あのとき育てていただいた黒猫です。2

第二匹 ランドセルを背負う猫 ③

 テトは瑠璃香と結羅に挟まれながら敷地内へと足を踏み入れる。

 瞬間、街の喧騒は遠くへ消え、囲まれた大木や生い茂る草花が風に擦れる音に満たされる。

 まるでススキ様の神社へ行く時のような感覚だった。

 辺りを忙しなく見回しているのはテトだけで、皆、慣れた調子で黙々と歩いていく。


「こ、これが、学校……?」

「テトくん、本当に大丈夫? 無理しなくてもいいのよ……?」


 狼狽えるテトの顔を、心配そうに覗き込む瑠璃香。

 そんな瑠璃香に気づいたテトは、ふんっ、と自分に活を入れ、表情を引き締めた。


「全然、大丈夫。人がちょっと多くてびっくりしただけだから」

「そう……? それならいいんだけど……」


 そう言って、瑠璃香と結羅は荷物を抱えなおして、正面を向く。

 二人はテトの初日の大荷物を分担して持ってくれているのだ。

 そうして大樹の作るアーチの下を歩いていくと、ついに初等科と、中・高等科とに分かれる岐路に差し掛かった。

 そこで別れるのかと思いきや、二人とも慣れた様子で初等科の方へと歩みを進める。


「ふ、二人ともいいの? 方向、こっちじゃないんでしょ?」

「最初に担任の先生に挨拶をしないとだからね」

「この荷物だってテト一人だときちーだろ」

「あ、ありがとう」

「いいのよテトくん。わたしはテトくんのおねーちゃんなんだから」


 そう言ってさらに歩くと、果たして赤い煉瓦で作られた、燃えるような紅色の校舎が見えてくる。その手前の昇降口に進むと、大人が一人、立っていた。


「あ、担任の先生だわ、きっと」

「…………ん?」


 テトは目を凝らした。

 どこか見覚えのあるシルエットだったのだ。

 そして距離が縮まるにつれ、その予感は確信へと変わった。

 くるくるに巻いたミルキーホワイトの長髪。垂れ目な大粒の瞳に、小さな泣きぼくろ。高い身長はスタイルの良さよりもまず、その豊かにすぎる胸元の主張をありありと際立たせている。

 結羅よりも瑠璃香よりも、あのススキ様よりも大きくて、どこか甘いミルクの香しい匂いがするその女性は──


「あっ!! 乃々愛さん! なんでここに!?」


 なんと、先日、七旗神社で出会った謎多きお姉さん──乃々愛であった。

 乃々愛は頬に手を当ててほわ、と笑う。


「うふふ。言いましたでしょ〜、泉くん。ここで出会ったということは何かの縁があるということだって」


 瑠璃香と結羅が驚いた顔でテトを振り返る。


「テ、テトくん、乃々愛先生のこと知ってるの?」

「う、うん。この前、たまたま神社で会って」

「そ、そうなの……?」


 瑠璃香はなんとなく頷きながら口の中で「神社って、でも、え……?」と呟きながら、しかし気を取り直して向き直る。

 そして多少まだ戸惑った表情を残しながらも、しっかりと乃々愛に挨拶をした。


「おはようございます、乃々愛先生。お久しぶりです」

「あらあら、大きくなりましたねえ〜、泉さんも逆瀬川さんも」

「よっ、ののっち。相変わらずおっぱいでっけーな。また顔挟んでもいい?」


 結羅はまるで往年の友人に挨拶をするかのように片手を上げる。


「うふふ、だめですよー? そういうのは泉さんにしてもらってください〜」

「るりぃのはちょっと飽きた」

「……ゆらちゃん? いつもダメって言ってるのにお顔入れてくるのはどこの誰かさんだったかしら? そんなこと言うなら、今度こそ絶対に触らせてあげないから」

「わ、悪かったって、そんなに怒んなよ〜っ」

「あらあら、うふふ。変わらず仲がいいですね、二人とも」


 それから乃々愛はテトを見て、目線を合わせるように中腰になった。

 その拍子に、だぷん、と巨大に過ぎる豊乳が左右にたわむ。


「改めてこんにちは、泉テトくん。泉くんは泉さんの遠いご親戚だったのね」

「は、はい。ずっと海外でホームスクーリングしていたんですけど……しばらく瑠璃香のところに住むことになって、せっかくだから瑠璃香と一緒の学校に通いたいな、と」


 瑠璃香と口裏を合わせるため、ずっと練習してきたフレーズだった。

 無意識に握っていた拳の中で汗が広がる。

 少し早口すぎただろうか。

 しばしの沈黙の末、乃々愛は柔和な笑顔で頷いた。


「そうでしたかあ〜。これもまた巡り合わせですねえ。うふふ、どうりで可愛らしい子だと思いました。泉さんのご親戚なら納得ですねえ〜」

「えっと、ありがとうございます?」


 乃々愛が立ち上がると、瑠璃香が書類の入ったクリアファイルを差し出した。


「乃々愛先生、これ、言われていた書類です。遅くなってしまってすみません」

「まあ、ありがとうございます〜。助かります、さすが泉さんですね〜」

「い、いえ」


 乃々愛が瑠璃香からクリアファイルを受け取る。


「────」


 その時、一瞬だけ乃々愛の動きが止まった。

 両手で持った書類。その表面を、乃々愛の柔和な瞳がゆっくりと撫でる。

 テトは思わず隣に視線を投げた。瑠璃香と目が合う。

 瑠璃香が気まずそうにしているのは、きっとその書類のほとんどがススキ様による偽造であるからだろう。テトは口の動きで「大丈夫だよ」と言った。

 すると、乃々愛は書類から顔を上げる。


「…………はい、書類も大丈夫そうですね」


 無言でテトと瑠璃香が同時に大きく息を吐いた。


「泉くん、今日は教科書とか持っていますか〜?」

「は、はい。一通りはここに」

「素晴らしいです〜」


 テトは瑠璃香と結羅から受け取った荷物を両手で持ち上げて見せた。

 瑠璃香が事前に担任の先生と──蓋を開けてみれば、その正体は乃々愛であったわけだが──密に連絡をとっていてくれたため、こうして短期間でも必要な持ち物などの情報は筒がなく把握できていた。

 これも、幼稚園から大学までの一貫校だからこそできる芸当なのだろう。


「それでは今から泉くんの教室に案内しますね〜? 泉さん、逆瀬川さん、泉くんは先生がしっかり面倒を見るので安心してくださいね〜」

「は、はい。乃々愛先生なら安心です」

「ののっち、今度瑠璃香と原宿でクレープ巡りしようって言ってんだけど、ののっちも一緒に行こ〜ぜ〜。ミルク感強いクリーム、好きだったろー?」

「まあ! それはなんとも魅力的なご提案ですね〜。ぜひ、日程を連絡してください〜」

「よっしゃ、約束だかんな!」


 結羅と乃々愛が何か別の話で盛り上がっている間、瑠璃香はテトの手を強く握る。


「テトくん、忘れ物はない?」

「ないよ、瑠璃香」

「筆記用具は持った? ノートと教科書は?」

「大丈夫、ちゃんとある」

「お弁当もある? あとは運動靴に体育館用の靴に……」

「瑠璃香、大丈夫! さっきも電車の中で確認したでしょ? ちゃんと持ったよ」

「そ、そうね……大丈夫よね」


 瑠璃香はなかなか繋いだテトの手を離そうとしない。

 すると、そんな瑠璃香の頭に結羅が軽くチョップを入れた。


「ほら、るりぃ。せっかくテトが男として独り立ちしようってんだ。見守ってやろうぜ」

「う、うん……。そう、よね……」


 その時、チャイムが鳴った。猫時代に聞いたことはあるが、突然鳴らされると飛び跳ねそうになる。すると、瑠璃香と結羅が慌てた表情になる。


「やべっ、あたしらもいかねえと」


 瑠璃香は名残惜しそうにテトの手から指を解いた。

 それから乃々愛に向かって頭を下げて、


「……乃々愛先生。テトくんを、よろしくお願いします」

「はい〜、任せてください」

「それじゃ瑠璃香、結羅。行ってくるね」

「頑張ってね、テトくんっ」

「頑張れよーテト!」


 テトは瑠璃香と結羅に手を振って、校舎の中へと入っていった。



 匂いが変わった。

 青っぽい春の香りがする──校舎の階段を上り廊下に出ると、真っ先にそう感じた。

 右手から差し込む陽光は、三角定規みたいな形をしている。宙を舞う埃すら、陽の光を受けてガラス細工のようにキラキラ光って見えた。


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