あのとき育てていただいた黒猫です。2
第五匹 猫と猫又 ②
テトとレイラは中に駆け込み、迷わず最上階の行き先ボタンと閉じるボタンを押す。
やってくる静寂。聞こえるのは鉄籠の駆動音と、二人分の乱れた呼吸音。
不意に結羅が口を開いた。
「どうしてテトがそんなことを知ってるんだ。れいたむがベランダからの景色を好きだなんてことをよ」
「……後で、頑張って説明するよ。ごめん、でも今は──」
「──ああ、そうだな。わりぃ。今聞くことじゃあ、なかったな」
やがて、清涼な電子音が鳴る。エレベーターのディスプレイは最上階を示していた。
扉が開く。開き切るより前に、結羅が強引に肩を捩じ込んで外に出る。
テトが追いつくと同時、結羅が家の鍵を開けるところだった。
「……っ」
結羅が先行して家の中に転がり込む。靴も脱がずに駆け込んだ。
テトも同じく革靴のまま結羅の背中を追いかける。
結羅が廊下に並ぶうちの一室の扉にタックルをする勢いで入った。テトもそれに続く。
レイラの部屋の中に入ると、やはりレイラの気配は微塵もない。
しかし、異常が一つだけあった。
カーテンが開いていたのだ。
もっと言えば、窓も開いていた。
「なんで窓が開いて──」
結羅が言う。答えは足元にあった。
結羅がレイラのために敷いたのであろう柔らかな絨毯の上に、何度か窓際と部屋の中を行き来したことがわかる足跡が残っていた。結羅が家にいた時は窓を閉めていたのだろうが、その後に開けて外と中とを往来していたのだろう。
部屋の主は、迷っていたのだ。
開いた窓から、ベランダの欄干が見える。
その上に、彼女はいた。
「れいたむ! ああ、よかった! そんなとこに居たのかよ!」
結羅の声に、白猫は驚いて振り返る。
『貴女……それにテト!? どうしてここに──』
「れいたむ、今すぐそこから降りるんだ! こっちに来い! 落ちたらどうすんだ、危ねえぞ!」
結羅が一歩踏み出す。
レイラの身が固くなる。
テトは咄嗟に二歩目を踏み出そうとする結羅の腕を掴んだ。
「結羅っ、ダメだ、待って!」
「は? テト、何を言って──」
「いいから! レイラを刺激しないで」
「どういうことだよっ!?」
「いいから……っ!」
結羅は生唾を飲み込む。
「お、おい、テト……。れいたむは、一体何をしようとしてるんだ……?」
そこでようやく結羅はことの深刻さを察知した。
「レイラ、いいから一回話そう。焦る必要は、ないんだから」
『焦りだなんて』
ハッ、と鼻で笑い飛ばすレイラ。
『この身を焦がすほどのもどかしさを知らないから言えるのですわ』
レイラはベランダの外に向き直った。
瞬間、結羅が駆け出す。
テトも半歩遅れて走る。
レイラが歌うように口を開いて。
そして、
『ごめんなさい。どうしても諦められませんの』
白猫の体躯が沈む。
身体のバネを極限まで縮める。
何をしようとしているのかは火を見るよりも明らかだった。
飛ぶのだ。──どこに?
決まっている。このマンションから、地面に向かって、だ。
「……………………っ!」
結羅が手を伸ばす。
しかし、レイラの足が伸びる方が確実に早い。
間に合わない。認めたくない。こんな結末を。
まだ手をなんとか伸ばせば間に合うんじゃないか、と、やるだけやってみればなんとかなるかもしれないなどという甘い期待を抱いてしまう。逃避してしまう──
否、受け入れるべきだ。
このままではレイラは死ぬという現実を受け入れるべきだ。
──その上でゼロから助ける方法を考えろ、猫又のテト!
「止、まれっ、レイラ──ッ!!」
咄嗟に突き出した右腕。
瞬間、テトの全身を妖力が巡った。
血管が脈打ち、神経が
テトの頭上から猫の耳が一対、姿を現し、制服のズボンの隙間から二又の漆黒の尻尾が伸びる。テトは今、この瞬間、どうすればこの力を行使できるのか、本能的に悟った。
突き出した右腕の手のひらを、握りこむ。
その刹那──ベランダの外を、立ち上った火炎の壁がレイラの行手を阻んだ。
「な……っ!」
『…………っ!!』
視界を埋め尽くすのは、一面の緋色。灼熱の炎が眼前に迫る。
ガラス窓が赤く溶解し、吹き荒れる爆風にカーテンが千切れんばかりに暴れる。
しかし、肝心の熱は全く存在しない──不可思議な炎。
それは、テトが妖術で作り出したまやかしの炎だった。
これまで人間を化かしてきたように。
今度は世界を化かしたのである。
硬直する結羅を、テトは追い抜いた。
飛ぶように床を蹴る。
一歩、二歩──三歩。
ベランダに踏み込み、そして両手を突き出すテト。
「レイラ!!」
『テトっ!?』
果たして、テトはレイラの身体を両手で捉えることに成功する。
宙で支える。しかし、
『離しなさいテト! わたくしは、わたくしは猫又になるのです! そして結羅と同じ人間の世界で生きるのですわ!! ──貴方と同じように!!』
「────』
レイラが暴れ、身を捩る。
瞬間、テトの手の中をレイラがすり抜けた。
ベランダの外へと。
「────っ!」
その一瞬で欄干の向こうに白猫の姿は消えていた。
テトは勢いも殺さずに身を乗り出して、火炎の向こうへ手を伸ばす。
熱は感じなかった。
果たして、テトの右手が肉球を捉え──掴む。
仮初の業火の中でレイラが叫ぶ。
『離してくださいませテト! お願いです、テト!』
『そんなお願い、絶対に聞かないよ! 聞くわけがないだろう!? 僕は僕のために君に頼む! お願いだレイラ! ──こんなやり方で猫又になろうとするのは諦めてくれ!!』
しかし、レイラの体重を支えきれず、欄干に乗った腰を支点にテトの身体が前転していく。
まずい、落ちる──────
その時だった。
誰かがテトの足首を掴んだ。
「くっ────そっ! あっ、がっ、れぇ……ッ!!」
結羅だ。テトの身体がゆっくりと後転し始める。
テトはもう片方の手でさらにレイラの腕を掴んだ。
「絶対に離さないからっ!」
『どうして──』
テトの足がつく。
結羅が駆け寄り、二人がかりでレイラを引き上げる。
勢いのまま後ろにたたらを踏み、二人と一匹はレイラの部屋に重なるようにして倒れた。
「「「────」」」
瞬間、偽物の炎が掻き消える。
ちぎれたカーテンは元通りになり、溶けたガラスは元の位置に納まっていた。
戻っていなかったのは、駆けつける時に結羅が倒したらしいキャットタワーくらいである。
同時に、テトの猫耳と尻尾もまた消え、人間の姿に戻った。
「っは〜〜〜〜〜!」
テトと結羅は仰向けに倒れ、荒れた呼吸を繰り返す。
しかし、そうしていたのも束の間。
結羅はすぐさま立ち上がったかと思うと、呆然と座り込んでいたレイラに抱きついた。
「どうしてこんなことをしたんだ、れいたむ!!」
結羅は泣いていた。大泣きしていた。
大粒の涙が頬を伝い、レイラの真っ白な毛並みを濡らしていく。
テトは上体だけを起こして、レイラを振り返る。
「こんなに泣いている結羅を見て、どうしてってまだ思うかい」
『────わたくしが、間違っていましたわ』
レイラはしゅん、と両耳を垂らし、結羅に向かって何度も鳴いた。
『ごめんなさい、結羅。ごめんなさい……自棄になってしまって、ごめんなさい……』
「ほんっとに危なかったんだからな! 今、死ぬところだったんだからな! 頼むから、頼むからいなくならないでくれ、あたしの前からいなくならないでくれっ!!」
『ごめんなさい結羅……もう二度と、しませんわ…………二度と、絶対に…………』
それからしばらく二人は身を寄せ合って泣いていた。
テトは頃合いを見て声をかける。



