ウィザーズ・ブレイン

第一章 騎士と天使と悪魔使い~Dance in the air~ ②

 夢破れて故郷に帰りついた男が、かつての恋人と再会する。なにもかもなくしてしまったと嘆く男に、恋人は優しく微笑ほほえみかける。たとえすべてを失っても、明日に望みがもてなくても、青い空があり緑の草原があり、そして愛する人がそばにいれば、それだけで世界は美しい。『I LOVE THIS PERFECT WORLD』。そんな歌だった。

 彼女の、好きだった歌だ。

 ──だが、その美しい歌声に聞きはれかけたゆういちは、すぐに重大な事実に気づいた。


「軍曹、この周波数はいくつだ」

「は?……一六〇〇、ギガヘルツ」言いかけたパイロットの表情が、凍りついた。


「なぜ、軍用周波数帯で民間の放送が聞こえる!」叫びの半分は、自分自身のうかつさに対して向けられたものだった。すぐさま公共電波の利用状況を呼び出し、この放送が本来流れているべき周波数と一六〇〇ギガヘルツという値を見比べる。

 I-ブレインは、いつしゆんで解答をはじき出した。

 パイロットを押しのけるようにして操作卓に手を伸ばし、タッチパネルに周波数をたたき込む。

 次の瞬間、スピーカーから流れ出したノイズ混じりの音声に、祐一は息をんだ。


『……こちら『ジークフリード』! 異常事態発生! 至急、救援をこう……どうした、本部! なぜ応答しない!』



 排気ダクトのチタン合金製の床は、もちろん人が座るためにあるわけではないのだから、座り心地は最低だった。

 冷たくて、固くて、みがいたガラスみたいによく滑る。おまけに、背中にあたるかべじやばら模様になっているせいで、どんな座り方をしても落ち着かない。

 硬くなってしまった関節をなんとかほぐそうと上半身だけで伸びをするが、天井に手がぶつかってしまう。それじゃあ、と体を前に倒すのだが、今度は足がつかえてうまくいかない。

 もう二度と、排気ダクトだけはやめよう。天樹錬はため息をついた。


「……いい考えだと思ったんだけどなあ……」


 声変わり前の高いボーイソプラノのつぶやきは、天井にはんきようしてかすかなビブラートを奏でた。

 天樹錬の、名字が『天樹』で名前が『錬』だ。『あまぎれん』と読む。この『錬』という名前をつけてくれたのは兄と姉なのだが、どうにも妙な名前だ。

 三年ほど前のことだが、家中のデータライブラリーをひっくり返して、ありったけの小説を読みあさっても、自分と同じ名前が一度も出てこないのが不安になって、兄に由来を尋ねてみたことがある。


「『錬』っていう字はね、錬金術からとったんだ」

「錬金術って、あの、金をつくるやつ? 中世ヨーロッパの」

「金を創る、というのは錬金術師達が自分の研究を的に言い表したもの。彼らの目的はあくまでも真理の探究、フラスコの中での奇跡の再現であって……」


 以下、説明は一時間に及んだ。そのときは、なるほどいい名前をつけてくれたもんだと感心したが、あとになってよく考えてみたら、すごいのは錬金術であって錬という名前ではない。

 要するに、珍しい名前がつけたかっただけなのだろう。

 それが悪いとか、自分の名前が嫌いだとかいうわけではないのだが。

 つきねえひるにい、心配してるかな。ぼんやりと、そんなことを考える。『ちょっと、仕事してきます』と書置き一つテーブルの上に残したきりで飛び出してきたわけだから、心配していないはずがない。

 まあ、悩んでも仕方ないか。

 よっと掛け声ひとつ。それやこれやを頭から追い払い、作業を再開する。

 れんが今いるのはこう市軍所属大型そうかんおう』の艦内で、この船は旧ロシア地方上空を平均時速一万五〇〇〇キロで飛行し、まもなく目的のポイントに着こうかというところだ。

 昨夜遅くに、資材の搬入にまぎれてこの船に忍び込んでから、もうすぐ一二時間になる。

 錬はその間、ぼんやりとただ座っていたわけではない。ダクトのへきめんの一部は切り裂かれてケーブルがむき出しになり、有機コードをつたって錬のうなじのあたりまで延びている。生体細胞をベースに造られたコードは首筋のところでもぐり込み、I-ブレインと分子レベルでゆうごうしている。

 I-ブレインは『INFORMATIONAL BRAIN』。大脳四六野のすぐとなりに存在するその器官は、大脳生理学とでん学の結晶たる、人類の生み出した最高の生体コンピュータだ。その演算速度は、個人差もあるが、通常の一〇万ビットクラス量子CPUの数百、数千万倍に及ぶ。


ゼロ番から一〇の二二乗マイナス一番までをクリア。全システムを掌握)

「できたっ!」

『桜花』の乗っ取りに成功したことを示すメッセージが、脳の裏側に浮かび上がった。

 I-ブレインの感覚を他人に説明するのは難しい。通常のディスプレイのように画面が目の前にあるわけではないが、そうかといって、二一世紀の終わりごろにはやったように、五感のすべてを機械に預けてネットの世界に没入するわけでもない。

 肉体の感覚をすべてこちら側に残しながら、同時に、ひたいの裏側にもう一人自分がいて、そいつは『こちら側』ではない『あちら側』をもう一つの肉体で体感するような、そんな奇妙な二重感覚。完全にかくせいしながら見る白昼夢、とでも言えばいいのかもしれない。

 あちら側の錬のまわりには無数の窓が浮かび、その中を高速で文字列が流れていく。やろうと思えばもっとリアリティーのある、それこそ、現実世界と区別がつかないような仮想現実を脳内に構築することもできるが、I-ブレインに負担をかけるだけでなんの意味もない。少なくとも作戦中は、この一番シンプルで一番アナクロな絵を使うことにしている。

 そう、今は作戦中なのだ。


『二月一三日午後二時三〇分、旧ロシア上空、東経八五度北緯五〇度地点高度一万メートルにおいて、ベルリン市軍から神戸市軍に、ある実験のサンプルが引き渡される』


 それを奪取することが依頼の内容だった。サンプルは、『四番』と呼ばれるもの一つだけを回収し、ほかのものには絶対に手をつけないこと。一週間後にこちらのエージェントが接触するまで、それをすること。

 依頼人はわからない、入手すべき物の正体もわからない、普通なら絶対に受けないこの奇妙な依頼をそれでも受けたのは、結局のところ、報酬につられたからだった。

 シティ・マサチューセッツの市民ID、三人分。

 世界に七つしかないシティは、そのへい性ゆえにきびしい人口調整を行い、外部からの入植者を受け入れない。シティの人口は、大戦後の混乱期に幸運にもシティに住むことのできたその人口から、決して増えることはないのだ。

 れんの住むダウンタウンの海賊へいや世界的に流通しているクレジットをいくら積んだところで絶対に手に入らないそのパスを、三人分。

 なんとしても成功させなければならない。

 脳内時計が『二時三〇分』を告げる。時間がきた。

 自分の脳内で起動していた通常のハッキングプログラムを終了し、I-ブレインのおく領域にあつしゆく保存されていた特殊なプログラムを展開する。


(フォルダ『デーモン』をオープン。仮想精神体制御デーモン『チューリング』起動)

「作戦、開始」


 はやる心を抑えて淡々とつぶやいた錬は、もはや自分の支配下に置かれたそうかんおう』のメインシステムに対して、一連の命令を送り込んだ。


 スピーカーから飛び出す悲鳴混じりの叫びに、ゆういちこぶしを握りしめた。


「ジークフリードの様子を出してくれ」

「は?」パイロットはげんそうに「で、ですが、この距離ではカメラの解像度が……」

「足りない部分は、おれが演算する」有機コードを取り出し、I-ブレインを画像処理系統に接続する。「始めてくれ」


 パイロットがうなずき、操作卓に向き直る。数秒の間を置いて、サブディスプレイの映像が船外カメラ視点に切り替わる。

 ひっ、と息をのむ音が、パイロットののどから漏れた。