あのとき育てていただいた黒猫です。2
第三匹 姉を訪ねて ①
朝起きて、学校に行く。
学校で同級生と机を並べて、勉強をする。
放課後、結羅と社会科見学をする。
そして夜、瑠璃香と宿題をして、少しだけ遊んで寝る。
それが、テトの新しい日常だった。
「それじゃあ、ここの問題を泉くん。式と一緒に答えてくれますか〜?」
「はい」
算数の授業。
教壇の上でいつものスーツ姿の乃々愛が、チョークと教科書をそれぞれ片手に持ちながら生徒を一人一人当てていき、指名された生徒が回答していく。
テトは緊張混じりに立ち上がって、式と答えを述べていった。
「答えは六です。かっこの中を最初に計算するから、まず三十足す四十二をして──」
算数。国語、理科、社会。
体育、音楽、道徳、図画工作──
大所の授業だけでもこれだけの種類が存在する。
その他にも、朝の会に帰りの会、読み聞かせのイベントに、日直の仕事や掃除。
大きな催し物でいえば、運動会や水泳大会、文化祭というものもあるという。
そうした授業やイベント以外でも、休み時間になればクラスメイトと遊戯に勤しむし、時によれば喧嘩をしたり、その仲裁をしたり、仲直りをしたりと忙しい。
そう──学生というものは、とても忙しかった。
そんな学生にとって、憩いの時間がある。
それは、昼休みである。
「お昼だー!」
四時限目のチャイムが鳴るや否や、生徒たちが大きなため息とともに喜びの声をあげた。
ノートや筆記用具を片付け、机を移動させる。
昼食の時間は、近くの生徒と机を寄せて島を作り、一緒に食べるのだ。
テトはランドセルを開け、中からお弁当を取り出した。
世の中には給食と言って、学校側で食事が提供される方式もあるようだが、テトはこのお弁当の方式で良かったと思った。
なぜなら、学校でも瑠璃香の手料理が食べられるからである。
──と。
「あれ……?」
巾着の中から取り出した弁当箱を見て首を傾げた。
可愛らしいピンク色の布に包まれた、小ぶりの二段弁当。
いつものテトの弁当箱は黒を基調としたものだった。つまりこれは、
「……やば、間違えて瑠璃香のお弁当、持ってきちゃった」
どうやら巾着が同じものを使っていたため、間違えてしまったらしい。
「どうしたのテトっち?」
同じ島のクラスメートの少女がテトに訊ねる。
「ごめん、今日は一緒に食べられないかも」
「えーっ、どうして?」
「えっと、……間違えて、お姉ちゃんのを持ってきちゃって」
「え、テトっちってお姉さんいたの!?」
「まあね」
詳しく聞かせろー! と叫ぶ少女を置いて、テトは乃々愛の座る教卓に向かって歩いた。
「ねえ、乃々愛先生」
「は〜い。なんでしょう、泉くん」
乃々愛は弁当箱を広げようとしていた手を止めて、テトを見上げた。
……それにしても相変わらずとんでもないサイズの弁当箱だった。弁当箱、というより弁当タワーである。重箱を積み上げたそれらの中身は、いつも全てが野菜なのだそうだ。
相変わらず、質の良いミルクの匂いも漂っている。この匂いを嗅ぐたびに、テトは思わず喉を鳴らしてしまった。
「僕、これから高等科の方に行ってきてもいいですか? 僕、間違えて瑠璃香のお弁当箱を持ってきちゃったみたいで」
「あらあら、それは大変ですねえ。はい、大丈夫ですよ〜。そのまま一緒にご飯を食べてきてもいいですし。五時間目のチャイムまでには帰ってきてくださいね〜」
「えっ、いいんですか?」
そんなにあっさりと認めてもらえるとも思っていなかったので、驚きの声をあげる。
乃々愛はニコニコ笑いながら頷いた。
「全然大丈夫ですよお。同じ学院内ですし、学院の方針が学年の壁を気にすることなく〝みんなで仲良く〟過ごすことですから〜」
「ありがとう、乃々愛先生!」
「はい、どういたしまして〜。──あ、そうだ」
すると、乃々愛は教卓の下からプラスチック製の箱をガシャン、と音を立てて自分の机の上に乗せる。
「泉くん、行く前に牛乳、飲んでいってください〜。他のみんなにはこれから配るので」
その箱には、ずらりと牛乳瓶が並んでいた。
そう、この学校では弁当制を採用している一方で、唯一牛乳だけは毎日配られるのだ。
「う〜、でも、僕早く瑠璃香のところに行きたい気も──」
「ほらほら、余っちゃうとじゃんけんになっちゃいますし、何より、泉くんの大好物ですよ〜?」
「うっ……」
逡巡したのはたったの一秒。
乃々愛が笑顔で差し出した一本を受け取ると、テトは一気に中身を煽った。
ごくごくごく! と勢いよく牛乳の
その間、乃々愛は幸せを噛み締めるような表情でテトが牛乳を飲む姿を眺めていた。
いつものことなのだが、いつものことながら乃々愛はよくわからない人間だ。
そしてテトは一度も息継ぎをせずに一本を丸々飲み切った。
「ぷはっ」
この牛乳、どういうわけかこれまで口にしたどの牛乳に比べて異様に美味しいのだ。
喉越し。舌触り。風味。そのどれもが完璧を超えている。
そして何より、飲んだ後──
「ねえ、乃々愛先生。この牛乳、何か入ってる?」
「何も入ってませんよ〜?」
「なんか、学校の牛乳を飲むたびに、身体の奥底から力が湧いてくる気がするっていうか……」
感覚で言えば、初めて猫又として現界した時に感じた妖力の脈動に近いものがある。
「急に何を言い出すんですか、もう〜。何も入ってませんよ〜。最初から牛乳ですよ〜」
「あっ、もしかしてこれがエナジードリンクってやつ? エナジーミルク?」
「テトくんにとっては、似たようなものかもですね〜」
それからテトは乃々愛に礼を言って空き瓶を返す。
「あれ……?」
その時、少しの違和感を覚えた。
牛乳瓶の入った箱から一本も減っていなかったのだ。
しかし、空き瓶は確かに一本、乃々愛の手の中にある。
「……?」
「ほら、早く行かないと時間がなくなってしまいますよ〜」
「そ、そうだ! じゃあ、いってきます!」
「はい、いってらっしゃい〜」
ハッと我に返り、踵を返す。
──校舎内で瑠璃香に会える! もしかしたら結羅にも!
放課後、毎日顔を合わせている二人であったが、校舎の中──特に高等科の中で会えるというのはどこか特別に感じた。
「えーっ、泉くん、高等科にお弁当食べに行っちゃうの!?」
「うん、そうなんだ。みんなまたあとでね!」
テトはクラスメイトに手を振って、教室の外へ飛び出した。
高等科の校舎は、初等科の校舎から走って三十秒もかからない距離にあった。というのも道路を挟んで──そう、キャンパスの中には私道が何本も走っているのだ──すぐ隣に位置しているのである。
弁当の中身が崩れないように慎重に運びながら、早足で進む。
瑠璃香と結羅に会える──
そう思うだけで、気が急いてしまっていた。
私道を渡り、高等科の敷地に足を踏み入れる。
何面も並ぶテニスコートを横目に進み、やがて最近建て替えたばかりだという室内温水プールが現れた。さらにその建物の影から出ると、ようやく高等科の校舎が現れる。
初等科とはまた違ったデザインだ。現代的とも伝統的とも相反した印象をしかし、見る者に同時に与える優れた意匠である。
そこはすでに花園の最中であり、いつの間にかテトの周囲には昼休みを謳歌する華の女子高生たちが往来しては、テトへ釘付けとなっていた。
「ね、見て、初等科の子だ〜。可愛いーっ」
「やば、このまま授業にお持ち帰りしたいんだけど」
「あんた次の授業、茶道でしょうが。持ち帰ってどうすんのよ」
「だからあたしの
「……保健室までついて行ってあげるから、ね? お医者さんに診てもらおっか。大丈夫、きっと良くなるから」



