あのとき育てていただいた黒猫です。2
第四匹 幼馴染の家 ⑥
不意に、テトのすぐ耳の横で──もちろん人間の耳である──結羅が声を上げる。
「どうしたの?」
「あたし、れいたむのことそろそろ風呂に入れてやらねーとって思ってたんだった」
「レ、レイラを?」
「ちょっと今かられいたむを洗ってもいいか? その間、テトは風呂に浸かってていいから」
「い、今から?」
「ああ、思い立ったが吉日、だ!」
そう言うなり、結羅はざばあっ、と大量の湯を纏いながら立ち上がり、浴室を横切っていく。
そして手早くバスタオルで身体を拭くと、バスタオルは洗濯かごに放り出して裸のままリビングの方へと消えていった。
「ご、豪快だ……」
結羅のこういうところがテトは特に好きだった。
見ていて気持ちがいい。自分の進む道に自信を持っている様が爽快なのだ。
首をぐるりと回して、視線を窓の外へ投げる。その先には、夕焼けに染まる七旗の空が広がっていた。遮るものは何もなく。ただ人の営みを見渡すことができる。
……否、遮るものは一つだけあった。
山の稜線である。
こんな近くにあんな山があったのかと思ったテトは、すぐにそれがどこだか思い出す。
ススキ様のいる七旗神社である。
「そっか、マンションの一番上から見ると、こんな風に見えるんだ──」
神社はススキ様の妖術によって隠されているため、実際の神社の姿は見ることができない。
しかし、きっと七旗神社より、結羅の住むこの部屋の方が高度はあるだろう。
不思議なものである。
あれだけ神聖な土地よりも、この人間の作ったマンションの方が高いとは。
「────」
その事実に、テトはなぜか感傷的になってしまった。
しかし、すぐに我に返り、
……あれ? 今、僕、なんでこんな気持ちになったんだろう?
それは、寂寥感。なぜか寂しさを覚えていた。
理由がわからず、テトはぐるぐるとその体勢のまま考え悩む。
そうしてしばらく窓の外の景色を眺めていると、不意に結羅の叫び声が聞こえてきた。
「す、すぐ終わるからっ、な、なっ!? ごめんて、わりいとは思ってんだけど、いつかは洗わなきゃなんねえからわかってくれ、な、れいたむ!」
「シャアアアアアアアアアアアアアアアアアアッ!!」
ついでにレイラの威嚇も聞こえてくる。
どうやら風呂に連れて行きたい結羅と、絶対に風呂に入りたくないレイラがせめぎ合っているらしい。
テトは振り返り、湯船のへりに作った自分の腕枕に顔を寝かせながら、対岸の火事とばかりにそのやり取りを聞いていた。
果たして、風呂場に入ってきたのは、大暴れする結羅を抱き抱えた結羅だった。
「う、動くなってれいたむ!」
「フシャアアアアアアアッ!」
「──あっ! れいたむ!」
瞬間、身を捩ったレイラが、見事結羅の腕をすり抜ける。
すぐさま、退路を確認するレイラ。
しかし、一瞬早く結羅が浴室の扉を閉める。
「……っ」
だが、ここで諦めるレイラでもなかった。
広い浴室を電光石火で駆け抜けると、レイラは浴槽目掛けて飛び上がった。
「へ?」
「れいたむ!」
湯船に飛び込むつもりか? と焦ったのも束の間。
レイラは浴槽のふちに足をかけると、再度飛び上がる。
そして最終的に降り立ったのは──なんとテトの頭の上だった。
「ちょっ、おもっ!」
『う、動かないでくださいまし! わたくしが落ちたらどうするおつもりですの!?』
……なんでよりにもよって僕の頭の上に乗るんだい!?
と心の中で叫んだテトであったが、すぐに答えを知る。
「テ、テト、大丈夫か!? うちのれいたむがすまねえ! ああっ、でも今あたしが近づいたらテトが何されるか……!」
『そ、それ以上近づいたら、この少年の可愛らしいお顔に引っ掻き傷を作りますわよ!』
「え?」
目だけで上を見ると、レイラは肉球を剥いて出した爪をテトの額に立てていた。
「……もしかして僕、人質にされてる?」
結羅が珍しくオロオロしながらゆっくりと近づいてくる。
「う、動くなよテトっ。大丈夫だ、あたしが今、れいたむを連れ戻してやるからっ!」
『テ、テト! 助けなさい、わたくしを! わたくしを助けるのは全オス猫にとって大変名誉なことでしょう!? そ、そうですわ……っ! 今わたくしを助けたら、さ、最高級サバ缶のサバを一口分けてあげますわ!!』
眼前でワタワタと叫ぶ結羅。
頭上でニャーニャーと鳴くレイラ。
レイラはまさしく最後の希望に縋っていた。
テトは腕組みをして悩む。
……最高級サバ缶を一口、か。
目を開けたテトは、囁き声で頭上の白猫に返す。
『たまには君も絶望を味わうといいよ』
レイラの瞳が絶望色に染まる。
『で、では二口……いえ、三口……あーもうっ、まるまる一欠片あげますわ!』
テトは首を横に振る。
レイラの身体も左右に揺れる。
『な、何でですの! あなただって
テトはチャプ、と湯を掬った両手を左右に上げた。
清らかな湯が両の手首を滑り落ちていく。
テトは慈しみの眼差しでその様を眺めながら言った。
『僕は毎日、これをやっているんだ』
『────』
顔を上げる。
『ねえ、レイラ。たまには綺麗になるのもいいものだよ?』
レイラが身を固くした。
テトが使えないとわかった以上、
しかし、その逡巡こそが命取り。
刹那の出来事だった。
「……っし!」
「にゃあ!?」
抜き足差し足で近づいてきていた結羅の両手が、左右からレイラの身体をがしっ、と捕える。
突き出した結羅の両手が
レイラが結羅に連れ去られる中で、テトを振り返る。
『はっ、嵌めましたわね、貴方!』
「僕は猫の言葉、わかんな〜いにゃっ」
『むううううっ! 可愛いくしてれば許されるのは猫だけですのよ!』
「さあ、シャワーを浴びてキレイキレイしような〜れいたむ〜〜〜〜〜」
結羅とレイラの姿がガラス板で区切られたシャワーエリアに吸い込まれていく。
そして、シャワーが床を打つ音が鳴り始めると同時、
『いっ、いやぁあああああ……っ!』
レイラの悲鳴が響き渡る。
テトはレイラに向かって合掌した。
「……なんか、猛烈に疲れた」
『……本当に、後で覚えてなさい、テト』
元黒猫が一人と、現白猫が一匹。
テトとレイラは並んでソファーの上で真一文字に伸びていた。
その横で、結羅は足を組んで瓶コーラを飲みながら一服していた。
「はぁ〜、助かったぜテト。ありがとな、れいたむのシャワー、手伝ってくれてよ」
「全然……大丈夫だよ……」
結局あの後、結羅とテトの二人がかりでレイラにドライヤーをかけて、湯浴みを終えることに成功した。結羅は流石に慣れていて、レイラの引っ掻き攻撃のほとんどを避けていた。
テトは最初からレイラの腕が届かない背後に回っていた。
結果、テトとレイラは力尽き、結羅だけが全ての目的を達成して一人勝ちとなった。
「けど、なんかせっかくのテトとの風呂だったのに、最後バタバタしちまってあんまり堪能できなかったな〜」
「あんなにお風呂、楽しそうにしてたのに?」
「いや、堪能ってのは、テトを堪能できなかったっつー意味」
「僕を?」
テトは目だけを動かして結羅を見た。
結羅は熱った顔でぐい、と瓶を呷る。
「こんな天使との激アツ展開を味わい尽くせなかったのがもったいねーっつーか」
テトは首を傾げる。
「僕でよければいくらでも一緒に入るよ? どうせ毎日お風呂は入らないと瑠璃香に怒られるし。それに、結羅なら一緒に入ってもいい、って瑠璃香も言ってたしね」
「ぶ……っ」



