あのとき育てていただいた黒猫です。2

第四匹 幼馴染の家 ①

 エレベーターの鉄籠の中。

 テトは結羅と手を繋いで、ディスプレイに映る数字が増えていく様をじっと眺めていた。


「なんか、テトがうちに来るって考えると変な感じがすんな」


 結羅が歯にかみながらそう言った。


「僕もだよ。他の家に行くことって、思えばこれが初めてかも」

「新しい経験だな」

「そうだね、新しい経験だね」


 テトは結羅の顔を見上げると、二人見合わせて笑った。

 すると、ポーン、と聞き慣れた電子音が鳴り響く。

 ディスプレイはこのマンションの最上階の数字を映していた。


「着いたぜ」


 エレベーターが開いた先には、テトと瑠璃香が住まう階とは全く別の景色が広がっていた。

 廊下がないのだ。

 あるのはたった一つの扉と、無機質なフォントで描かれた逆瀬川の表札のみ。

 結羅が先導してエレベーターから降りる。


「あれ……?」


 その時、テトは一つの違和感を覚えた。

 どうして気づかなかったのか。これまで何度もゴミ捨ての際に結羅とエントランスで行き合っては、一緒のエレベーターに乗って帰ったものだ。

 その時にも、同様に結羅はを押していた。

 瑠璃香の幼馴染である結羅がこのマンションに住んでいることは周知の事実だ。

 だが、もう一人──否。

 、テトはこのマンションの最上階を根城としている友人を知っている──


「ちょっと散らかってっけど……どうぞ、いらっしゃい」


 結羅が開錠し、ドアを開けてくれる。


「お、お邪魔します……」


 我に返ったテトは、おずおずと頭を下げて中に入った。

 そして、息を詰めた。吸った息を吐き出すことさえ憚られたからだ。


「────」


 綺麗な家だった。

 そして、廊下から見通すだけで巨大な家だった。

 床も壁も天井も、全てが白を基調とした内装である。玄関は本物の大理石がふんだんに使われており、ところどころのアクセントに金細工の装飾が施されている。調度品の一つ一つが途方もないほど洗練されたデザインの代物で、全ての間接照明がそれらを完璧に美しく見えるよう計算されて配置されていた。

 城。あるいは、宮殿。

 マンションと呼ぶには足を踏み入れる者の品格が問われる美の空間は、いっそのことそう呼んでしまった方がしっくりくる気さえしてしまう。

 その異様なまでの豪奢さを前に、人間の感覚には疎いはずのテトでさえ足が竦んでしまうほどであった。

 結羅が裕福であると言葉で聞いて理解をしていたつもりだったが、どうやらテトの想像力が足りていなかったらしい。あるいは足りていなかったのは知識だろうか。

 裕福な人間とは、かくも別世界な場所で生きているものなのか。

 呆然と立ち尽くすテトであったが、結羅がごく平然とズカズカと廊下を進んで振り返る。


「ん? どうしたテト? とりあえず座って冷たいもんでも飲もーぜ」

「う、うん……」


 テトは曖昧に頷くと、靴を脱いで、出されたスリッパを履く。

 それから、ランドセルを背負い直して結羅の後をついて行った。

 長い廊下だった。部屋も数えきれないほどある。

 廊下を抜けると、そこには泉家の全部屋を居抜きしたような広さのリビングが広がっていた。

 視界いっぱいに広がるのは巨大なガラス窓。その先には、七旗市の景色を一望できた。


「うっわ、すっご──」


 テトは思わず窓ガラスに駆け寄って、眼下の景色を見下ろした。


「結羅って本当にお金持ちだったんだ」

「ん? まあな──つっても、この家は親のもんだけど」

「ふうん」


 結羅がお金持ちという事実には変わりない気がするが──テトは考えるのをやめた。

 何せ、目の前に広がるのは絶景なのだ。

 こんな高い場所から見下ろしたことなどない。

 れだけの間、じっと街を見続けても飽きる気がしなかった。


「おーい、テト〜。とりあえずランドセル置いて、手、洗ってこいよ」

「う、うん。わかった」


 テトはランドセルを部屋の隅に置いて、はたと疑問を抱える。


「ねえ、結羅。洗面所ってどこ?」

「こっから近いのは、そこの扉を入って左に曲がって、右手にある二つ目のドアがそうだ」

「……? 何個もあるの?」

「ゲスト用含めたら三つあるぜ」

「へえ……」


 想像の外の返答であったが、きっとそういうものなのだろう。

 テトはしっかり迷いながらも、たどり着いた洗面所で手洗いうがいをした。

 洗面所もまた広く、なぜか手洗い場所が二つ並んでいた。どういう理屈なのかは全くわからないが、どうにもソワソワしてしまい居心地が悪かった。

 しかし、こういう時に一人で難なく手洗いをできると、瑠璃香に教えてもらった分だけ成長している実感があって、嬉しく思えた。

 リビングに向かって歩いていると──戻る時もしばらく迷子になっていた──結羅は着替えを終えて自室らしき部屋から出てくるところだった。

 いつもの派手なジャージ姿で、相変わらず身体のラインがはっきりと見えている。

 テトは頬を膨らませて腰に手を当てる。

 瑠璃香がいつもテトに何か叱る時にする仕草である。


「ちょっと結羅、この家大きすぎ。迷っちゃって使いにくいよ」

「る、るりぃみたいなこと言うなよ。慣れればどってことねえって」

「大きすぎるとなんか落ち着かない」

「まあ、その気持ちはわかるけどよ」


 結羅はテトを連れ立ってリビングに戻る。


「今、飲みもん出すから、ソファーに適当に座っててくれ。何飲む?」

「えっと、何があるの?」

「大抵はなんでもあるぜ。コーラにオレンジジュースにリンゴジュース、野菜ジュースにココナッツジュース、あとは牛乳もミルクティーも──」

「牛乳! 牛乳がいい!」

「OK〜。珍しいな。普通、ジュースとか選びそうなもんだけど」

「? 牛乳が飲み物で一番美味しいじゃん」

「まあ、うまいよな」


 そう言って、結羅は飲み物を用意しにキッチンの向こうへと姿を消した。

 テトはソファーを振り返ってから首を捻る。


「……これって、ソファーだよね?」


 あまりにも大きすぎるが故に、それがソファーであるという確信が持てずにいた。

 革張りの純白のソファー。

 L字型に設置されたソファーはベッドのように巨大で、長方形やら正方形やらが組み合わさったその形状はもはやパズルのようである。

 最終的にテトはソファーの真ん中にそっと腰を下ろした。


「……すごいなあ」


 ぐるりと部屋を見回す。

 部屋というには広大すぎる空間には、二種のダイニングテーブルと、今いるソファー、その他に本棚と円形上のクッションが並ぶ読書スペースがあり、多様だ。

 だが、それだけ贅沢で豪華な空間も、テトにはどこか無機質に感じていた。

 そうしてぼう、とした表情で今度はなんとなしに天井を見上げていた、その時。


「……っ」


 不意に、視線を感じた。

 隣だ。ソファーの上である。

 咄嗟にその方向を振り返ったのは、ほとんど無意識だった。

 好奇心? いいや、違う。

 それは、脊髄レベルで染み込んだ危機感。

 そして──目が合う。


『貴方、ついに決して超えてはならない一線を越えましたわね』


 にゃあ、と声が響いた。

 真夏の空を思わせる蒼の瞳。

 その瞳の持ち主は、純白の猫。

 不敵に微笑む白猫に、テトは硬直する。

 そして、目を見開いた。


「どうしてここにいるんだい、レイラ!?」




 白の尻尾がゆらゆら揺れる。

 聞こえるのはテト自身の息遣いと、遠くのキッチンから聞こえてくる結羅の鼻歌。

 緊張に瞳孔が開き、眼前の景色が眩しく見えた。

 レイラはゆっくりと自分の前足を持ち上げると、優雅に毛繕いを始める。

 人間が見れば、可愛いと絶叫して写真を撮って愛でるような仕草だろう。

 しかし、テトにはそれが、今から罪人を処刑する執行人が得物の手入れしている様子にしか見えなかった。


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あのとき育てていただいた黒猫です。2の書影
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