あのとき育てていただいた黒猫です。2
第五匹 猫と猫又 ①
翌日の授業は、気がそぞろだった。
理由は明白。昨夜のレイラが原因だった。
あっという間に四つの授業が終わり、気がつけば昼休みを迎える。
四時限目が終わると、テトはいつものように机を移動し、近くのクラスメートの席とくっ付けて一つの島を作った。この集団のことを班と呼ぶそうで、班員とは昼食を食べる以外にも掃除当番だったりグループワークだったりを一緒にこなしていた。
「それじゃあ、牛乳を配りますね〜」
ガコガコと机や椅子を動かす音が響き渡る中、乃々愛が牛乳瓶を配る。
(……やっぱりレイラ、猫又になりたいのかな)
そんな中、テトは風呂敷を広げ、弁当箱の蓋を開ける。
紅鮭のいい香りがふわりと広がる。瑠璃香のお弁当は今日も完璧だ。
向かいに座る女子が羨ましそうにテトの弁当箱を覗き込む。
「泉君のお弁当、今日も美味しそう〜。お姉さんが作ってくれてるんだっけ?」
「そうだよ。瑠璃香は料理が昔から上手なんだ」
「いいなあ、お姉ちゃんって憧れる。あたしの弟と交換して欲しい」
「絶対だめ」
テトは箸で早速鮭とつまんで口に運びながら考える。
(……でも、本気で? だって、猫又になるっていうことは──)
もぐもぐごくん。
「泉君のお弁当って毎日絶対お魚入ってるよね。好きなの?」
「? 人間も魚、食べるよね?」
(いや、でもレイラがいくら頑固だからって流石にそれは──)
もぐもぐごくん。
「そりゃ食べるけど……え、人間?」
(……もう一回、レイラとちゃんと話し合った方がいいかもしれないな)
テトは首を捻って考え込む。
ススキ様は、後悔の念で成仏できず幽霊として彷徨っていたテトに妖力を渡したことで、猫又にしたと言っていた。ススキ様は当然、遥かに格が上の存在ではあるが──ススキ様もテトと同じ物の怪であることに違いはない。
つまり、今や物の怪の猫又であるテトにも、同様に誰かに妖力を渡して物の怪として現界させることも可能なのではないだろうか?
しかし、そもそも自分で現界することもできなかったテトに、そんな妖力があるはずもない。
「……ああ、僕にもっと妖力があればよかったのに」
テトは頭を抱えた。
──と、その時だった。
コト、と音を立ててテトの机に何かが置かれる。
「?」
顔を上げる。
そこには、いつもの柔和な笑顔で牛乳瓶をテトの机に置く乃々愛の姿があった。前屈みになった彼女の胸元で視界のほとんどが埋め尽くされる。
「はい、泉くんの分です」
「えっと、ありがとうございます」
「はい〜、どういたしまして」
そうして隣の班の方に牛乳を配りにいく乃々愛。
テトはその後ろ姿をしばらく眺めた後、ふう、と息を吐いた。
「考え込んでもしょうがないや。今日の夜、ちゃんとレイラと話そう」
「何か言った、泉くん? 今、なんか女の子の名前が聞こえた気がしたけど……」
「ううん、別に何も」
テトは牛乳瓶の蓋を開けて一気に煽る。
牛乳は、今日も美味しかった。
「一緒に帰るの、久しぶりね」
放課後の七旗駅から自宅までの道のり。
テトは久しぶりに瑠璃香と並んで帰路についていた。
瑠璃香が今日は委員会を早めに切り上げられそうということで、もともと今日は一緒に帰る予定だったのだ。結果的に、三十分ほど教室で待っただけで、すぐに瑠璃香とは合流できた。
「瑠璃香は委員会っていうやつの仕事は大丈夫なの?」
「ええ、昨日たくさん終わらせてきたし、さらにお願いされそうになったお仕事については生徒会長に頼んできたから大丈夫よ」
「そう? 瑠璃香が無理してなければいいけど……」
「テトくん、わたしのこと、心配してくれているの?」
「もちろんだよ! 最近すごい忙しいのわかっているし、そのお仕事が大事なのももっとよくわかってるから……でも、僕のために無理はしてほしくないなって」
「テトくんは優しいね。でも大丈夫よ。全然無理してないし、むしろ無理をするならテトくんのためだし」
「本当に大丈夫……?」
そんな他愛もない話をしているうちに瑠璃香とテトが暮らすマンションが見えてくる。
家に帰ったら、しばらくソファーでゴロゴロしよう──
そんなことを考えていると、不意に視界に何か違和感を覚えた。
マンションのエントランスの前で、一人の少女が頭を抱えてうろうろ歩いていたのだ。
しかも、その人影には見覚えがあって──
「……あれ、結羅?」
「本当ね、ゆらちゃんだわ。……でも、何をしているのかしら?」
そう、それは結羅だった。しかも結羅は、今にも泣き出しそうな顔で、頭上を見上げたり、草むらに視線を向けたり、スマホの画面をつけたり消したりと忙しい。
すると、先に結羅がこちらの存在に気が付く。
結羅はテトと瑠璃香の元へ駆け寄りながら叫んだ。
「……っ! テト、るりぃっ! い、いねえんだどこにも!」
「いないって、誰が?」
「れいたむが、いねえんだ!」
「っ!」
テトは息を呑んだ。
レイラがいない。それは、本当にただ、姿が見当たらないだけなのだろうか。
瑠璃香が瞬時に身を翻す。
「わ、わたしは近くを探してくるね!」
「じゃ、じゃあ瑠璃香、あの辺りを探して欲しい!」
テトは慌てて瑠璃香を呼び止めると、
「わ、わかったわ」
瑠璃香が駆け足で目的地に向かっていく。
その姿を目で追いながら結羅が尋ねてくる。
「どうしてそこなんだ?」
「……猫がよく集まりそうな場所だから」
「猫が?」
「それよりも──」
テトは結羅を振り返る。
「結羅、家の中には本当にいなかったの?」
「いなかった。散々探したけど、どっこにもいなかった。サバ缶を開けても、いつもならどれだけ機嫌が悪くてもすっ飛んでくるのに、出てこなかった」
「…………」
外出しているのだろうか?
確かにレイラは時折、外に繰り出している。
瑠璃香とショッピングモールに向かっている途中で遭遇した時のように。
しかし、テトは直感で今回はそうではないと感じていた。
レイラは結羅が帰ってくる時間を見誤るような猫じゃない。
だとすれば、外出中に不慮の事故に遭ったか、それとも──
「…………」
──結羅が、まだ見落としている場所が家の中にあるか、だ。
「結羅、レイラの部屋はよく探した?」
「ああ探した。一番よく探した。でも、いなかった」
「ベランダは?」
「ベラ……え? ベランダ? いや、れいたむが外に出ることは絶対にねえから、そこまでは流石に見てねえが──」
テトは目を見開いた。
「多分、そこだ」
「お、おいテトっ!」
テトは走り出してマンションの入り口に駆け寄る。
後ろからついてきた結羅が慌てて鍵を差し込んで開錠した。
テトはエントランスを走って横切る。
そしてエレベーターの呼び出しボタンに手のひらを叩きつける。
幸い低層階にいたエレベーターがゆっくりと下りてくる。
降りてくるまでの時間がひどく長く感じた。遅れて結羅が追いつく。
「ど、どういうことなんだよ、テトっ!」
「レイラは好きなんだ、あのベランダから見下ろす景色が! だから──」
だから、なんだ? テトは自問した。そして、恐ろしくなった。
今、自分は何を考えた? レイラはどういう理由で、あの場所を選ぶと思った?
「……っ」
考えていても仕方がない。
──好奇心が猫を殺すのだとしたら、可能性は人を殺す。
今考えても結論の出ない上にどう転んでも対処できない事柄について、わざわざ最悪の可能性を考えて備えても意味がない。そもそも備えようがない。
今はただ、最速でレイラの部屋のベランダに辿り着くことだけに集中するべきだ。
エレベーターの扉が開く。



