「あの外泊の帝王ならいないわよ。今日もどっかのお姉さまを自慢の甘いマスクと、元気な下半身使って、天国まで連れて行ってんじゃないの?」
「あんたはほんとに教師か! 聖職者としての自覚を持て! びっくりするわ!」
「聖職者の自覚? そんなもの父親の睾丸の中に忘れてきたわよ」
「うわ〜、すげ〜、俺、女の人が睾丸って言うのはじめて聞きました。さすがレベル30超えて、アマゾネスにクラスチェンジすると違いますね。アビリティ、三十路ヂカラは伊達じゃないっす」
千尋の眉間がぴくりと動く。
「誰が三十路ですって〜! 私はまだ二十九歳と十五ヵ月よ!」
踏み下ろした足の力で、床が震動した。やっぱり、アマゾネスじゃんという言葉は、身の危険を感じたので、言わないでおいた。
「だったら、赤坂は? あいつなら確実にいるでしょ?」
部屋の壁を見る。隣の102号室には、空太と同学年のプログラマー、赤坂龍之介が住んでいる。
「あの引きこもりが出てくるわけないでしょ。常識でものを語りなさいよ。ああ、もう出ないと遅刻しちゃう! あと頼んだわよ!」
勢いよく千尋がドアを閉める。その拍子に、留め金が外れてドアが傾いた。猫の長い鳴き声に慰められながら、外れたドアを直していると余計に虚しくなってきた。
廊下を遠ざかって行く千尋の後ろ姿に、合コンが失敗に終わりますようにと念を送ってやった。
それから、部屋の床からケータイを拾い上げ、龍之介にメールを打つ。
恐るべき早さで返信があった。
──ただいま、龍之介様は、S社よりご依頼を受けましたサウンド圧縮用のミドルウェア開発を、それはもう退屈そうに、しかしながらお仕事だからという責任感を持ちまして行っている真っ最中にございます。そのため、せっかくの空太様からのメールですが、龍之介様にお取り次ぎすることはできません。申し訳ございませんが、ご理解いただきますよう、よろしくお願い致します。秘書役もお任せのメイドちゃんより
メイドちゃんとは、龍之介が独自開発した自動メール返信プログラムのAIのことだ。どういう仕組みなのかは、空太の知るところではないが、驚くほどに感情豊かで、信じられないくらいに頭がいい。少し砕けた文章だろうが、誤脱が含まれていようが、行間まで読んで、的確な返事をくれるすぐれものである。
それが面白くて、ヒマなときに人生相談を持ちかけたり、口説いてみたりと色々試したこともあった。
だが、今日はそんな電子のメイドとメール交換をして遊んでいる場合ではない。
もう一度、取り合ってくれるように、メールを投げた。
すると、今度もわずか一秒程度で返って来る。
──物分かりが悪いのは滅(めっ)ですよ? あんまりしつこいとウィルスとか送っちゃうぞ(笑)。ウィルスだって作れちゃうメイドちゃんより
「うおっ、やばっ!」
お茶目な文面の裏側に黒いものを見た空太は、慌てて弁解のメールを打った。
以前、本当にシステム破壊プログラムを送信され、買ったばかりのケータイをおしゃかにされた苦い経験があるのだ。
──ご理解いただけたようで何よりです。あ、でも、せっかく用意したウィルスを使えなくて少し残念ですね。早く人間になりたいメイドちゃんより
AIに気を遣って、もう一度、謝罪のメールを空太は打っておいた。
途端にため息が零れる。
「はあ、生徒も教師も変人ばっかだよ。まじで脱出しないとやばいよ。頭おかしくなるよ。早く真っ当な生活に戻りたい……誰か助けてください」
それから、もらった写真を見直す。
色白の小さな女の子は、大きな麦わら帽子を被り、純白のワンピースを着ていた。表情は薄く、カメラを向けられても笑っていない。レンズのさらに向こう側を見ているような透明の瞳をしていた。
その壊れ物のような儚さが原因なのか、空太の心臓に痛みが走る。
女の子は何かに似ている。
猫が鳴いた。
「……そうか、昔のお前たちに似てんのか」
足元に擦り寄る猫を見ながら、ダンボールの縁を掴んで自分を見上げてくる少女を想像し、そのあまりの破壊力に空太はひとり悶絶したのだった。
2
さくら荘から駅に向かう最短の道は、赤レンガ通りの商店街を縦断するコースだ。昔ながらの下町情緒溢れる感じのいいところで、この街で生まれ育った空太にとっては、遊び場のひとつとしても記憶されている。
そのせいか、通りかかるだけで、顔見知りから次々に声をかけられた。
魚屋の前では、
「よう、神田の坊主じゃねえか! 今日はサバがいいぞ」
と言われ、その先の肉屋では、
「あらあら、空太君じゃないの〜。ね、ね、今日は何がいいの? コロッケおまけするわよ」
と結局何も買わずに、おばちゃんにコロッケだけをもらい、
「空太、久しぶりだな。お前、スイコーなんだよな」
という具合に、八百屋の店番を手伝っていた中学時代の友人にもばったり会った。
都心の方では失われているらしい、近所付き合いなんてものが、この街にはまだ残っているのだ。
今さら開発を進めても、誰の得にもならないせいもあるのだろうが、水明芸術大学の城下町としては、こんくらいで丁度いいと、みんなが思っているおかげでもあるような気がする。
三年ほど前に、駅の向こうに、品揃えもよく、値段も安い大型スーパーができたが、もっぱら空太は商店街を利用している。なんかこっちの方が落ち着くのだ。
そう思っている人が他にもいるおかげか、今もなんとか商店街は生き残っていた。
もらったコロッケを頬張りながら歩いていると、すぐに駅前にたどり着いた。
芸大前駅と名を冠しながらも、大学までは大人の足でも十五分はある。毎年、知らずにギリギリに来た受験生の何人かがこの罠にはまり、涙を呑むのは地元では有名な話だ。
改札がひとつしかない不便な駅で、駅の反対側に住む人たちは、踏切を渡って回ってこなければならない造りになっている。
空太は改札前のロータリーの鉄柵に腰掛けて待つことにした。
財布に挟んだ写真を出して、今一度確認しておく。
椎名ましろ。
変わった名前だ。
千尋は従姉妹だと言っていたが、随分歳が離れている。
そんなことを考えていると、ホームに下りの電車が入ってきた。
いつもなら、帰りがけの中高生がぞろぞろと降りてくる時間だが、春休みの今は人もまばらだ。正体不明で年齢も不詳な、何をやっているのかよくわからない人たちが、駅から出てくる。
その中に、空太は見知った顔を見つけた。向こうも空太に気づいたらしく、少し驚いて目を見開く。それから、軽快な足取りで、空太の前までやってきた。
「なにやってんの、お前? 俺を待ってたとか?」
「違いますよ」
「そりゃそうだよな」
何が面白いのか、三鷹仁が声に出して笑った。
茶色のふんわりヘア。スリムな体型でかなりの長身。近くにいると迫力もあるが、全体的な雰囲気は、どことなくやわらかい。
シャープなデザインのメガネが知的な印象の三年生は、男の空太から見ても、文句なしにかっこいいと言えた。
だから、モテるのも頷ける。首筋にキスマークを見つけても、今さら驚かない。それが仁の日常なのだ。
さくら荘の部屋は103号室。特技は女性のスリーサイズを服の上から当てること。
「なになに、お前、何持ってんの? なんかいい匂いするけど」
もらったコロッケの袋を覗いてくる。落ち着きのある大人っぽい身のこなしに似合わず、表情には幼い好奇心が浮かんでいる。
「肉屋のコロッケです。来る途中で、もらったんすよ」