あのとき育てていただいた黒猫です。2

第二匹 ランドセルを背負う猫 ⑤

 乃々愛に指された、引っ込み思案そうな少女は、恥ずかしそうに手元をいじりながら上目遣いにテトを見て、


「えっとぉ……泉、くんは、す、すす、好きな人のタイプとか、いるんですか?」

「好きな、人の、タイプ?」


 テトは首を傾げた。教室の中が一気に色めきたつ。


「ぼ、僕、タイプとか言われてもわかんないよ」

「じゃ、じゃあ、この教室の中から選ぶなら?」


 女子が一斉に口を噤んで固唾を飲んだ。


「う〜ん、そう言われても……」


 テトはぐるりと教室を見回す。

 あまり生徒の中にピンとくる雰囲気の人が見当たらない。

 しかし、イメージとしては最初から固まっていた。

 つまり、瑠璃香である。

 もっと言えば、瑠璃香や結羅、ススキ様といった、大人っぽくて、優しくて、包容力があって、それでいて茶目っ気のある女性だ。

 ──と、首を黒板の端まで捻ったところである一人の顔で視線が止まった。

 まだその人のことはよく知らない。

 しかし、この空間の中で、という話であれば彼女以上に当てはまる相手はいないだろう。

 テトは満を持して言った。


「強いて言えば──乃々愛先生かな」


 直後、教室の中は悲鳴で溢れ返った。


「やっぱりおっぱいだ! おっぱいがなきゃダメなんだ!」

「私たちが戦えるようになるまで一体、どれだけの月日つきひが必要なの……!?」

「何年経ってもあのおっぱいは手に入らないよ……」

「でも待って。よく考えてみると、今の私たちは将来巨乳の可能性もあるし貧乳の可能性もある、量子のもつれ状態……つまりこれがシュレディンガーのおっぱいってことじゃ!?」

「落ち着いて。今のあたしたちが貧乳である事実は変わらないわ」

「じゃあどうしろっていうの!? ロリ巨乳なんて幻想よ!!」


 そんな阿鼻叫喚の嵐の中、当の乃々愛と言えば頬に手を当てて、


「もう〜、泉くん。そんなこと言われると照れてしまいます〜」


 優雅に微笑んでいた。

 それから乃々愛の余裕ある振る舞いで格の違いを見せつけられた少女ら一同は黙し、その隙をついてテトに席を案内した。


「泉くんの席は後ろのこの場所よ〜」


 ランドセルやら何やら大荷物を抱えたテトは、机の林を掻き分けるようにして乃々愛に指定された席まで辿り着く。

 その間、男子たちからは嫉妬とも憧憬とも取れる複雑な視線を一身に受けた。

 一方、席につくなり前方および左右に座る女子からは、


「あ、諦めないんだからねっ」

「よろしくね〜泉くん。乃々愛先生には負けないよ」

「と、年上なんかじゃなくて同級生のいいところ、これからじっくり教えてあげるんだから」


 などと謎の宣戦布告をされる始末。


「じゃあ、早速お知らせのプリントを三枚これから配りますよお〜」


 乃々愛の一言で、まるでスイッチが切り替わったかのように、教室の空気が穏やかなものへと変わる。それが、この教室の日常の空気感なのだとすぐにわかった。

 すると、テトの前の席が再び振り返って聞いてくる。


「ねえ、泉くん。さっきは誰もはっきり聞かなかったけど……泉くんって、どれ?」


 性別的に、と女の子は付け加えた。

 すると、教室のざわめきが一段階も二段階も静かになるのがわかる。

 ただの前後の席の会話なのに、教室内の全員が耳を傾けているのがわかった。

 テトは唇を尖らせると、はっきり言う。


「よく間違われるけど、こう見えて僕──オスだよ」


 広がるしばしの静寂。

 数秒後、「オスって何!?」というクラスメイトたちの絶叫が校舎の外まで響いたことは言うまでもない。



 チャイムが鳴り、今日一日の授業が全て終わったことを報せる。

 テトは鉛筆を放り出し、机の上に突っ伏した。


「おっ、わっ、たぁっ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜!!」


 今のテトの頭からは湯煙が出ていてもおかしくなかった。

 そういう次元で、疲れ果てた。


「泉くん、お疲れー」

「授業かったるいよね〜、わかる〜」

「しかもゴールデンウィーク明けだもんね、そりゃしんどいよ! あたしもしんどい!」


 そう言って、皆テトを労ってくれる。

 教室の皆は、とても温かかった。


「……これが、人間の群れ」

「ん? 何か今言った?」

「ううん、何にも。お腹すいたなあ、って」

「わかるー! 早く家帰ってご飯食べて遊びに行きたい!」


 それから終わりの会、という授業とは違う情報共有の時間があり、それも終わるといよいよテトは学校から解放された。


「…………確かに、これは結羅が行きたくないって言い出す理由もわかるかも」


 学校は刺激的で楽しい。たった一日でそのことがよくわかった。そして心底思う。


「思い切って学校に来てよかった」


 そうして、ヘロヘロになりながら身支度を調えていると、


「ねえねえ、泉くん、一緒に帰ろ?」

「泉くんの家ってどっち方面?」

「普段、どこで遊んでいるの?」


 などなど一斉に少女たちに囲まれてしまう。


「えっと、えと……」


 助けを求めて乃々愛の姿を探す。しかし、乃々愛はすでに教室を後にして職員室へ向かった後らしい。そうこうしている間に、次々にテトを囲む人垣は分厚くなっていく。気がつけば、他のクラスからも噂を聞きつけた生徒たちが次々に集まってきていた。

 こ、これは一体、どうしよう──

 そうしてそのまま圧死寸前まで追い込まれた時。


「お〜いっ、テトー!! 一緒に帰ろーぜー!!」


 突如として、雷鳴の如く大声が響き渡った。教室の窓の外からだ。

 それは、涙が出そうになる程懐かしささえ覚える声だった。


「ちょっと、ごめん、みんな通してっ」


 人垣を掻き分けて窓際に駆け寄る。

 すると、人垣もまたテトを追いかけて窓際へと集まる。

 慌ててガラス窓を引いて開けると、眼下には見知った顔があった。


「ゆ、結羅、どうしてここに!?」


 帰宅するため校庭を横切る小学生たちが、突然現れた結羅のことを興味津々に眺めていく。

 結羅は校舎を見上げながら、声を張った。


「るりぃから頼まれたんだよ! 今日から委員会の仕事で忙しくなるんだと! だから今日はあたしと一緒に帰るぞ!!」

「わ、わかったっ!」


 すると、窓という窓に張り付いた同級生たちが結羅を眺めて口々に驚きの声を作っていた。


「ま、また巨乳のお姉さんなんだけど……」

「しかもあれって、高等科の逆瀬川先輩じゃない……?」

「誰それ?」

「あれだよあれ。学校に通いながらとーし? をして何億も稼いだおねーさん」

「やっば、何それ神じゃん」

「しかも超可愛いし」

「あの制服、自分で改造してるんだって。センス良すぎてえぐいよね」


 ……なるほど、どうやら結羅はここでは有名人らしい。

 クラスメイトたちがにじり寄ってくる。


「ねえ、泉くんってどうやって逆瀬川さんと知り合ったの? どういう関係?」

「彼女? ねえ、彼女なの?」

「泉くんってもしかして、年上好き……?」


 教室の隅に追い込まれる。


「えっと……その……僕、もう行かなきゃだから!」


 テトは教室の床を強く蹴ると、天高く人垣を飛び越えた。

 とん、と。軽々と。


「え?」「へ?」「は?」


 皆が呆然としたまま頭上で弧を描くテトを眺める。

 そうしてテトは縦に回転しながら、人垣を越え──着地した。

 テトは自分の机に駆け寄って、ランドセルを回収する。


「じゃ、みんな、また明日ね!」


 そして窓際で立ち尽くす同級生たちに手を振って、そのまま教室を後にした。

 十秒後。

 テトが階段に差し掛かったところで絶叫が聞こえてくる。


「泉くんって、サーカス出身か何か!?」





「お待たせ、結羅」

「おう、遅かったな」


 上履きから履き替えて昇降口を出ると、木陰の中で結羅が一人立っていた。

 結羅は上げた片手をヒラヒラさせてテトを出迎える。


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