あのとき育てていただいた黒猫です。2
第四匹 幼馴染の家 ②
レイラは毛繕いを止め、目だけ動かしてテトを見る。
『白々しいですわね、テト。そのセリフはわたくしのものでしょう?』
「…………」
テトの脳内で、走馬灯のように過去の景色が脳裏を掠めていった。
テトたちがまだ小さかった頃から、ことあるごとに泉家のベランダにやってきていたレイラ。
そして思い出す。
結羅の住む部屋は、このマンションの最上階。
そしてテトはここにやって来るまでのエレベーターで思った。
もう一匹、このマンションの最上階を根城としている友人を知っている──と。
その友人であり幼馴染のメス猫は、ただ一匹。
──レイラである。
『僕、レイラのご主人が結羅だったなんて、初めて知ったよ』
テトはキッチンの向こうからまだ結羅が出てくる気配がないことを確認し、慎重に猫語でレイラに語りかける。
あくまで小声だ。
結羅の耳に入ると事態がさらにややこしくなるだろう。この状況をカオス化したくはない。
しかしレイラはぎろり、とテトを睨むと、毛繕いしていた前足を勢いよくソファーの座面にぽふん、と叩きつけた。
『知らなかったですって? あなた一体、何年間このマンションに住んでおりましたの? 今更そんな言い訳が通用すると思って?』
『い、いや、だって、レイラは一度も自分のご主人のことについて詳しく語らなかったじゃないか。僕だってもし知っていたら、レイラに断りもなく来るような礼儀知らずなことはしなかったよ』
テトは慌てて弁明する。
猫という生き物は、己の縄張りを侵害されることを何よりも嫌うからだ。
「お〜い、テト〜。ロールケーキって好きか? 貰い物で良ければあんだけど」
すると、キッチンの向こう側から結羅の声が飛んでくる。
テトはレイラの圧に耐えかねて結羅との会話に逃避する。
「た、食べるっ」
しかし、目線はレイラの瞳から離せない。
離した瞬間やられる、と直感が囁いていた。
「おし、きた。ちょっと待ってろ、今切って一緒に出してやっから」
「あ、ありがとう結羅」
しかし、一瞬で終わる会話。
それどころか、レイラの不機嫌さは一層増していて、
『そうやって猫又の力で人間の言葉を操り、巧みにわたくしのご主人を籠絡しましたのね』
『そ、そんなことしてないってば!』
『──ああ、そういえばそうでしたわね。貴方は猫又になる前からわたくしの結羅と仲が良くてたいそう可愛がってもらって、ご主人の匂いをたっ……ぷり付けてきましたものね』
怨念のこもった視線が飛んでくる。レイラが結羅の名前を呼ぶことに新鮮さを感じた。
そしてレイラはポツリと、続ける。
『……羨ましいですわ。本当、どうしたら猫又になれますの?』
『レイラ、そのことは──』
『もう、真面目に答えようとしないでくださいませ。今のはただの言葉の文ですわ。──それよりも』
レイラは言葉を区切って、尻尾を左から右に振る。
『何度もわたくしのご主人と浮気しておいて知らなかった、と言うのはないでしょう、テト? 貴方、わたくしとわたくしの愚かなご主人の匂いが一緒であることに気づいていたのではなくて?』
『い、いや、それは』
言われてみれば、心当たりがなかったわけではない。
薔薇の香り。
それはずっと結羅から香り続けていた匂いだった。
そして、レイラの纏う香りもまた、それに近いものだった。
しかし、匂いというものはフェロモンと混じって自在に変容するものである。当然、結羅もレイラも似た匂いでありながらも、全く同じ匂いではなかった。
だからこれは、その可能性について考えられたのにも関わらず考えることを放棄していたテトの失態なのかもしれない。
結果として、幼馴染の縄張りを侵してしまったのだから──
すると、レイラは嘆息した。
『やはり、気づいていた上でのこの愚行ですのね』
『ち、違うって! 確かになんかどっかで嗅いだ匂いだな〜、とは思ってたけど、まさかレイラと結羅が同じ匂いだなんて思わなかったんだ!』
レイラがグッと腰を落として首を下げる。捕捉した獲物を逃すまいと、身体をソファーの座面スレスレまで沈め、いつでも飛びかかれる姿勢を取った。
対してテトは腰を浮かせて、いつでも逃げ出せる体勢になる。
一歩。二歩。
レイラがにじり寄る足に合わせて、テトもまた半歩ずつ引き下がる。
『そういうところが白々しいと言っているんですわ! 同じ家に住んでいるのですから、匂いなんて一緒でしょう!』
『ぜ、全然違うよっ』
『言い訳は見苦しいですわよ、テト。出まかせの嘘までついて、これ以上わたくしを失望させないでくださいます──』
『──だって、レイラのはもうちょっと甘くて、落ち着く匂いじゃないか!』
ピタリ、とレイラの動きが止まる。
テトもまた合わせて動きを止めた。
カチコチ、と時計の秒針が静寂を刻む。
レイラは少しだけ上体を起こして鼻をひくつかせると、
『…………甘くて、落ち着く、匂い。……………………ふうん』
視線を逸らして、なぜかちょっとだけ嬉しそうな顔をした。
その時、レイラのヒゲもぴこぴこと上下に動き、尻尾はわさわさと左右に慌ただしく右往左往している。
──ああ、確かにこれは、そうだ。
不思議とこの瞬間、テトの中で結羅とレイラが同じ家の下に住まう家族であることを理解し、確信する。
だって、彼女たちはこんなにも似ている──
『何がおかしいんですの?』
テトは嬉しくなり、思わず笑ってしまったのを慌てて誤魔化した。
それに目ざとく気がついたレイラは不機嫌そうに鼻を鳴らして食ってかかる。
『い、いや。確かにレイラと結羅は家族なんだなって』
『はあ?』
レイラの本気で苛立った声を久しぶりに聞いた。
怖かった。
『に、似ているなって思ったんだ。そうやってすぐ照れ隠しをするところとか』
レイラは一気にテトとの距離を詰めてきた。
『いつ、どこで、どこが、どんなふうに似ているというですのっ! 全っっっっっ然、似ていませんから!』
そうして今にもレイラが右前足の爪をにゅっと出し、得意の猫パンチをテトに繰り出そうと一段と身を深く沈めたその時──
結羅が飲み物やお菓子が乗せられたお盆を持って、キッチンから現れる。
「テト〜、冷たい牛乳とうまい菓子を持ってきたぞ〜……──って、れいたむ!?」
そんな結羅は早足でソファー前のローテーブルにお盆を置きにレイラの元へ飛び込んだ。
「今日はこんな昼間から顔出してくれるとかレアかよ! 久しぶりに吸わせろーっ!!」
『ひぃっ! わ、わたくしはもう、自分のベッドに戻らせていただきますわ──きゃあっ!』
レイラが本気の悲鳴を上げて逃げ出そうとするが、それよりも一瞬早く結羅の両手がレイラの身体を捕らえた。
「て、手慣れてる……」
テトさえ敏捷さで上回るレイラを捕えるとは、確かにテトが猫用の釣り竿のおもちゃで結羅に負けるわけである。
結羅に場所を譲ったテトは、カーペットの上に移動してしゃがむ。
「ねえ、結羅。さっきの、れいたむ、っていうのは?」
「うちの子の名前だ、レイラっていうんだ。では早速失礼して──」
『あ、貴方、見てないで助けなさいテト! ひゃ、ひゃぁあああ……っ!』
拘束されたレイラの腹に結羅が躊躇なく顔を突っ込み、レイラが非常に情けない声を上げた。
こんなレイラの悲鳴は初めて聞く。
なぜかこんなレイラを見るのも悪くないと思えてしまう。
そればかりか、意外と可愛いと思ってしまった。
「すぅぅううううう……………はぁぁああああああ……………………すぅううううう……」
『は、早く助け……っ』



