに、大量の汚物が村の道路から家の中にまでぶちまけられていたらしい。
多くのメディアがこの怪事件をこぞって取り上げ、ネットには様々な考察が現れた。
しかし当然のように答えが出ないまま、今度は三百キロ離れた小さな町で似た事件が起きた。
これらの事件の共通項は以下のようなものだ。
・被害に遭うのは人間及び、飼われていた動物で、野生動物には被害がないこと。
・中にはいくつか、まるで巨大な力に叩き潰されたかのような建造物があったこと。
・消えた人間の代わりに、ある町では汚物、ある町では吐瀉物、ある町では薄黄色の膿が、大量に残されていること。
大規模神隠しはその後も連続して起こり、人口二百万人の大都市がまるまる犠牲になった時には誰もがその異様さに戦慄した。ネット上には更なる情報を求める書きこみが溢れ、もっともらしいデマとそれより質の悪い現実に人々は絶望し、街中からは人の姿が激減した。流行を牽引していた華やかな店の閉店や倒産が相次ぎ、あちこちに「広告募集中」のシールを貼られた空白が目につく──そんな景色は日本人に「なんとか平穏に生きられた時代の終わり」を実感させたらしい。陰謀論や終末論がそこかしこに溢れ、半年間で約十二万人の人間が海外へと移住した。
けれど、そうやって少しだけ広くなった日本では今や、恐怖や諦観さえものみこんで新しい日常が始まりつつある。「明日どこかの街が消えてしまうかもしれない。でもそれは多分自分たちではないだろう」というふんわりとした楽観で社会が動いているのは、どんどん流れていく時間の中で、そうしなければ生きていけないからだ。
だからきっと、一地方都市で起きた高校消失事件を未だに気に留めているのは近隣の人間くらいで、当然俺もそのうちの一人だ。両親が亡くなって、部屋に閉じこもるようになった花乃に何もできなかった上、変わり果てた姿にさせてしまった。とんだ駄目兄貴で自分が嫌になる。可能なら前世からやりなおしたい。
でもだからって凹んでいる時間はない。まだ花乃についてやらなきゃいけないことがある。
『血汐事件』で失われた人間は、教師が四十二人と生徒が六百二十三人。それだけの人間が学校から跡形もなく消えてしまった。残っていた大量の血液は、警察の調査いわく「人間のものではないが、何の生物の血か分からない」らしい。他の街の神隠しに残されていた汚物も吐瀉物も同様で、今のところ事件の捜査は難航している。
第一発見者である俺の扱いは「人助けをした結果、運よく遅刻して巻きこまれずに済んだ」人間だ。ただ俺を幸運だなんて言えるのは、花乃のことをみんなが知らないからだろう。俺はあの日、咄嗟に首だけの妹をバッグに隠した。そうして警察や駆けつけてきた人たちが校内の惨状に大混乱に陥っている中、密かに花乃を家に連れ帰ったんだ。
今思い返してもまるで現実味がない。悪夢みたいな時間だった。全身から拭いても拭いても汗が湧いてきて、足も手も震え続けていた。
後から花乃に聞いたところによると、俺が家を出てすぐにスマホに電話がかかってきたらしい。俺からの着信になっていたその電話に出てみると、知らない女性の声で「お兄さんが学校で亡くなったから、今すぐ来てほしい」と言われたのだという。悪質すぎる誘いだ。
それで花乃は、半年ぶりに家を出た。飛び出した。そのまま寄り道しまくっている俺を追い抜いて高校に辿り着いて、事件に巻きこまれた。
花乃が到着した時には、まだ校内の様子は普通だったらしい。ちょうど一時間目が始まったばかりの教室に花乃は飛びこんで、みんなの注目を浴びた。
そこで、誰かに後ろから手を引かれて「危ない」と言われた。次の瞬間白い光が溢れて……そこから先の記憶がない。気がついたら体を失って俺が目の前にいたという。
唯一残された鍵は──あの時、スマホで言われた言葉だ。
『妹さんは間に合わなかったようで残念でした。ですがそうなってしまった以上、体を取り戻す方法は一つだけです。この街に存在する怪奇を、これから百体滅ぼしてください。そうすれば妹さんの体を取り戻す機会が来るはずです』
誰だか分からない通話相手は、そう言った後すぐに通話を切ってしまった。花乃のスマホもそれ以来見つかっていない。俺の教室に駆けこんできた時までは持っていたらしいけど、血溜まりが掃除された後にも出てこなかった。
結局あの通話相手が誰だったのか、可能性としては「花乃を学校に呼んだ誰か」か「花乃が教室についた時、手を引いて危険を警告した誰か」かとも思うけど、確証はない。ただ今のところ花乃の体を取り戻す手がかりはあれだけだ。
百体の怪奇を滅ぼせ、なんて普通の高校生がやるようなことじゃない。