「あ、いいな、俺にもくれ。朝食ったきりでさ」
差し出したコロッケを、美味そうに仁が頬張る。
「空太って、すげえよな」
「は?」
「商店街通っただけで、こんな美味いコロッケゲットするんだろ。天才だよ、尊敬するよ」
「街を歩けば、女性が妊娠しかねない仁さんの方がすごいでしょ」
「おいおい、避妊はちゃんとしてるぞ」
「それに、美咲先輩のアニメも……大好評じゃないですか」
その脚本は、仁が書いたものだ。
「あれは、美咲がすげえだけだよ。昔からあいつは変態だからな。うん、美味いな、俺、ここのコロッケ好きだ」
仁が話を逸らそうとしているように思えたので、空太は食い下がらなかった。
「今度、おばちゃんにお礼言っときます。仁さんが褒めてたって」
「ああ、そういや、お前、地元民なんだったよな」
「そうですよ」
「なんで、寮に入ってんだ?」
「それ、今さら聞くんすか? ま、いいですけど、たいして面白くないですよ」
あれは、約一年前、高校の合格発表当日のことだ。
まさか受かると思っていなかった空太は、合格祝いと称して、友人たちとカラオケで盛大に歌いまくった。
日付が変わるすれすれに家に帰ると、リビングで仁王立ちしていた親父に捕まった。
「お前も、もう高校生だ。選ぶ権利をやろうと思う」
「はい?」
「家族と一緒に福岡に行くか。一人寂しくここに残るかを選べ」
腕組みした親父の言っていることは意味不明だった。
助けを求めるように、鼻歌を歌いながら洗い物をしている母親を見た。
「急にねえ、父さんの転勤が決まったのよお」
「ほう、なるほど。で?」
「だから、一緒に来るか、残るか選べ」
「ちょっと待て。親父だけ単身赴任じゃねえの?」
「何を言う。息子よ。それでは俺が寂しいだろう」
「親父のくせに、寂しいとか気持ち悪いこと言うな!」
「というわけだから、当然、母さんも優子も連れて行く」
「なんで俺は違うんだよ」
「お前がいてもいなくても、俺の寂しさに影響がないからだ」
「あ、そうですか。で、優子の学校はどうすんの?」
「すでに転入届は出した」
「はやっ!」
けど、まあ、いいだろうと空太は思っていた。憧れていた一人暮らしができるのだ。
「ちなみに、さっき不動産屋に寄ってな。この家は売ることにした」
「ちょっ! 決断早すぎ!」
「俺はもう明太子の国に骨を埋めようと思う」
「あんた正気か! 目を覚ませ! つうか、明太子の国って、福岡に謝れ! きっともっと他にもいいとこある!」
「安心しろ。俺はホークスファンだ」
「知るか!」
「母さん、もう限界だ。やはり、年頃の息子とは話があわん。思春期ってやつはこれだから厄介なんだ」
「ちょっと待て! 俺のせいっぽい感じで終わるなって」
呆れた顔の親父は空太から離れ、さっさと風呂に入ってしまった。さすがに追いかける気分にはなれなかった。誰が親父の裸など見たいものか。
代わりにやってきた母親が空太の前に座った。
「で、どうするの? 人生の選択ね」
「学校のパンフってまだ取ってあるよね? 寮って幾らかかんだろ」
「朝夕二食付きで、五万円だって書いてあったわよ」
母親が得意げな顔をする。
「……最悪、バイトすりゃなんとかなるか」
「え〜、ちょっとなんでなんで、お兄ちゃん、一緒にこないの!?」
突然、割り込んできたのは、ピンクの子供っぽいパジャマを着た妹の優子だ。
空太に駆け寄ってくると腕を取って、なんでなんでと上下に揺すった。
「あたし、お兄ちゃんが一緒じゃないとやだよお。お兄ちゃんはあたしと離れ離れになっても平気なの? 信じらんない!」
四月から中学二年生だというのに、やけに幼い精神構造は心配の種だった。昔から、体は強い方ではなく、いつも空太の背中に隠れるようにしていた妹だけに、今回の転勤騒動に対して一番思うところがあったのかもしれない。
「俺もせっかく受かった学校をケリたくないしさ」
「家から一番近いからって不純な動機のくせに! 福岡の家から一番近いところに行けばいいじゃん! 不純なくせに!」
その後も、優子の勢いは止まることなく、なにがなんでも空太を連れて行こうと説得の言葉をまくし立てた。
空太が揺らがないと見るとべそをかき出し、これ以上ないくらいに空太を困らせた。最終的には、母親の一言で押し黙った。
「ほらほら、わがままばかり言わないの。お兄ちゃんに嫌われちゃうわよ」
十三年間母親をやっているだけに、娘の扱いには慣れている。
「わかった……。お兄ちゃんのことは諦める……」
売られていく子馬のような眼差しを残し、優子は自分の部屋に帰っていった。
その翌日に、空太はスイコーへの入学と入寮の手続きを済ませ、家族は引っ越しの準備にかかった。
そんな一年前の出来事が、今では随分と昔のことのように思える。
話の最中から、仁はけらけらと笑い続けていた。
「羨ましい家族だな」
「全部、あほな親父のせいです」
「ま、けど、深刻な事情じゃなくて安心した。やばいもん出てきたときの予防線、張ってなかったからな」
「一家離散とか? 親父失踪とか?」
「そういうこった」
にっと仁が爽やかに笑う。この表情で女性は落ちるんだろうなあ。
「で? お前、ここで何してんの?」
「ああ、これです」
千尋から渡された写真を仁に見せる。
「かわいい子だな」
「そうですね」
「五歳くらいだよな」
「だと思います」
「お前の妹とか?」
「いや、違いますよ」
「うん、よし、わかった」
「何がわかったんですか?」
「警察に行くぞ、空太。俺はロリコンですって自白するんだ。そして、最近この辺でも多い、変質者による痴漢事件の犯人として名乗り出ろ。俺も一緒に行ってやる」
「真顔でなに言ってんですか! 違いますよ! 先生に頼まれたんです! 駅に迎えに行けって言われて」
「あ、なんだ。そんな落ちかよ、面白くね〜」
「俺が痴漢の方が面白かったんですか」
「ま、このつまらん現実よりは、幾分ましだろ」
どこまで本気かわからない顔を仁はしていた。
馬鹿話が一段落したところで、黒いタクシーがロータリーに入ってきた。空太から十メートルほど離れたタクシーの乗り場に停車する。
何の気なしに見ていると、後部座席から見慣れたスイコーの制服を着た、見知らぬ少女が降りてきた。
制服はまだ真新しく、体に馴染んでいない。茶色のトランクを両手で前に下げ、走り去った成田ナンバーのタクシーを見送る横顔は、どこか退屈そうだ。
わずかに釣り上がった目元のせいで大人びては見えるが、制服を着ているのだから、空太と同年代のはずだ。
透き通る白い肌が、彼女のいる周囲の空間までも、白く染め上げていく。
その美しさに、空太は目を奪われた。頭の中から余計なものは失われ、果てしなく続く白い世界だけが心の中に残っている。周りの景色は見えなくなって、呼吸は苦しくて、自分がどこにいるのかも、このとき空太は忘れた。
一面の雪原に少女がひとりで立っている。そんなありえない錯覚の虜にされていた。
「雰囲気あるなあ。あの子。なあ、空太?」
「…………」
「空太?」
仁が何か言っている気がしたが耳に入らない。
彼女が静かに歩き出す。猫で言えばイリオモテヤマネコ。芯のある存在感を放ちながらも、どこか危うさが常に漂う絶滅危惧種。目を逸らした隙に、儚く消えてしまいそうな不安な気持ちにさせられる。
彼女は音もなく、ロータリー脇のベンチに、それこそ人形のように座った。
空太との距離は約六メートル。
わけのわからない緊張に負けて、空太は喉を鳴らした。