あのとき育てていただいた黒猫です。2
第四匹 幼馴染の家 ⑦
結羅が鼻血を吹いた。
「結羅、大丈夫? なんかよく鼻から血を出すけど……怪我?」
「い、いや大丈夫だ。怪我とかじゃねえから」
「そう……? ならいいけど」
「やべえな、風呂の後は鼻がザコになる」
言いながら結羅は慣れた調子で鼻血をティッシュで拭って、ついでに止血の処置も済ませる。
すると、家のインターホンが鳴る。
「お、やっと着いたか」
結羅が立ち上がり、ドアの方へ駆けていった。
テトは上体を起こし、結羅の背中に向かって尋ねる。
「ど、どうしたの?」
結羅は向かいながら首だけで振り返る。
「るりぃだよっ」
「え、瑠璃香!?」
『…………』
テトの隣でレイラが身じろいだ気がしたが、今は一旦脇に置くことにした。
そんなことよりも、瑠璃香に会える。
テトは途端に元気が全身に漲ってくるのを感じた。
遠くからガチャ、とドアが開く音。
そして微かに聞こえてくる結羅と瑠璃香の会話。
「ゆ、ゆらちゃんっ。テ、テトくんとは、その……っ」
「大丈夫、安心しろ。事案は起こしてねえから。あたしはるりぃとの約束をちゃんと守ったぜ」
「ああ、ゆらちゃん、ありがとうっ。頼んだのはわたしなのに、心配になっちゃって……っ」
「安心しろ。
それからパタパタとスリッパを鳴らして駆けてくる聞き慣れた音が近づいてくる。
程なくして、制服姿の瑠璃香が髪を乱した姿で現れた。
瑠璃香は両方からそのどちらも下ろすと、テトに向かって両手を広げる。
「テトくん……っ!」
「瑠璃香っ、おかえり!」
テトはソファーから跳ねるように駆け出して、真っ直ぐに瑠璃香の腕の中に飛び込んだ。
瑠璃香はテトの身体を受け止めて抱きしめる。それから顔をテトの黒髪に埋めた。
「今日も遅くなっちゃってごめんね」
「ううん、学校の大事なお仕事なんでしょ? 僕は全然大丈夫だよ」
瑠璃香はしゃがんでテトと目線を合わせる。
どうやら瑠璃香は走ってきたらしい。
息が上がっており、頬は僅かに上気していた。
瑠璃香は運動音痴なので転んでしまわないか心配である。
「テトくん、ゆらちゃんとのお風呂は楽しかった?」
「えっと、楽しかったけど、どちらかというとそれどころじゃなかったっていうか……」
そう言って、テトは隣のソファーで伸びているレイラを見た。
レイラは突っ伏しながらも、耳だけはピンと立ててしっかりと二人の会話に傾けていた。
「それどころじゃ、なかった?」
すると、瑠璃香の後ろからリビングに入ってきた結羅が答える。
「テトにれいたむのシャワーを手伝ってもらっちゃってよ。それがまー、大変だったんだ。テトには大助かりだぜ」
「れいたむ……って、ゆらちゃんの猫ちゃんよね?」
「ほら、そこで寝てるぜ」
結羅が顎で差した先。
瑠璃香はテトの肩越しにレイラの姿を捉える。
「ほんとう、ゆらちゃんの言ってた通り、すっごく綺麗な子──だけど、あら……?」
すると、瑠璃香は首を捻った。
そして記憶を探るように、ん〜、と考える。
「この子、もしかして、この前、ショッピングモールに行く途中で会った猫ちゃんじゃ──」
視界の端で、レイラの身体がビクッ、と跳ねたのは見間違いではないはずだ。
テトもまた、自分の身体が一瞬揺れることを止められなかった。
結羅が瑠璃香の言葉に反応する。
「ショッピングモールに行く途中? ってどういうことだ、るりぃ? ショッピングモールに行く途中ってことは、まさか外で会ったってことか? でも、れいたむを外に出したことなんてないけど──」
──まずい。
テトは背筋に冷たいものが走った。
結羅のこの様子に加え、レイラのこれまでのご主人に対する諸々の話を加味すると、結羅はレイラを相当大事にしていることが伺える。
それも、過保護と評しても過言ではないほどに。
レイラはテトと同様、勝手に外出していることを間違いなく結羅に伝えていないだろう。
そして、今、そのことが明らかになれば、レイラは二度と外の世界に踏み出せなくなることは想像に難くない。
それは、幼馴染として本意ではなかった。
(瑠璃香、誤魔化して……!)
目が合った瑠璃香に向かって、テトは慌ててブンブン、と首を横に振る。
数秒固まった瑠璃香は、すぐにテトの意図を察知したようで、慌てて作り笑いを浮かべて結羅を振り返る。
「──っていうのは見間違いね、きっと! すっごく似ている猫ちゃんと会ったんだけど、よく見たら全然別人さんだわ」
「そ、そうだよ、瑠璃香。全然違うよ。あの時に会った猫は、もっと性格がキツそうだったし、目つきも悪かったし、態度も大きかったし──」
『ちょっと? 引っ掻きますわよ』
(レイラは黙っててっ)
結羅に見えない角度で、しーっ、と唇に指を立ててレイラにアイコンタクトを送る。
結羅は腕を組んで、首を傾げる。
「うーん、れいたむに似た猫? あたしが言うのもアレだけど、れいたむほど綺麗で可愛くて美人な猫はそうそういないはず──」
「結羅、ほら世の中は広いでしょ? 似た猫が一匹、二匹、いてもおかしくないよきっと」
「む〜……。まあ、それもそうか」
テトの適当な誤魔化しで結羅がひとまずは納得してくれる。
すると、瑠璃香はテトから一旦離れ、しゃがんだままレイラの前に移動した。
そして、微笑んで挨拶をする。
「初めまして、レイラちゃん。ゆらちゃんのお友達の瑠璃香です」
『……ふん、知っていますわ』
レイラは不機嫌そうに白の尻尾を左から右へ振った。
瑠璃香はテトを見て、耳打ちする。
「この子、なんて言ってるの?」
「瑠璃香のことは知ってるよ、って言ってる」
テトもまた小声で瑠璃香に返した。
「そうなの? ふふふ、あの時会った時のこと、覚えていてくれたのかな。嬉しいな」
『別に……もっとずっと昔から存じておりますが────』
レイラは言葉を切ると、見る見るうちに目を見開いていく。
そして驚いた顔でテトと瑠璃香を眺める。
『どうしたの、レイラ?』
『──ああ、そうですわ。貴方がいれば、こういうことも、できますのね』
『レイラ?』
「テトくん? どうかした?」
「いや──」
すると、レイラはぴょんっ、とソファーから飛び降りてしまう。
「れいたむ、どこにいくんだ? せっかくみんな集まったのに」
『……疲れたので、少し仮眠しますわ』
「ああー、お風呂で疲れたから眠いのか。ご飯になったら後で呼ぶからな」
『待ってますわ』
そう言って、レイラは自室があるらしい廊下の先に姿を消して、結羅はその後ろ姿をしばらく見守っていた。
「…………」
テトは結羅とレイラを見て、舌を巻いた。
すれ違っているようで、意思が疎通できている。
猫時代の自分と瑠璃香もそうだったはずなのだが──こうして第三者として横から見ているといかに彼女たちがすごいことをしているのかがわかる。
──たとえ言葉は違えども、想いは通じるのだ。
コミュニケーションとは、何も言葉を操ることだけを指すのではない。
表情や仕草、文脈や状況。彼ら彼女らの趣味嗜好に、過去に、癖。
それらを全て積み上げていった先にあるものが、コミュニケーションと呼ばれるものになる。
テトは猫又になり、人間の言葉を喋ることができるようになって、ある種無敵の力を手に入れたような感覚になっていたが──
なんてことはない。
すでに猫と人間は、ずっと昔から隣人であり友人であり、家族であり続けていたのだ。
言葉の違いなど、瑣末なことでしかないのだと思い知らされる。
「──じゃ、お夕食にしちゃおっか」
瑠璃香の声にテトはハッと我に返った。



