あのとき育てていただいた黒猫です。2

第二匹 ランドセルを背負う猫 ④

 窓の下に連なるのは体操着の入った巾着。教室の壁には黒くて太い筆で書かれた〝正直〟の二文字がずらりと並ぶ。

 廊下には教室から先生の声や、生徒たちのはしゃぐ声が響いていた。


「朝の会の時間になっちゃってるので、ちょっとだけ早足で向かいますね〜」

「は、はい」


 テトは眼前を進む乃々愛のタイトスカートに包まれた尻を追いかける。


「これが、学校」


 呟いてみるが、実感はなかった。

 まるで夢の中を歩いているような感覚である。


「泉くんの教室は四年一組。みんな良い子ですから、すぐに仲良くなれますよ」


 ふと顔を前に向けると、歩きながらこちらを振り返る乃々愛と目が合った。

 乃々愛はテトを安心させるように柔らかく微笑む。

 テトは笑おうとしたが、結局うまくできずに頷きだけを返す。

 そこでようやく、テトは自分が緊張していることに今更ながら気がついた。


「緊張していますか?」


 心を読まれたのだろうか、と一瞬驚いたが、なんてことはない。

 テトが分かりやすく固くなっているだけである。


「……別に、緊張なんてしてませんよ」

「そうですか? うふふ、それはすごいですね。先生なんて今でも、初めて会う子たちの前でお話しする時は緊張しちゃいますよ〜」

「乃々愛……先生も緊張するんですか?」


 瑠璃香が乃々愛と呼んでいたことを思い出した。テトもそれに倣う。


「しますよぉ〜。今だって、泉くんがどんなことに興味があって、どんなことが好きで、どんなふうに成長していくのか、わくわくしすぎてしまって緊張しちゃってます〜」

「それは本当に緊張なんですか……?」


 垂れ目の乃々愛の目尻が笑うことでさらに三日月になる。

 甘くて溶けてしまいそうな、柔らかな視線。

 その瞳を見ていると、姉たる瑠璃香のそれともまた違う、大人の落ち着きを感じた。

 廊下の角を曲がる。ここまでが四年五組と四組の教室。

 この先に、三組、二組と続き、目的の一組が最後にやってくる。


「そんな私から泉くんに、緊張しちゃう時のとっておきのおまじない、一個教えてあげます」

「おまじない?」


 妖術か? と訝ったが、すぐに違うと思い直す。

 人間に妖術は使えない。ここでは願い事、みたいな意味だろう。


「手のひらに〝人〟って漢字を三回書いて飲み込むんです」

「…………??? どうやって飲むの?」

でいいんですよ〜」


 そう言って乃々愛は実演して見せる。

 手のひらに二本の線を書く動作を三回繰り返し、最後にそれをヒョイと口の中へ放り込む。


「はい、これでおしまいです」

「それだけ?」

「ええ、簡単でしょう?」

「…………」


 テトは半信半疑のまま、乃々愛の動作を真似てみる。

 手のひらに不恰好なバッテン印を三度描き、口の中に入れて飲み込むをする。

 ………………。


「何も起こりませんよ?」

「ほら、もうさっきに比べて全然緊張していないようですね。おまじない、成功です」


 テトはきょとん、として動きを止める。

 なるほど、確かにさっきまであったどうしようもない焦燥感のようなものはない。しかし、


「……それは乃々愛先生と喋っていたから──」


 テトの台詞は、最後まで言い終えることはなかった。

 立ち止まった乃々愛が、人差し指をテトの唇に当てて、テトの言葉を塞いだのだ。


「うふふ、おまじないの力、ですよお〜?」


 乃々愛は陽光を一身に受けながら、首を傾げて微笑んだ。

 それを見たテトはふ、と身体から力が抜けるのがわかった。

 このミステリアスな空気を身に纏う女性は、こういうことを自然体でするからどこか憎めない。そういう、不思議な力がある。

 テトは乃々愛に向かって笑った。


「ありがとう、乃々愛先生」

「はい、どういたしまして〜」


 乃々愛は軽くテトの頭を撫でた。

 それから乃々愛はさっ、と身を翻すと、


「さあ、いつの間にか着いちゃいましたね」

「────」


 見上げた教室札には〝四年一組〟の文字が並んでいた。

 テトは小さく身震いした。これは武者震いだと、自分に言い聞かせた。


「大丈夫。泉くんなら、何だってできますよ」


 そう言って乃々愛が扉を開く。

 廊下の空気が教室へと緩く吸い込まれる。

 テトの背中が、ぽん、と押される。


「────」


 大きく一歩、踏み出した。



 そこには人間がたくさんいた。小さな人間だ。

 髪も顔も、身体の大きさも、何もかもが様々だった。

 皆が好奇心に目を輝かせて、テトを見上げていた。


「さあ皆さ〜ん。今日から新しい仲間が加わりますよお〜。拍手〜!」


 乃々愛に似たのか、生徒たちは皆、素直に手を叩く。

 そして、皆が口々に囁いていた。


「ねえ見て、すっごく可愛い子!」

「綺麗な髪……それに、不思議な色の目。宝石みたい」

「猫みたいで可愛いい〜っ」

「ぜったい男子にモテるよ!」

「でもなんか歩き方的に男の子じゃない?」

「え〜〜でも……ほんとだ、そうかも」

「だとしたらもっと可愛い! あんなに可愛い子が男の子だなんて!」


 きゃ〜っ! と主に少女たちの間から黄色い声が上がる。

 男子といえば──チラチラと恥ずかしそうにテトの顔を見ては視線を逸らし、再び盗み見るようことを繰り返す。

 ……何だろう、何か不本意な感情を向けられている気がする。

 テトのランドセルをはじめとした持ち物は、乃々愛が教卓に置いて預かってくれた。

 そのまま教壇の上に促されるままに立ち、一同を見回す。


「さ、泉くん。自己紹介してもらってもいいかな?」

「う、うん」


 さざなみのように緊張感がまた押し寄せてきてしまう。

 やはり、見知らぬ人間がたくさん集まって、一様にテトに注目している状況は、否が応でも緊張感を生む。しかも、今はいつも隣にいる瑠璃香がいない。一人である。


「────」


 息を吸う。

 いや、大丈夫だ。こんなの、ちょっと規模の大きい夜会サロンみたいなものだ。

 隣町の猫たちを交えた夜会サロンだったら、もっと殺伐としていた。いつお互いがお互いの猫に飛びかかって血が流れるかわかったものではない中で、テトは幾度となく話し合いの場を渡り歩いてきた。

 それに比べれば屁の河童。

 テトは口を開いた。


「は、初めまして。僕の名前はテト。泉テトです」


 言う。


「ついこの前まで海外に住んでいて、ホームスクーリングで学んでいました。色々と事情があって、今は親戚の家に住んでいます。が、学校に通うことは初めてなのでわからないことだらけですが、みんなと楽しく過ごせられれば嬉しいです。よろしくお願いします」


 捲し立てるように、一気に吐き出した。

 途中でつっかえた。相変わらず早口になってしまった。

 でも──ちゃんと言えた。

 再び上がる拍手。広がるざわめき。

 海外に住んでいたことについてや、親戚と暮らしていることについての会話も多く聞こえる。

 すかさず、一人の少女が勢いよく手を上げた。


「はいはいはいっ! 質問! 泉くんの趣味は何ですかっ?」

「え、え〜っと」


 テトは乃々愛を振り返る。

 教卓の椅子に座る乃々愛は、笑顔のまま手のひらを向けて答えを促した。

 テトは喉を鳴らし、息を吐くと、少女を向き直る。


「しゅ、趣味は……」


 猫じゃらしで遊ぶこと?

 瑠璃香の洗濯物をぎゅってすること?


 ……サバ缶?

 違う違う。


「──散歩、です」


 捻り出した答えは、そんな当たり障りのないものだった。


「ええ〜、素朴! なんか逆に可愛いかも〜!」

「あんたさっきから可愛いしか言ってないの気づいてる?」

「だって可愛くない?」

「可愛い」

「じゃあいいじゃん」


 さらに次々に手が上がり──これもまた女子が中心に──乃々愛が適当に指名する。


刊行シリーズ

あのとき育てていただいた黒猫です。2の書影
あのとき育てていただいた黒猫です。の書影