あのとき育てていただいた黒猫です。2
第三匹 姉を訪ねて ③
瑠璃香は慣れない大声を出したからか、肩で息をしていた。
そして、言葉を繋げる。
「テトくんの名前は、泉テト。わたしの遠い親戚の子で、そして──」
チラリとこちらに視線を落とした瑠璃香と目が合う。
一瞬の硬直。
それから瑠璃香は顔を上げて、言った。
「──わたしの大事な家族。だからみんな、落ち着いて、ね?」
一秒。二秒。三秒。
────…………。
張り詰めていた空気が僅かに弛緩する。
「う、うん……」
「ご、ごめん、ちょっと取り乱した」
「我を失っていたよ……ごめんね、るりちゃん……」
ギラついていた少女たちの眼光が次第に穏やかな瞳に変わっていき、引いていく波のように興奮の渦が散り散りになっていった。
結羅の拘束も解放され、結羅は息を吐きながら伸びをする。
そうして今度は、収拾のつかない曖昧な空気が流れ出した頃。
教室の外が何やら騒がしくなった。
騒動を聞きつけた先生が事態の収拾にやってきたのだ。
大海原を泳ぐように、大量の人垣を掻き分けて高校の教師らしき女性がやってくる。
教師は「教室に戻らない生徒は指導室に連行するわよー?」と宣い、そこでようやくB組の教室内外の女生徒たちは渋々と言った様子で、何度もテトを振り返りながら解散したのだった。
「あ、ありがとうテトくん! お弁当が入れ替わっちゃってたの、全然気づいてなかった!」
「ううん、僕のほうこそごめん。僕が間違えて持ってきちゃったみたいで」
テトは瑠璃香の膝の上に乗った状態で、瑠璃香と話していた。
瑠璃香は自分の椅子を百八十度回転させ、後ろの席を挟んで結羅と向かい合って座っている。
結羅はといえば、隙を見てはテトにアプローチを仕掛けようと目論んでいるクラスメイトに睨みを利かせて牽制していた。
「ねえ、瑠璃香。今日は僕もここで一緒にお弁当を食べて行ってもいいかな?」
「私はもちろん嬉しいけど、テトくんはクラスのお友達と一緒に食べなくてもいいの──」
テトの人間関係を心配してくれる瑠璃香。
しかし、途中で言葉を切り上げる。
なぜか?
それは、周りに待機していた少女たちが必死の表情で首がもげそうになる勢いで激しく首を横に振って「絶対に引き止めろ」と口パクしていたからである。
瑠璃香はその光景に怯えた表情を見せる。しかし、結局はテトの方を向き直って、
「い、一緒に食べよっか、テトくん!」
「やった!」
瑠璃香と結羅を除く七旗学院高等科二年B組の生徒全員が、瑠璃香に親指を立てた。
早速、テトは一緒に持ってきた自分の弁当箱を広げる。
瑠璃香と結羅とテト。
三人の風呂敷が一つの机の上で開いた。
一気に美味しそうな匂いが広がる。
瑠璃香とテトの弁当箱の中身は、ほとんど同じだった。
違いがあるとすれば同じ卵焼きでも形がいいものがテトの方に入っていたり、焼き色が上手くつかなかったチキンソテーが瑠璃香の方に入っていたりという具合である。
この時初めてテトは、瑠璃香が弁当箱の中身に至るまでテトに状態のいいものを詰めていてくれたことを知った。
この瑠璃香の行動は、弁当に限った話ではなかった。
朝食も昼食も夕食も、間食も、たまに作ってくれるデザートも、全て。
テトにいいものをくれるのだ。
すると、結羅がテトと瑠璃香の弁当箱の中身を覗いて、羨ましそうな声を上げる。
「いいな、テト〜〜〜〜。学校でもるりぃの手作り弁当が食えんのかよ」
「ふふん、いいでしょ」
テトは結羅の弁当箱を覗き込んだ。
正確にはそれは弁当箱ではなかった。
形は似ているが、平べったく、プラスチック容器に入っている、
テトは首を傾げた。
「結羅のお弁当も美味しそうだけど……なんか僕たちのと違うね」
「そりゃあな。こいつはコンビニで買ってきたんだ」
「コンビニ? 何それ?」
結羅は信じられないものを見るかのように、テトと瑠璃香の顔を見て往復した。
「テ、テトをコンビニに連れて行ったこと、ないのかるりぃ?」
「だ、だめ? だって普段、あんまりコンビニって行くことないから……」
結羅はショックを受けた顔をした。
「なんでだよ! 社会勉強をするならコンビニ以上に最適な場所はねーだろうが! 頻繁に変わるラインナップに、趣向を凝らされたパッケージ、計算され尽くされた商品棚の配置に新商品から見て取れるこれからの経営戦略! あそこは経済の縮図、言ってしまえば資本主義のテーマパークだろ!」
「ほら、テトくん。おねーちゃんの卵焼き、一個あげる」
「聞けよー!」
瑠璃香があーん、と口を開けながら卵焼きを挟んだ箸を差し出してくる。
テトもそれに合わせて「あーん」と口を開け、卵焼きを頬張った。
もぐもぐと咀嚼しながら、ふわふわで甘く巻かれた卵の風味を堪能する。
その間、瑠璃香はタコさんウインナーを箸で挟みながら、
「だってコンビニってちょっと高いんだもの」
「そ、それはそうだけど……」
「あと、どれもちょっと味が濃くて、栄養のバランスを考えるのも難しいし」
「ぐぬぬ」
「それに冷房がちょびっとだけ効きすぎてるから、冷え性のわたしには──」
「わーった、わーった、あたしの負けだ! 知ってるよ、るりぃの弁当に勝てるものなんてねえんだから!」
言われて、瑠璃香は「もう、ゆらちゃんってば、褒めすぎよ……」と俯いて照れていた。
しかし、テトは結羅の言うことも一理あるかもしれない、と二人の話を聞いていて思った。
と言うのも、結羅の広げるコンビニ弁当もまた、瑠璃香の弁当とは別のベクトルで美味しそうに見えるからだ。
結羅の弁当に並ぶのは大量の揚げ物と、白米、そしてなけなしの野菜としての漬物。それだけだ。
他にも結羅はサラダチキンや、おにぎりを買っていた。
そうして結羅の手元をじっと眺めていると結羅が、
「テト、食ってみる?」
「へっ」
不意にそう尋ねてきた。
「さっきから見てっから、気になんのかなって」
「いや、でもそんな、悪いって──」
「んなこと気にすんな。あたし、いっつも買いすぎちまうんだ。これ全部食ったらまた太っちまう。ほら、食え食え。あたしをデブになる未来から救うと思って」
そう言って、結羅は割り箸でつまんだ唐揚げをテトの前に差し出した。
「じゃ、じゃあ……」
先ほどの瑠璃香と同じように、あーん、と結羅の箸にパクリとかぶりつく。
教室の端から端に至るまで、「うぁあああ、可愛いぃいいい」と歓声とも苦しみともつかない呻き声が上がった。
「どうだ? うまいか?」
しっかり嚥下してから口を開く。
「これも美味しいね! ちょっと後味がピリッとするけど……たまに食べてみたい味」
「ピリ? 辛いもんは入ってないはずなんだが……あ〜、化学調味料は舌に残るからなぁ。前から思ってたけど、テトってやっぱ五感、結構鋭いよな」
「瑠璃香が色々と僕の健康に気を遣ってくれているお陰かな?」
テトはちょこんと首を傾げてそう言った。
結羅は数秒の間、じっとテトの顔を見る。
「む〜〜〜〜〜。ど〜もテトってよくわからねえところでハイスペなんだよな〜」
「そ、そんなこと、ないよ? 勉強全然できないし、家事も覚えたてだし」
冷や汗をかきながら、必死に目を逸す。
すると、不意にチャイムが鳴った。昼休み終了十分前を報せる予鈴である。
「やばっ! お昼休みもう終わっちゃう!」
テトが叫ぶと、瑠璃香も合わせて声を上げる。
「テ、テトくん、食べて食べて。ほら、ゆらちゃんもにんじん、残しちゃダメよ?」
「う、うんっ!」
「お、おう……やっぱにんじん食わなきゃ、ダメか?」
「好き嫌いはめ、よ?」
瑠璃香が片目を瞑りながら結羅の鼻先をちょん、と押す。
すると、そのまま結羅の意識がコンビニ弁当の隅に押しやられていたにんじんに向けられた。



