不可逆怪異をあなたと 床辻奇譚

二 禁忌 ④

 俺は、揺り椅子のグレーティアの前までいくと、身をかがめた。彼女は軽くうなずくと、長いまつを伏せて目を閉じる。その額に、俺は前髪を上げると自分の額を触れさせた。

 一秒待つ。

 ──目を閉じた暗闇に、記憶が流れこんでくる。


                 ※



『ぉーい』


 野太い男の声が聞こえる。

 見えるのは古い鳥居だ。さんの正面にひっそりと設置された鳥居。

 記憶の主である誰かは、その鳥居の前を通り過ぎようとする。ちらりとスマホを見て、時間が午前二時過ぎであることを確認した。スマホの画面の上部には、ようさんって人から「先に寝るね」というメッセージが入っている。


『おーぃ』


 また、声が聞こえてくる。

 その声は遠くなったり近くなったりしているようだ。誰かは聞こえないふりをして鳥居の前を行き過ぎる。その時、背後でガシャン、と何かが割れる音がした。

 誰かは思わず振り返る。俺はそれを「ああ、やってしまったか」と思う。

 きっと最後まで反応しなければよかったんだ。でもこの誰かは振り返ってしまった。

 小さな鳥居の真下には、白くうごめく肉塊があった。

 その中に埋もれる男の顔が、にたにたとうれしそうに笑う。


『やっと、こっちを見た』


 記憶は、そこで途切れた。


                 ※


 俺は触れていた額を引く。改めてグレーティアに尋ねた。


「これ、記憶売った人どうなってたの?」

「気絶したみたい。気が付いたら道路で倒れてたって」

「えー。酔って寝てたと思われそうだな、それ」


 ともかく、その誰かは自分の見た記憶に耐えられず、手放すことを選んだ。

 手放すなんて言っても普通はできないだろうけど、この店ではそれができる。グレーティアは人から記憶を引き取ったり与えたりする能力を持っているんだ。どういう仕組みかは分からないけど、本人いわく「子供の時からそうだった」らしい。

 俺がこの店を「記憶屋」と呼ぶのは、それが事実、店の商品だからだ。グレーティアは記憶の運び屋を依頼されることもあれば人から持っていたくない記憶を買い取ることもある。この店をぽつぽつと訪れる客たちは、大体が以前の客から紹介されてくるそうだ。そうやってひそかな口コミで持ちこまれた記憶を俺は買っている。怪奇の貴重な情報源になるからだ。


「あの鳥居見たことあるな。明日の学校帰りにでも行ってみるよ。ありがとう」


 俺は礼を言いながら、スポーツバッグにの頭をそっと入れる。癖のある茶色がかった髪がファスナーにからまないように気を付けて閉めていった。はこの状態になってから髪が伸びなくなった。一切の成長が止まったみたいだから今ある分を大事にしないと。俺はが苦しくないよう、ファスナーの端の五センチだけを開けておく。

 そうして店を出ようとする俺に、が声をかけた。


「あんまり無茶しすぎるなよ。何があるか分からないし、そろそろかんに目を付けられるぞ」


 は、俺の目標が「百の怪奇を滅する」であることを知っている唯一の人間だ。

 グレーティアはと仲がいいから言えないし、記憶屋以外の人間はそもそも俺が怪奇を回っていること自体知らない。だから俺に忠告してくるのはくらいだ。

 ただその忠告も、ありがたくはあるけど聞くことはできない。


「監徒って床辻の都市伝説だろ。本当にオカルトを監督している秘密機関なんてあるなら、こっちから会いに行きたいくらいだよ」


 俺は、記憶屋の二人の返事を待たぬまま、扉を出て階段を上り始めた。


 記憶屋から家までは徒歩二十分くらい。住宅地を抜けるのが近道だ。

 夜の住宅街は人通りも少ない。細い電柱に「探してます」と女の子の写真入りの貼り紙があるのを見ながら、俺はその前を行き過ぎる。

 暗い夜道は静かすぎるくらいだ。他の街の事件やしお事件の影響もあるんだろうけど、もともと床辻市には多くのタブーがある。

【垣根やフェンスに結わえてある黒いリボンの前を横切る時には一礼すること】

【深夜に聞き慣れないサイレンが鳴っても、外の様子を見てはならない】

【木々に赤いひもが結んである山道には、立ち入ってはならない】

【放課後に五人で集まって、いなくなった子の名を呼んではいけない】

【街の東西と南北を結ぶ道路を、一度も立ち止まらず歩ききってはならない】

たそがれ時に一人で家に帰ってはならない。帰る時は途中で祖父母の名前を呼ばれても、返事をしたり振り返ったりしてはいけない】


しお事件』の時に引かれていた【白線】や、【赤バス】以外にも床辻市には色々な禁忌があって、その中には「夜」や「一人」に抵触するものが多い。だから駅周辺の繁華街以外はもともと夜になると人は少なくなるんだ。

 床辻の禁忌は「こんなこと注意されなくてもやらないだろ」というものから、「知らなければうっかりやってしまうこと」まで様々だ。俺が知らないものも多分あるし、そういうのが知りたければ『トコツジ警告所』ってネット掲示板で盛んに話されている。


『トコツジ警告所』は、主に床辻市の住民が匿名で投稿している板で、そこには新規オープン店の評判から、ちょっとした市政への意見まで色々書きこまれているけど……一番盛況なのは恐怖体験談と、それに対する注意喚起・考察スレ。

 書きこみには創作ももちろんあるんだろうけど、実話も結構混ざっている。今現在盛り上がっているのは「仕事から帰ってきた妻が別人みたいなんだが」という投稿だ。

 いつもの時間になっても奥さんが帰ってこないから書きこみ主が心配していたところ、次の日になってようやく帰ってきた。けどバッグはくしているし、ぼーっとして何があったか聞いても答えられないからどうしようか、という内容だった。俺としては、警察と病院に行った方がいいと思うしスレ内の意見も大体同じ。二割くらいのレスが、該当する禁忌がないか書きこんでいる。「精神が壊れる怪奇に出会ったんじゃ」とか「何かと入れ替わったんじゃ」とか。

 このスレにまとめられているタブーは三十近い。詳しい人いわく、古くは鎌倉時代から伝わる禁忌なんだそうだ。それらを知らないで生きている市民も多いけど、知っていた方が安全だ。

 だから『トコツジ警告所』を見ている人間は多いし、書きこんでいる人間もいるはずだけど、みんなリアルではそのことを口にしない。まるで禁忌を語ること自体が禁忌であるみたいに。


「ぃろいろ……ご、めんね……おにぃちゃん……」


 スポーツバッグの中から、のかぼそい声が聞こえてくる。

 何一つのせいじゃないし、俺がやりたくてやってるんだっていつも言っているのに、は納得しない。自分のことは別にいいから危ないことをやめて欲しいと思っているみたいだ。

 でも、そこでやめられるなら俺はの兄貴じゃないだろう。


「俺が好きでやってるんだから大丈夫。それに今日は、奈月ちゃんを助けられた」

「奈月……ちゃん?」

「そう。覚えてるだろ。赤バスに乗ってたから家まで送って来た」

「あ……りがとう、おにぃちゃん」


 消え入りそうなお礼の言葉に、俺は昔の記憶を思い出す。