あのとき育てていただいた黒猫です。2

第三匹 姉を訪ねて ④

 どうやらテトへの疑いの目は上手く逸れたようだ。

 それにしても、結羅はにんじんが苦手だとは、案外子供っぽいところもある。

 急いで弁当箱の残りを瑠璃香が食べさせてくれる。

 テトはまだ箸の扱いに慣れていないので、時間がかかってしまうのだ。

 ひょいぱく、ひょいぱく、と雛鳥のように次々に食べ物が放り込まれる。

 そんな様子を、周りの女生徒たちが羨望の眼差しで見てきていた。


「育てたい、養わせてほしい……私好みに手取り足取り教えたい……」

「お、お弁当を食べさせてあげるのって、こんなにいけない気分になる行為だったっけ……? 何かの法律に抵触していない? 青少年保護育成条例に引っかかってない? もしあたしが今からあの子をお持ち帰りしてご飯を食べさせてあげても大丈夫ってこと?」

「安心しろ、お前はちゃんと抵触する」


 予鈴後のざわめきに乗じて、怪しい会話が再び飛び交い始める。

 その間にテトはなんとか完食し終えた。それから急いで「ごちそうさまでした」と手を合わせると、瑠璃香の膝の上から降りて、弁当箱をしまう。


「テトくん、初等科の校舎まで送ってこっか?」

「すぐそこだし大丈夫だよ! それに、そんなことしたら瑠璃香が遅刻しちゃうでしょ」

「そういや、次の授業、体育じゃねえか。あたしたちも着替えて準備しねえと」


 結羅が言ったその瞬間、時が止まったかのようだった。

 教室がその一瞬だけ、しん、と静まり返る。

 女生徒たちが全員、動きを止めていた。

 テトだけがわけが分からず辺りを見回す。そして次の刹那、


「さあみんな体育の授業だよ! 早く準備しないと遅れちゃうよ!」

「え? え?」


 誰かの号令が響くと同時、教室のドアが閉められ、女生徒という女生徒が一斉にその場で着替え始めた。それも、皆がチラチラとテトの反応を伺いながら。

 瑠璃香が叫ぶ。


「ちょっとみんな! 何してるのっ、テトくんがまだいるじゃない!」

「ほらほら、るりちゃんも早く着替えないと遅刻しちゃうよ!」

「お前ら、るりぃとテトを前によくやるな……」

「えーっと……」


 テトは突然のことにその場に立ち止まって首を傾げた。

 初等科では男女共学なので、体育の授業の前に着替えるときは、必ず教室の真ん中をカーテンで仕切る。そして男女別々の空間で着替えるのが通例なのだが──


「あ、そっか。中等科と高等科は男女でそもそも学校が分かれてるからその必要もないのか」


 ぽん、と手のひらを拳で打った。


「あれ……なんか期待してた反応と違う……」


 すると、下着姿になった女生徒が肩透かしをくらったような顔で言った。


「もっとこう……うわーっ、何してるんですかー! って顔真っ赤にして手のひらで顔を覆いながらも、その湧き出る本能に抗えず指の隙間からあられもない女の楽園を覗いてしまってこの先一生の性癖ヘキが歪んでしまう──みたいなのを期待してたんだけど、なんでテトくん、そんな冷静なの?」

「あんたそんなこと考えてたの?」

「そういうあんたも体操着まだ持ってきてないのに脱いでんじゃん」

「だってショタの好奇心の視線を一身に浴びたいじゃん」

「わかる」

「あんたらさっきまで青少年保護育成条例がどうのこうの言ってなかったっけ?」

「「さあ、なんのことやら……」」


 テトは、元猫であり猫又である自分に果たしてその法律とやらは関係あるのだろうか? と漠然と考えながらことの行方を静観していた。

 ……が、それを姉が許すはずもなく。

 急に視界が真っ暗闇になった。というか、瑠璃香がテトの視界を両手で塞いだ。


「て、テトくんは見ちゃダメっ!」

「なんで? みんな裸じゃないから大丈夫だよ?」


 待ってどういうこと? とその場にいる全員の頭上に疑問符が浮かび上がった。


「し、下着も見ちゃダメなの」

「でも、いつも瑠璃香のは……あっ、そっか。家族以外のはダメなんだよね」

「そういうこと。だから、ね?」


 テトの目を塞ぎながら、瑠璃香はグイグイと背中を押してくる。

 そうして教室のドアを瑠璃香が開いた音がして、廊下へと踏み出す。

 そこでようやく瑠璃香は手を離してくれた。


「じゃ、じゃあ、テトくん。初等科まで一人で戻れる?」

「うん、大丈夫だよ」


 言いながら、瑠璃香は不自然に身体を広げて教室の入り口を塞いでいた。

 ドアを閉めればいいのに、とは思ったものの、敢えていうことでもないと思い口を噤む。


「その……テトくんは、ドキドキとか、やっぱりしちゃった?」

「へ? なんのこと?」


 瑠璃香はモジモジと両手の指を絡ませながら視線を泳がせて、


「み……みんなの、その、下着とか、肌とか見て、テトくんでもドキドキしちゃうのかなあって……」


 テトは首を傾げながら言う。


「よく分かんないけど、僕が嬉しくてドキドキするのは瑠璃香と一緒にいる時だけだよ」


 ドキドキする、という意味が、鼓動が早くなるということであれば、テトがそれを経験するのは瑠璃香と再会した時や、瑠璃香が風邪を引いた時など……大抵が瑠璃香絡みの出来事に直面した時である。

 瑠璃香はしかし、どこか納得いっていない表情を浮かべる。


「なんかちょっと意味が違うような気がするけど……まあ、それならいいのかな……?」


 すると、教室の中から、


「おーい、るりぃ! 早くしないとテトもあたしたちも遅刻だぞー!」


 と結羅のよく抜ける声が響いてきた。

 瑠璃香はその声にハッとして、


「いけない! そうだ、テトくん、ごめんね! もう行かなきゃだよね!」

「うんっ! じゃあ、僕、初等科に戻るね!」


 すると、瑠璃香はテトの手を握る。


「ごめんねテトくん、今日も遅くなりそうなの……。なるべく早く帰るから、今日もゆらちゃんとお家に帰ってもらってもいい……?」

「もちろん!」


 テトは大きく頷くと、踵を返した。


「じゃあ、後でね瑠璃香!」

「テトくん、廊下は走っちゃダメよっ」


 テトはもう一度振り返り手を振ると、そのまま階段を駆け降りた。

 その姿を見送った瑠璃香は、心配そうな顔で嘆息する。

 すると、その背後からヌッとクラスメイトの少女が現れ、


「ね、ねえ、るりちゃん」

「ひゃっ! びっくりしたあ……なあに?」

「明日から毎日、テトくんのお弁当を間違えて持ってきてくれたりなんかしたりしてくれたりしなかったり……」


 すると瑠璃香はニコリと笑って、


「テトくんにはまだ早いからダメ」


 胸の前で両手の人差し指を重ねると、バッテン印を作ったのだった。



 放課後になった。その後、高等科での昼食で何か特別なことがなかったかクラスメイトに質問責めされたり、五限目の国語の授業で初めてつっかえずに音読ができたり、六限目の授業で手紙回しというものを初めてやったりしていたら、あっという間に学校での一日が終わっていた。

 猫又になってからの最初の数週間も時間がすぐに過ぎ去っていく感覚があったものだが、最近は特に、時間が光のようだと感じる。

 それだけ、毎日が充実しているということだろうか。


「うし。んじゃ、家に帰るか」


 昨日と同じ大木の下で待ち合わせをしていた結羅が、近づいてきたテトに気づいて学生鞄スクバを肩に背負い直した。

 そして二人、手を繋いで歩き出す。


「流石に今日も寄り道したら、るりぃに殺されかねないからな……ちゃんと家に帰ってやるか」

「えーっ、ゲームセンター、行かないの?」


 テトは結羅を勢いよく振り返った。

 だってゲームセンターはとても楽しかった。できれば毎日でも行きたい。


「そう言うな、テト。あたしもめちゃくちゃ行きてえんだから」

「むう」

「それに、ああいうのはたまに行くから楽しいんだよ。毎日行く場所じゃねえ」

「そういうものなの?」

「そういうものなんだ」


 それからテトと結羅は今日あった何気ない出来事を取り止めもなく話し合い、笑い合い、花を咲かせて帰路につく。

 そうしている間にすぐに最寄の七旗駅を超え、結羅と瑠璃香とテトの三人が住むマンションの下に辿り着く。

 まだ夕日は高く、空は青さを残している。

 二人でエレベーターを待っていると、不意に結羅が口を開いた。


「なあ、テト」

「なあに結羅?」

「愚問かもしんねえけどさ……家帰ったら、当然るりぃが帰ってくるまでテトは一人な訳だよな?」

「? そうだけど」

「その……普段、るりぃが学校から帰ってくるまでテトは何をして待ってるんだ?」

「う〜ん。家事はするけど、基本はお昼寝……っていうか夕寝? してるかな」

「そっか──」


 一瞬の沈黙。

 その静寂を破って、エレベーターが一階まで降りてきたことを告げる清涼な電子音が鳴る。


「なあ、テト」


 すると結羅は、にかり、と笑って言う。


「今からあたしん、来いよ。遊ぼーぜ」


 彼女の背後で、扉が開いた。


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