あのとき育てていただいた黒猫です。2

幕間2 夜を駆るモノクロ

 心地の良い眠りはしかし、長くは続かなかった。


『起きなさい、テト』

「……ふぇ?」


 ぽむ、と何かに踏まれた。

 瑠璃香の胸元に埋めていた顔を上げる。

 ベッドのヘッドボードの上。

 暗闇の中に浮かぶ爛々と輝いた蒼の宝石が二つ。

 目を凝らすと、それはレイラの瞳だった。

 左右を見ると、瑠璃香と結羅はぐっすり寝ている。瑠璃香は相変わらずほとんどパジャマが脱げかかっており、結羅についてはこんなに広いベッドなのに大の字のまま端から落ちかけていた。


『何、普通に寝ようとしているんですの。夜会サロンがあるでしょう?』

『僕、明日学校あるから、もう寝ないとなんだけど……』

『はあ……。ずいぶんと人間かぶれになったものですわね。本当に嘆かわしい。本当に愚かしい。本当に恥ずかしい。それでも貴方、猫ですの?』

『別にいいじゃないか。人間らしいとか、猫らしいとか、それってそんなに大事なことかい?』

『…………』


 レイラは明らかにムッとした表情になると、両方の前足でテトの顔をぎゅむぎゅむと交互に踏みしめて来た。


『わ、わぷっ、ちょっ、レイラっ』

『い・い・か・ら、行きますわよっ』

『わかった、わかったからっ』


 レイラの肉球の感触は気持ちがいいが、いつその合間から鋭利な爪が出てきてもおかしくない状況に、全くその感触を楽しむことができなかった。

 テトは渋々起き上がり、慎重に瑠璃香と結羅の間から抜け出して、ベッドを降りる。

 名残惜しさに振り返るも、レイラに足首を甘噛みされて催促された。


『こっちのベランダから抜けると見つかりにくいですわ』


 間接照明でおしゃれに点灯された逆瀬川家の廊下を進む。

 先導するのは少し機嫌を直したレイラだ。

 レイラはテトが夜会サロンを断るとすこぶる機嫌が悪くなるが、一緒についていく分にはむしろ機嫌がよくなるので不思議なメス猫である。


『結羅って夜遅くまでいつも起きてるんじゃなかったっけ? よく、抜け出して夜会サロンに来れてるね』

『自宅が広いと失踪するのも簡単ですのよ。それに、結羅は明け方までお仕事に集中してらっしゃるので気付くことはまずありませんわ』

『ふ〜ん』


 たどり着いたのは、レイラの個室らしき部屋だった。

 八畳間の広々とした部屋には壁という壁に猫用のアスレチックが張り巡らされていた。

 床には猫向けのおもちゃが無数に転がっており、部屋の至る所にレイラのために設らえられた、見るからに質のいいベッドがいくつも目に入る。

 その部屋を見た瞬間、テトは猫としての本能で全身がうずうずしだした。


『わ! な、何この部屋! これ全部、レイラの?』

『? もちろんそうですけれど』

『いいなーっ、いいなーっ! おもちゃも、遊ぶところもたくさんある!』

『こ、こんなの普通ではなくて?』


 レイラがそっぽを向く。

 しかし、彼女の尻尾はご機嫌にフリフリと左右に揺れていた。

 どうやら自分の部屋を褒められて嬉しいらしい。

 こういうところがあるからこの猫のことを憎めないのだ。

 それからレイラは慣れた様子で部屋の窓のロックを外すと、器用に開けて、ベランダへと躍り出る。

 今夜は月が雲に隠れている。

 辺りは闇に包まれていた。


『早くなさい、テト』

『ちょっと待ってね』


 テトはその場で服を脱いで全裸になる。

 それから部屋をぐるりと見回すと、レイラの寝床の一つと思われる洞窟のようなベッドのなかに服を突っ込んで隠した。


『ちょっとっ! そこ、わたくしのベッドですのよっ』

『だってこれで見つかっちゃったら大変でしょ?』

『それはそうですが……あ、貴方の匂いがついてしまうじゃないですのっ』

『ぼ、僕、そんな変な匂いしないよ? むしろいい匂いってみんなに言われるよ?』


 レイラは、はあああぁぁ、と長いため息をつくと、顔を背け、


『……それが問題だと言っているのがなぜわかりませんの』


 と、小声で言った。


『……?』


 テトは首を傾げるが、別にそうすることでレイラの真意がわかるようになるわけでもない。

 テトは自分の内側に妖力を巡らせ、あっという間に黒猫の姿に変化した。


『なんか猫に戻るの、久しぶりかも』


 テトはその場でぐるぐる回って、自分の姿を見回す。

 自慢の尻尾は相変わらず二本あって、それぞれが自分の意思の通りにうねうねと動くから面白い。


『本当ですわよ。ここのところ、夜会サロンを欠席ばかりしていたでしょう』

『理由は伝えていたじゃないか。学校の準備とかで忙しかったんだ』

『言い訳は無用ですわ』


 レイラとテトは一緒に窓を動かして閉める。

 それからテトはエアコンの室外機の上に乗って見渡す。

 そこに広がるのは七旗の夜景。

 やはり、ここから見渡す景色は絶景の一言に尽きる。

 すると、なんとベランダの欄干の上に飛び乗る影があった。

 レイラである。


『ちょっ、レイラ! どこに乗ってるの! 危ないよ!』

『どこがですの? わたくしはここから見下ろす景色が好きなのですわ』


 そう言って、レイラはじっと眼下の景色を見下ろした。

 当然、命綱などない。壁もない。引っ掛けるための足場もない。

 時折強い風も吹く。

 しかし、レイラは確かに慣れた様子で器用にバランスを取って、危なげなく歩いた。


『いくら猫といえども、流石にこの高さから落ちれば絶命するのは必至ですわね』

『だから危ないって言ってるじゃん!』

『落ちたらの話でしょう? わたくしは落ちませんわ』

『レイラって結構、話を聞かないよね』

『意味のある話であれば聞きますわよ』

『それに憎たらしいし』

『今なんと?』

『なんでもない』


 テトはふと外を見て、レイラに尋ねた。


『ねえ、レイラ。そういえばいつもどうやって三階まで来てるの? ここの家って、すごく高いよね』


 すると、レイラはふい、と顔をある一方に向けた。


『あれを使うんですわ』

『どれ?』


 レイラの隣に並んで、彼女の視線の先を追う。

 ベランダのすぐ隣。

 そこには、金属製の無骨な非常階段があった。


『あそこに飛び移れば、あとは降るだけですわ』

『こんなのがあったんだ』

『貴方の部屋からは見えませんから。今日はあそこからそのまま一階まで行きますわよ』

『りょーかい』


 そう言って、レイラはベランダの欄干を走り、そのまま非常階段の手すりに飛び移った。

 テトもまた助走をつけて非常階段の手すりに飛び移る。

 そして二匹並んで、非常階段の足場に降り立った。

 それから、トントントントンと、二匹が縦に並んで鋼色の階段を下りていく。

 静かな夜だった。

 聞こえるのはマンションを迂回する風の音と、二匹の足音だけ。

 そうして半分ほど降ったところで、不意にレイラが口を開いた。


『ねえ、テト』

『なに、レイラ』

『死ねば、わたくしも猫又になれますの?』

『────』


 冷たい風がつま先を撫でる。

 テトは足を止めた。

 レイラは進み続ける。

 テトは慌ててレイラを追いかけて、その隣に並んだ。


『レイラ。変なことを考えるのは、よすんだ』

『変なこと? 変なことって一体なんですの? 猫又になることを望むことは、そんなに変なことですの?』

『レイラ──』

『貴方は先ほど言いましたわね。人間らしいとか、猫らしいとか、それってそんなに大事なことか──と。……それを言えるのは、貴方が猫又だからですわ』

『────』

『わたくしは今、なりたくても人間にはなれませんわ。天地がひっくり返ったって、猫でしかありませんもの』


 レイラが内側を歩くため、踊り場に差し掛かる度、テトが毎度追いつくために駆け足になる。

 何度目かわからない踊り場でテトはまた走って、レイラの隣に並ぶ。


『気持ちはわかるよ。でも、変な期待は持たない方がいい。僕は偶然、運がよかっただけなんだ。第一、君が死んだ時、どれだけ結羅が悲しむことか……。もちろん結羅だけじゃない。みんなが悲しむ。何より、僕が一番悲しい』


 レイラは一拍置いて、尋ねた。


『……貴方が? どうしてですの……?』

『レイラはその、僕の……』

『貴方の?』

『大切な、幼馴染だから』

『…………ええ、そうですわね』


 レイラはどこか残念そうに息を吐いた。

 それから月の見えない空を見上げた。


『……貴方だけが猫又としてご主人たちと一緒に過ごせるのは、ズルいですわ』

『レイラ……』


 レイラはテトを振り返る。


『だってそうでしょう? こんなに頑張って伝えようとしても、こんなに長い時間を一緒にいても、わたくしの言葉はあの人には伝わりませんもの』

『そしたら僕が代わりに結羅に──』

『わたくしの言葉が理解できるのだと伝えますの? それとも、まさか猫又であるという正体を現すおつもり?』

『そ、それは』

『口先だけの情けはただの偽善ですわよ』

『ごめん……』


 すると、階段を五段も下りぬ間に、レイラは後悔したような声を出した。


『ああ……わたくしはまた、どうしてこんな風な言い方しか……。こんなことを話すつもりではありませんでしたのに……』


 テトは慌ててレイラの言葉に続く。


『いや、今のは僕も悪かったから……』


 しかし、二匹はそこで言葉を区切った。

 ようやく非常階段が途切れたのだ。

 地上にたどり着いた。

 テトとレイラはぴょん、と地面に降り立つ。

 それから再び歩き出す。

 それから二匹はずっと無言だった。


『────』

『────』


 大通りの端を歩いている時も。

 古い家の石垣の上を縦に並んで歩いている時も。

 細い路地の間をするする進んで歩いている時も。

 その間、テトだけでなく、レイラもまたぐるぐると色々なことに考えを巡らせていたと思う。

 しかし、その時間もすぐに終わりを迎える。

 夜会サロンの会場に着いたのだ。

 会場の前でレイラは不意に立ち止まって、誰に向けるでもなくポツリと呟く。


『いけませんわね。ないものねだりをしてしまいたくなってしまいます』


 それから二匹は、他の猫たちの輪に加わった。

 その日の夜会サロンの内容は、あまり覚えていない。

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あのとき育てていただいた黒猫です。2の書影
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