あのとき育てていただいた黒猫です。2

第四匹 幼馴染の家 ③

 ソファーの横でしゃがんだテトは、膝に肘を立てて両手で頬杖をつく。

 そして結羅にめちゃくちゃにされているレイラを間近に眺めながら、


「僕は人間だから猫の言葉、わかんなーいにゃ」


 笑顔で小首を傾げた。

 レイラは涙目でテトを睨みつけて、


『こ、この浮気猫の泥棒猫の裏切り猫! お、覚えていなさい、あっ、……ぁあっ、ふわぁあ!』

「れいたむ可愛い、れいたむマジ可愛いって、れいたむマジ可愛いすぎてやばいって……っ」

『むり、だめですわ、それ以上は、いけませんわ……っ!』

「なんか楽しそうだねレイラ」

『これのどこが楽しそうに見えますの!? ひゃんっ! ちょっと、一体全体どこを吸ってますの、この主人は!? そこは乙女の大事な──』

「はぁ〜っ、れいたむのあったけ〜、いい匂いする〜〜」

『だからその場所をそれ以上は……ふぁああああああああぁぁぁ……っ!』


 それからたっぷり十分間、レイラは結羅に吸われ続けた。



 ちゅー、と、テトはコップから牛乳をストローで吸って飲んでいた。

 座り直したソファーの上で、テトは視線を隣に向けた。

 人ひとり分のスペースを空けて同じくソファーに座る結羅がてへ、と髪の毛を直しながらテトに謝る。


「わりぃ、つい我を見失っちまった」

「い、いや、大丈夫だけど……」


 僕には実害ないし、とテトは自分と結羅との間に空けられたスペースに向ける。

 そこには、うつ伏せのまま四肢を投げ出して伸びたレイラの無惨な姿があった。


「改めて紹介するぜ。あたしの家族、れいたむことレイラだ」

「よ、よろしく」

『……ぜ、絶対にゆるしませんわ』


 うつ伏せのままレイラが力無く「んにゃぁ……」と鳴いた。

 結羅はレイラの背中を優しく撫でる。


「結羅、なんか、普段とは別人みたいだったね」

「うっ……。れいたむを前にするとどうしても感情が抑えきれなくなっちまうんだ……」


 結羅ががっくしと俯く。しかし、レイラを撫でる手は止めない。

 それから横髪の隙間からテトの顔を窺ってきた。


「……引いたか?」

「全然? むしろそういうの良いと思う」

「そういうの?」

「自分よりも大事なものがあるって、何かいいね」

「────」


 正面に向き直る結羅。

 その横顔は、笑っていた。

 結羅は身体を起こして、ぼふん、と背中をソファーに預ける。

 そして、レイラの頭を撫でながら言う。


「つっても、れいたむってあたしでも機嫌がいい時にしか絶対に撫でさせてくんねーから、いつでもこうやってモフれるってわけじゃねーんだ」

「そうなの?」

「ほら、今でも生傷ばっかだ」


 そう言って結羅は手のひらをテトに見せる。

 そこには浅く刻まれたレイラの引っ掻き傷や咬み傷がいくつか見て取れた。


「うわぁ……」


 それを見てテトの胸の内に、結羅との仲間意識が芽生えた。

 何せテトも散々、頬を引っ掻かれたり首根っこを噛まれたりと散々だからだ。


「テトもれいたむのこと撫でてみるか?」

「えっ」

『…………』


 レイラが顔の上半分だけ上げて無言のまま、やめろ、と目で語っていた。

 レイラの尻尾が不機嫌そうに揺れている。

 どうやら結羅との攻防により体力を消耗しているらしい。

 恐らく今の状態だと得意の高速猫パンチも繰り出せないだろう。

 真剣に悩むテトに、結羅は笑いながら首を横に振る。


「はは、冗談だよ。テトが怪我でもしちまったら瑠璃香になんて言われるかわかんねーし」


 ……ふむ。

 テトの中でむくむくと悪戯心が膨れ上がった。

 そういえばレイラとは同じ目線で戯れ合うことはあっても、人間の姿で撫でて愛でるということは当然なかった。

 もしかしなくてもこれは、貴重な機会なのではないだろうか?

 テトは結羅を見て、大きく頷いた。


「撫でてみたい」

『ちょっ……』

「え、まじ?」

「まじ」

「さすがあたしが見込んだ男だぜ」


 結羅がレイラから手を離し、テトに目配せした。

 香箱座りをするレイラと正面から見つめ合う。

 これはなかなかに緊張感のある状況だった。


「ほら、テト。ゆっくり、優しく撫でてやってくれ。いきなり行くと噛まれたり引っ掻かれたりするから気をつけろよ」

「……う、うん」


 どちらも経験済みである。

 テトは恐る恐るレイラに手を伸ばした。

 じっ、と身構えるレイラ。

 レイラの頭に触れるまであと五センチ。


「シャアっ!」

「……っ」


 レイラが牙を見せる。

 テトは手を慌てて引っ込めた体勢のまま様子を窺った。

 しかし、それが本当に最後の力だったらしく、こてん、とソファーに鼻から突っ伏した。

 再びそろり、そろり、と手を伸ばす。

 その間、またもや顔の上半分だけ上げて、目線だけでテトの手のひらの行方を追うレイラ。

 しかし、牙を剥く様子も、肉球から爪を出す様子もなく、そのまま事は進む。

 果たして、テトの手のひらはレイラの真っ白な毛並みが揃った頭頂部に到達した。


「おお…………」


 最初は人差し指と中指の二本だけで撫でる。

 そして、ひと撫でするたびに、だんだんと触れる指の数を増やしていく。

 レイラの毛並みは、既知の通り素晴らしく良かった。

 猫の手のひらと違い、人間のそれは敏感であるがゆえに、その素晴らしさが際立って感じた。

 滑らかな毛並みはまるで抵抗を残さず、指先の下を優しく流れていくばかり。

 意外にもレイラは黙ってそのままテトに撫でられるがままにされていた。

 目を瞑ったまま、じっと息を潜めている。

 身体が強張っているわけでもない。


「へえ……。すげえじゃねえか、テト。撫でるのもうめえな」

「そ、そう……?」

「ほら、れいたむの目がとろけてる」


 結羅が感心した声を上げてテトの手元を覗き込んでくる。

 テトはそのままレイラの頭から首筋、そして首の下を撫でていく。

 それは、いつも瑠璃香がテトにしていた撫で方だった。テトは自分が撫でられると気持ちがいい動きを想像しながら、それをレイラの身体で実践していく。

 すると、レイラの身体からどんどん力が抜けていって、でろん、とますます溶けていく。


『……もっと』

「へ?」

『……もっと、そこを、撫でなさい』


 そう言って、レイラはごく僅かに首を傾けてみせた。

 どうやら顎の下がお気に召したらしい。

 テトはくすり、と笑ってご希望の通りレイラの首下を掻いてやった。


「ここが気持ちいいんだ?」

『別に、気持ちよくなんか、ない、ですわ……』

「そんなこと言ってもほら、どんどん力が抜けてってる」


 レイラの身体はほとんど水のようにぺたーっ、とソファーに薄く広がっていた。


「素直になればいいのに。ほら素直に、気持ちいです、って言わないと撫でてあげないよ?」

『こ、姑息ですわよ……』


 レイラが悔しそうな表情で顔を背ける。

 テトは笑って、指の動きを止めた。

 レイラが目だけでテトを見て非難する。


『ちょ……、止めないでくださる?』

「だってレイラが素直じゃないから」


 一秒、二秒と時間が経つ。

 しかし、五秒と経つ寸前で、


『き』

「き?」

『気持ちいいです……ので、もっと、撫でなさい』

「もっと丁寧に言ってくれないとな〜」

『……っ』


 レイラは羞恥心で涙目になっていた。

 きっと人間だったら今頃、顔が真っ赤になっていたことだろう。


『あっ、あとで覚えてなさい〜〜……っ』


 そこでハッとした。

 隣に結羅がいることを忘れていたのだ。

 案の定、結羅はじっとテトとレイラのことを見つめていた。


「なんか、今。テト、レイラと会話してるみたいだったな」

「な、なんとなくこんなこと言ってそうだなーって考えながら適当に喋ってただけで……」

「それすげーよ。長く一緒にいると、あたしもなんとなくれいたむの言いたいこととかわかるんだけど、れいたむと初めて会ったテトがそれできるって中々むずいっつーか」


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