あのとき育てていただいた黒猫です。2

第二匹 ランドセルを背負う猫 ②

「うん。知れば知るほど、分かればわかるほど、世界が広がるみたいなんだ」

「世界が、広がる──」

「だから、楽しいんだ。前と違って、今は前に進んでいる感覚があるから」


 そう──恩返しを果たすために、自分が成長できている実感があった。

 だから、楽しい。

 猫又になってからずっと付き纏っていたあの、恩返しのために何から手をつけていいかもわからない焦燥感が今はない。頑張れば頑張るほど、遠回りかも知れないけど瑠璃香への恩返しに繋がっているという自信を持てることが何よりも嬉しかった。


「そっか……」


 瑠璃香はテトの恩返しのことについては知らない。

 しかし、なんとなくテトが何かを思って日々取り組んでいることについては姉として何か察しているところはあるのだろう。

 だから直接的な表現を避けているテトの言葉にも瑠璃香は詮索することもなく、柔らかく微笑んで受け止めてくれる。

 瑠璃香はテトをかき寄せるように抱きしめて言った。


「テトくんは昔から努力家だね」

「いつもじゃないよ。瑠璃香だからだよ」

「……………………テトくん、大好き」

「僕もだよ」


 テトはもう一度、瑠璃香の頬を舐めて、そのまま眠りについた。



 翌朝。

 テトはリビングで糊の利いた制服に袖を通し、新品のランドセルを背負っていた。

 その場でくるりと一回転して、小首を傾げる。


「どう? 似合う……?」


 一瞬の静寂。

 すると、同じくリビングに同席していた結羅が両手で頭を抱えて、


「ぎゃぁああああああっ! 天使がランドセル背負ってんの可愛すぎてヤバすぎる!!」


 絶叫するや否や、テトに飛びかかってハグをしてきた。

 結羅はテトの制服姿をいち早く目にするため、わざわざ朝早くから泉家にやってきたのだ。


「やばいかわいい制服もやばいかわいい、てかやっぱテトのランドセル姿やばいかわいい!!」

「んぎゅぅううう……っ、ゆ、結羅、苦しいよ」


 スレンダーとはいえ所々柔らかい結羅である。

 熱烈なハグをされると、体勢によっては気道が塞がれて息ができなくなる。例えば、今なんて結羅の膨らんだ胸部がテトの喉仏を適切に圧迫していて極まっている。


「る、瑠璃香、たすけ……」


 思わず助けを呼んだ先。当の姉と言えば、


「はあぁ……テトくん、かわいい……よく似合ってるわ」


 頬に手を当てて、うっとりとした目でテトを眺めていた。


「テトくん……おっきくなったね……。おねーちゃん、嬉しい……」

「なあるりぃ、今日はテトと学校休んでもいいか? 一日もふりたい」

「だ、ダメよっ、わたしだってテトくんとずっとお家でゴロゴロするのを、が、頑張って我慢してるんだから……っ」

「んじゃ、いっそのこと三人で今日はサボっちまうか?」

「それはとってもいいアイデ──じゃなくて、ダメよ、今日はテトくんの記念すべき初登校の日なんだからっ」

「むぅ……まあ、初日は大事だよな」

「むーっ、むーっ、むー!」


 頭上で会話が交わされる中、テトは結羅の肩を叩いた。


「あ、わりい、テト」

「ぷはっ!」


 新鮮な空気が肺腑を満たす。

 前にも神社で似たようなことがあったなとぼんやりとした頭で思い出す。

 テトは結羅を恨みがましく見上げ、


「もう、結羅はおっきいんだから、そんなにぎゅってされると苦しいよ」

「えっ、あたしの、でかい?」

「? おっきいんじゃないの?」

「なあ、聞いたかるりぃ? あたしのでっかいって!」


 歓声とともに勢いよく振り返る結羅。

 瑠璃香はじとっとした目でそんな結羅を見る。


「テトくんの教育に悪いわ、結羅ちゃん」

「でっかいと教育に悪いの? そしたら瑠璃香はもっと教育に悪い?」


 テトが尋ねると、


「え、えっと……全然悪くないわ! 全然!」

「あ、自分の教育方針を曲げやがった」

「な、なによ。わたしは家族だからいいのよ」

「その家族って言葉、別に免罪符じゃねえからな?」


 すると、ふと結羅はスマホを見た。


「そういやるりぃ、そろそろ着替えねえとやばくねえか?」

「へ?」

「ほら、いつもならもう家を出てる時間だろ?」

「やだ、ほんと!」


 結羅はすでに制服に着替えている。

 テトも言わずもがな。

 この中で、瑠璃香がただ一人、まだパジャマ姿であった。

 瑠璃香は慌てて自室に駆け込むと、バタバタと音を立てる。

 それから瑠璃香の部屋から悲痛な叫び声が聞こえてきた。


「待って、待ってっ! ゴールデンウィークで買い替えたはずなのに、どうして入らないのっ」

「大丈夫、瑠璃香?」


 テトは心配になって姉の部屋を覗く。そこには新品のタイツにお尻が入らなくて、下着姿のままぴょんぴょん跳ねる瑠璃香の姿が合った。


「……瑠璃香っていっつも大きく育ってるよね」

「べ、べべ、別に太ったわけじゃないのよ!? そうっ、成長しているだけなのっ!」

「おーい、るりぃ、早くしねえと全員遅刻しちまうぞ〜!」

「ちょ、ちょっと待ってゆらちゃんっ! すぐに終わるから!」


 瑠璃香は強引にタイツを引き上げ、シャツ、セーター、スカートにブレザーを次々に着ていく。それから部屋を出て、バタバタと洗面所と自室を二往復くらいしたかと思えば、リビングで待っていたテトと結羅の前に来て、


「お待たせゆらちゃん! い、行こっかテトくんっ!」


 テトに手を差し出した。

 テトは瑠璃香の手を取って大きく頷いた。


「行こう、瑠璃香」


 新しい一日。新しい世界。

 その第一歩を踏み出した。



 学校法人、七旗学院。

 戦前から続く、華族も通った由緒正しき名門校。

 いくつかキャンパスがあるものの、どれも七旗の一等地に居を構えており、幼稚舎から大学まで学舎まなびやを広く開いている。

 そのうちの一つ、メインキャンパスでは同一敷地内に初等科、女子中等科、女子高等科があり、互いに交流しながら学を深めているのである──


「──ってのが、これからテトが通う七旗学院ってところな」

「ほぇええ。よくわからないけど、とにかくでっかいんだね」

「そう、とにかくでっけーんだ」


 満員一歩手前の電車の中。

 テトは右手を瑠璃香、左手を結羅と繋ぎながら電車に乗っていた。

 たった今、結羅から七旗学院なる学校についてレクチャーを受けていたところだった。

 ちなみに男子中等科と男子高等科、幼稚舎と大学はまた別のキャンパスにあるらしい。

 電車に乗るというのも初めての経験で、高速で決まったレールの上を走る鉄の箱には驚かされた。みんな、よくこんな得体の知れないものに乗って、怖くないものだ。外の景色がこんな速さで動いていたら普通、恐怖を感じそうなものであるが。


「テトくんが通う初等科と、わたし達が通う高等科は校舎がすっごく近いから、何かあればすぐにこっちにおいでね。二年B組の泉瑠璃香を呼んでください、って言えば、絶対みんなわかるから。わたしがいなかったらもちろんゆらちゃんでもいいからね」

「わかった」

「同じキャンパス内で小中高生が自由に行き来できるのはウチならではの強みだよなぁ」

「瑠璃香も結羅もずっと同じ学校に通っているの?」

「まあ、そうだな」

「そうね、ずっと通っているわ」

「飽きちゃわない?」


 言うと、結羅は吹き出して、瑠璃香は少し困ったように笑った。


「そりゃあ、飽きる。が、なんだかんだ一年あっという間だから刺激的ではある」

「お友達がいるから毎日楽しく通えているのはあるかもね」


 そう言って笑い合う二人は、なるほど確かにまごうことなき親友だった。

 それから駅を降り、改札を出たほとんど目の前に、キャンパスの門はあった。

 大勢の生徒がその門の中へと次々に吸い込まれていく。

 猫時代、この辺りには何度か遠出の散歩で来たことがあったが、日中に訪れるのは初めてだった。当時は大勢の学生が登校する早朝のこの異様とも言える景色など想像だにしなかった。


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