魔女に首輪は付けられない 特別短編
【前日譚】魔女の見る通勤風景①
膝に抱えたリュックが信じられないくらい重く感じた。
「どんな犯罪にも目的というものがあるが、君のは何かなあ? せっかくだから教えてくれたまえ」
隣の席で少女が立ち上がって、声をあげている。高らかに、朗々と——舞台上で演技するみたいに。だから余計に静まり返った車内でよく響く。私を含めて乗客たちは石みたいに固まっている。
それは犯人も含めて。
「……目的?」
運転席の側で『魔道具』を持っている男が言う。杖型の『魔道具』で結構大きい。目算だけど私の腰くらいあるかもしれない。
地上から百メートル。
この人の『魔道具』のせいで、私たちはバスの中で怯えまくってる。ちょうど高層ビルの間をフラフラっと通勤バスは飛行中。運転手さんはこんな状況でもハンドルを握ってくれているけれど、意味があるかは不明。
「いやいや、是非とも知りたいねえ。私の予想だと——」
「ねえちょっとあなた」
私は小声で言って少女を引っ張って座席に引き戻す。すとんと少女は座席に落ちる。そして不満げな顔で私を見つめてくる。
「何だいキャサリン。今いいところだったじゃないか」
少女は〈美〉って文字で形容できそうな姿形をしている。染めてるのか知らないけれど、白くて長い髪は絹みたいにサラサラしているし、青い瞳はとても澄んでいる。鼻は高くて顔のあらゆるパーツが適切に配置されていて、ちょっと同じ人間とは思えない。首元の黒いチョーカーも良い感じ。
「私はキャサリンじゃないよ」
「そうかい? じゃあアイリーンで」
「勝手に、人の名前を決めないで」
「それは失敬。いやあ、人のことはちゃんと呼びたいからねえ。あれとかそれじゃなくて」
と言って白い髪の少女は肩をすくめる。
ついに我慢の限界を迎えた。
「そんなことはどうでもいいって! どうして犯人を挑発するようなことを言うの!? バスごと落とされてもいいの!?」
「いやいや挑発しているつもりはないさ。純粋な興味の心からだよ」
絶対嘘だ。
その証拠に白い髪の少女はにたにた笑っている。まるで状況を楽しんでいるみたいだ。
「あんたたち」
犯人から声が飛ぶ。〈たち〉で括られてしまってすごく不味い。
「頭がおかしいのか? じゃなかったら夢でも見てるのか?」
「酷いこと言われてしまったねえ」
「あなたのせいでしょ!」
「君も大概酷いやつだねえ、アイリーン」
だからアイリーンじゃない——という言葉を呑み込んだ。犯人が運転席側から離れてこっちの方に歩いてくる。
筋肉質で背の高い男。歳は三十くらい。精悍な顔つきでバスジャックするような人には見えない。
犯人の男は声を低めて、
「今度うるさくしたらバスから投げ落としてやる」
と、『魔道具』を白い髪の少女に突きつける。
「投げ落とすのはその長い『杖』でかい? それともその大きな筋肉でかい? それとも、私自ら降りるように言うのかい?」
全然態度を変えてくれない。私は泣きたくなってくる。こっちまで巻き込むのはやめて欲しい——と、予期した通りに、犯人は少女の襟を掴んで、母猫が子猫にやるみたいに持ち上げてしまう。
鍛えた筋肉が最大限発揮され、少女の腰が座席から完全に浮いたところで犯人は言う。
「今すぐ落としてやろうか」
「アイリーン……短い付き合いだがさよならだ。生まれ変わったらまた会おう」
「あ、あ、諦めないでよ、もう!」
私は慌てて言って、犯人の方を見る。
「い、今すぐ静かにさせるから! 一度だけチャンスをちょうだい? ね! いいでしょ?」
「私はチャンスなどいらないのだがね。潔くバスから——」
「あなたは黙っててよ!」
白い髪の少女の口を両手で押さえる。もごもごと少女が何か言っているけれど全部無駄だ。
犯人は大きくため息を吐いて、少女から手を離す。
「……そいつをそのまま大人しくさせてろ。そうすれば後数十分は見逃してやる」
よかった。許された。
そのまま白い髪の少女を押さえていると、犯人は運転席の方へ戻っていった。いい加減リュックが邪魔になってきたけれど、こんなときだからこそ手放せない。落とさないようにバランスをとりながら、少女を解放する。
「やれやれ、お節介な人だねえ、アイリーン」
「あなた死にたいの?」
「そのつもりはないのだがね、でも偉大な好奇心が、私を死の淵へ導くのさ」
「私たちを巻き込まないで」
「そう怒らないでくれたまえ。今の筋肉君との接触でわかったことがあるよ」
はあ?
白い髪の少女は私の顔を指差して、
「あの筋肉君は結構優しい」
犯人の代わりに落としてやろうか。
「……その一言を言いたいために、皆を危険に晒したの?」
「地上から百メートルだ。元より危険には晒されているだろう。まあ、これは筋肉君と同じ方法をとれば、ある程度マシになるさ」
「……同じ方法?」
「『魔術』だよ。まさか『声無し』とでも言うつもりかい?」
「いや……違うけど」
と、私は思う。確かに……『魔術』は誰でも使える。バスを浮かす『魔術』があるように、空を飛ぶ『魔術』だってある。どうして考え付かなかったんだろう。よっぽど怯えていたんだろうか。
でも。
「百メートルなんて途中までしか飛べないよ。すぐに制御できなくなる。魔力が少ない人だっているでしょ?」
「そういう問題もあるね」
澄ました顔で少女が答える。
「駄目じゃん……」
「それに、ここにはお年寄りもいる。難易度はさらに上がるだろうね」
「結局私たちはお終いって、言いたいってこと?」
自分だってバスが墜落したら死ぬ癖に、他人事の少女に嫌味でも言いたくなる。
「選択肢を示しただけさ」
「いい加減にしてよ、私は死にたくない」
「ふむ、なぜ?」
白い髪の少女は笑うのをやめて、首を傾げた。蒼い瞳が私の顔を映す。深々と、海みたいに澄んだ瞳。
さっきも思ったけど、人間離れしている。似た姿の別の生き物から観察されている感じがする。
綺麗なのに怖い。
結果的に私は気勢を削がれて、少女に動機を話すことになる。
「……私、大学生なの。法学部の二年生。勉強でとっても忙しい」
「それで」
「将来は検察になるつもり。そのためにはここで死んでる場合じゃない」
そう、世の中には悪い人がたくさんいる。裁き切れないくらいに。
ついつい自分の夢を話してしまって恥ずかしい。誤魔化せるわけもないけれど、こういうときって咳が出る。
「……あなたは何者なの? 何でそんなに余裕でいられるの?」
「私かい?」
白い髪の少女は言う。
「私はこう見えても『魔術』の専門家さ」
「専門家って……あなた何歳なの? 私より歳下っぽいけど」
「千二百歳さ」
「……馬鹿にして」
「あれだよ、飛び級みたいなものだよ。『魔術』を扱うのには歳は関係ないからねえ。ま、君の事情はわかった。隣の席のよしみだ、この状況を何とかしてみせようじゃないか」
と言って、白い髪の少女は胸を張る。
「本気?」
「本気じゃなきゃこんなことを言わないさ。私はいつだって物事に全力で取り組む性質でねえ。顔を見ればわかるだろう?」
「いや……あなた、すごく胡散臭い」
「胡散臭いと言われたのは初めてだよ」
「そのことに驚きだよ……」
この子の頭はどうなっているんだろう。



