あのとき育てていただいた黒猫です。2

第二匹 ランドセルを背負う猫 ①

 テトはダイニングテーブルで鉛筆を握ったまま頭を抱えていた。

 算数と書かれた自宅学習用のテキストを開いている時は、


「八個の牛乳を三人に配ろうとした時、一人が飲めるのはえ〜と、二本と三口くらい?」

「確かに三人で三口飲んだらちょうど一本くらいになりそうだけど……こういう時は、〝余り〟を出していいのよ」


 瑠璃香が結羅に牛乳を譲って、結羅が気持ちのいい笑顔で「ぷはぁっ!」と飲み干しているイメージが思い浮かんだ。

 国語と書かれたテキストを読んでいる時、


「〝なきっつらにはち〟、の意味? …………あくぎゃくひどう?」

「テトくん、この諺にはね、別に加害者と被害者がいるわけじゃないのよ?」


 テトの首根っこに噛み付いた後、頬を爪で引っ掻いてくるレイラを想像する。

 そう、テトは今、をしていた。

 夜会サロンで他の猫たちに話した通り、である。

 勉強を初めて、かれこれすでに五日が経過していた。

 加えて、その間、テトは勉強だけをしていたわけではない。

 それと並行して、瑠璃香と再びデパートにも行った。学校という場所で学ぶためには多くの道具を揃える必要があるようで、それら一式を買い揃えに行ったのだ。大物で言えばランドセルや教科書、小物で言うと筆記用具などがそれにあたる。

 慌ただしい日々だった。時には結羅と遊び、時には瑠璃香と出かけ、時には勉強をし、家事も手伝った。

 だが、そんな毎日の中でも忘れられなかったこともある。

 先日のおかしなレイラの様子である。

 しかし、夜になるとベランダにやってくる彼女にそのことを尋ねても、


『なんのことですの?』


 と、至極いつも通りの不機嫌顔ではぐらかされるのみ。

 結果、テトはしばらくレイラのことは様子を見ることにした。

 そうして時間はあっという間に過ぎ去っていき──気付けばゴールデンウィークの最終日の夜になっていた。

 そんなテトは今、大きな不安に苛まれていた。

 想像以上に、勉強というものが大変だったからだ。


「やばい、瑠璃香、人間ってこんなにたくさんのことを覚えて生きているの!?」

「確かにそうねえ」

「大変すぎない!? これじゃ二度寝もお昼寝も夕寝もできないじゃん!」

「猫ちゃんは寝過ぎでちょっとだけずるいと思うの」

「むう」


 テトは鉛筆を置いて伸びをした。

 鉛筆が、ぎっしりと書き取り練習をしたノートの上を転がっていく。

 瑠璃香が隣からテトの手元を覗き込んだ。


「でも、たっくさん頑張ったね〜テトくん。えらいえらい」

「そ、そう……?」

「すごいわテトくん。確かに覚えなきゃいけないことはたくさんあるけど、テトくんって頭がいいのね。物覚えがすごくはやい」

「瑠璃香だからそう言ってくれるだけだよきっと」

「ううん、本当に。だって、みんなはこの量を三年間かけて勉強するんだもの。これも猫又の力なのか……それともテトくんの地頭の良さなのかな」


 そう言って、感心した瑠璃香はテトの頭を撫でてくれる。

 勉強のしすぎでしゅわしゅわと頭の中で音が弾ける気分の今、瑠璃香のひんやりした指先はとても気持ちが良かった。


「確かに、頑張ったかも」


 実際、たくさん勉強した。

 数字を覚えて、最低限の読み書きを覚えた。

 漢字はまだまだ全然わからないが、普段自分の話す言葉が──この表現も元猫のテトからすれば奇妙だが──こうして書き文字で表すことができるというのは興味深い事象だった。

 何せ直接本人が目の前に居なくとも、他人の意思を文字として伝えられるということなのだ。

 これだけでも視界が一気に開けるような気分だった。


「あ、もうこんな時間っ」


 瑠璃香が声を上げる。その視線を追って、テトも掛け時計を見た。


「本当だ、もう八時!? ついさっきお昼食べたばっかなのに早いね」

「今日はここまでにして寝る準備しよっか」

「うん」


 テトは、ふわぁああ……、と伸びをしながら頷く。

 時計というものは、猫時代から散々見ていたため、およそではあるが読み方はわかっていた。

 だが、確信を持って今が何時であるか理解できるようになったのは、この算数という分野の勉強をしたここ数日のことである。


「明日は何時に起きないといけないんだっけ?」

「朝の六時半よ。だから、そろそろお風呂に入って寝る準備をしないといけません」

「お、お風呂をスキップしたらもうちょっとゆっくり寝られるんじゃない?」


 瑠璃香はニコリと笑って、


「お風呂をスキップする人は女の子にモテないのよ?」

「僕、瑠璃香がいればモテなくていいんだけど」

「っ」


 瑠璃香は不意を突かれて、照れ笑いを浮かべる。


「きゅ、急に何を言い出すの、テトくん」

「だって、本当のことだもん。だからお風呂、入んなくてもいいよね?」

「そ、それはだめ」

「なんで?」

「おねーちゃん、お風呂に入らない子は好きじゃないなー」


 ちら、と瑠璃香が、片目だけ開けてテトの様子を窺ってくる。


「むっ。そんなこと言われたら入るしかないじゃん……」

「ふふ、テトくん、今日も綺麗にしてあげるね」

「むう……」


 すると、瑠璃香は何かを思いついたように、表情を明るくする。


「そうだ。じゃあテトくん、この一週間くらい、お勉強頑張ったから、何かご褒美あげる」

「ご褒美っ? いいのっ!?」


 その言葉を聞くなり、ぴこんっ、っと頭上から猫耳が出現してしまう。ついでにお尻の上からも尻尾がわさりと顔を出していた。

 瑠璃香はそんなテトの姿を見て、微笑みながらテトの猫耳をサワサワ撫でる。


「もちろん。そうね〜、何がいいかなあ。サバ缶……は、さっきご飯食べたばっかりだし、おやつも食べるにはもう遅い時間だし、耳かきは昨日したばっかだし……」

「じゃ、じゃあさっ」

「? テトくん、何か希望ある?」


 テトは手をあげて瑠璃香に必死にアピールした。

 テトはこれまで猫又になってからずっとしたくてもできていなかった願いを思い出す。

 それは猫時代にテトが瑠璃香によくしていたこと。


「えっとね──」


 テトは瑠璃香にそっと耳打ちした。



 入浴と歯磨きを終えて、寝室に入った二人。

 電気の消えた暗い部屋の中で、瑠璃香の声が響いた。


「テ、テトくん、本当にご褒美、こんなことでいいの……?」

「うん、これがいい。これじゃなきゃ、やだ」


 そう言って、テトは瑠璃香の胸元に顔を埋めた。

 

 そう、テトは今、ベッドの中で寝転んだ瑠璃香の上に覆い被さるようにして寝ていた。

 寝る、というより、抱きつく、の方が近いかもしれない。というのも。


「……僕、こうやって瑠璃香の上で寝るのが一番好き。一番落ち着く」

「テトくん……。そうね、昔からテトくんは甘える時、わたしのお腹の上で丸くなって寝ていたもんね」


 瑠璃香は昔のことを思い出したからか、少し声を詰まらせながら上に乗るテトの背中をゆっくりと撫でた。テトはますます心地良くなって、喉を鳴らす。


「あの時より、ずっと大きいけどテトくんはテトくんね」

「重い?」

「ううん。わたしもね、こうやってテトくんが上に乗ってくれるの昔から好きだったの。テトくんがそばにいてくれるのが、はっきりわかるから。この重さが、安心するの」

「瑠璃香……」


 テトは顔を上げ、瑠璃香の頭の方へ首を伸ばす。

 そして、ペロリ、と姉の頬を舐めた。


「ふふっ、テトくん、くすぐったい」

「瑠璃香、この一週間弱、僕に勉強を教えてくれてありがとうね」

「ううん。テトくんが頑張って人間のこと学んでくれてるの、すごく嬉しいから。だから、おねーちゃんとして精一杯、応援したいの」

「勉強、大変だけど楽しいよ」

「本当?」


 瑠璃香が少しだけ上体を起こしてテトを見る。テトもまた、瑠璃香をまっすぐに見る。



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