ウィザーズ・ブレイン

第一章 騎士と天使と悪魔使い~Dance in the air~ ④

 直径一〇メートルほどのホールをはさんだ反対側に、目的の部屋が見えた。

 そして。


「遅かったな」


 薄暗いホールの闇と静寂を従えて、その男は悠然とたたずんでいた。黒い軍服と、黒いロングコートと、黒いミラーシェードに身を包んで。

 東洋系の人種、おそらくは日本人。年は二〇代後半、三〇代かもしれない。短くそろえられた黒髪も一九〇センチ近い無駄のないたいも、そいつが優秀な軍人であろうことを示していた。

 だが、それ以前に、そいつは人間とは異なる、なにか死神めいたものに見えた。


「ずいぶんと好き勝手に暴れてくれたが、ここまでだ」


 男は、手に持った剣をゆっくりとさやから引き抜いた。放り捨てられた鞘は、冷たく乾いた音を立てて床に転がった。

 構えもなにもなく無造作にさげられたその剣は、おとぎばなしに出てくる西洋のが使うものを少し短くしたような大きさで、刃の表面からつかの先までをびっしりとおおうように細かな文様が彫り込まれ、ところどころに材質もわからない宝石がいくつも象眼されていた。

 全体として一つの巨大な構造をなすよう形作られたその細工は、飾りと呼ぶにはいささか大げさで、芸術と呼ぶにはあまりに無機的だったが、れんにある物を連想させた。


「投降しろ。抵抗するなら、殺す」


 すなわち、精巧な電子回路を。


 ゆういちは、剣をだらりとさげた『無形の位』の構えをとりつつ、敵の姿を見やった。

 ……まさか、子供一人とはな。

 中途半端な長さの少しくせのある黒髪に、顔のサイズの割に大きな黒いひとみの、どこにでもいそうな日本人の少年。年は一三、四歳だろう。体が小さくてやせているから、本当はもう少し上かもしれない。特殊工作員よろしく肌にぴったりとつくタイプのぼうじんシャツに身を包み、腰には論理回路の刻まれたサバイバルナイフをさげている。

 単独で行動するということは、自分自身のI-ブレインに相当の自信を持っているのだろう。実際、ここまでの手並みは子供とは思えないほど見事なものだ。

 だが、ほうせんとうの優劣は、I-ブレインの演算速度とは違う次元に存在する。

 ……君の力、見せてもらおう。

 先手必勝。ひとみをすっと細め、頭の中に意識を集中する。


(I-ブレイン、戦闘起動)


 思考の主体をI-ブレインに移行。思考単位をナノセカント(一〇億分の一秒)に固定。


(情報構造体を接続。「自我ローカルネツト」と「情報の海グローパルネツト」をリンク)


 状況の認識。体内の熱量の流れ、神経パルスの波形、きんせんの張力、外部の温度、湿度、圧力、床面のさつ係数……。無数の情報を脳に収めたら、次はそれらを『書き換えて』いく。


(「身体能力制御」発動)


 I-ブレインは単なるコンピュータではない。より正確に言うなら『ある一定以上の演算速度を持ったコンピュータは、もはや、コンピュータではない』。

 コンピュータは、情報を扱う機械だ。

 端末ディスプレイの生み出す映像、音、言葉、思考。すべては、抽象化されたゼロと一の無限列によって構成される『情報』に過ぎない。

 では、情報とはなんなのか。

 その答を最初に見出したのは、二一世紀のネットダイバー達だった。彼らはよりリアルな仮想現実を追求した末に、あるとき気づいた。

 自分達が扱ってきたものは、ディスプレイに表示される文字列や、回路を流れる電流のオンオフではない、もっと抽象的ななにかであったことに。そして、そのなにかは現実の世界にまで広がっていることに、現実と仮想現実の間に本質的な区別がないことに。

 世界は『情報』でできている。

 人の心も、物理法則も、しよせんは情報に過ぎない。ただ、それらの情報は広大で、この世界の本質に深く食い込んでいるために、固くて変質しにくいだけだ。

 ならば、こちらもより速くより強く、情報を押しつければいい。

 電子や光の流れを媒介せずに『情報』を直接操作することが可能ならば、物理法則はたやすく乗り越えることができる。

 ネットワーク構造を伝ってコンピュータのデータを書き換えることと、世界のすべての情報によって構成される広大で煩雑な『情報の海』を伝って、物理定数や基本式を書き換えることとの間には、本質的な違いはなに一つない。

 世界で最初の一〇〇万ビット量子コンピュータが起動され、現実に『熱力学第二エントロピー増大法則の破れ』が観測された。『情報の海』の実在が確認され、二〇世紀の科学が切り捨てたあらゆるオカルトに再び科学の光があてられた。二二世紀半ばのことだ。

 そして、『魔法士』が生まれた。


(運動速度、知覚速度を二〇倍で定義)


 時間が遅くなり、五感の情報がすべて数値データに変換されていく。『身体能力制御』は自分の体内における物理法則を改変し、筋力、反応速度、神経伝達速度を増幅。同時に、不自然な運動の生み出す反作用から肉体をする。

 多様なほう能力の中にあって、その力は最も単純で、近接せんとうにおいては最も効果的だ。

 踏み込む。

 二〇倍に加速された肉体は、本来の物理法則を切り裂いて、疾走を開始。

 一歩目、足が床面に接する。I-ブレインがめまぐるしく回転し、高速運動が生み出すしようげきを、片っ端から打ち消していく。

 少年がきようがくに目を見開く。

 予想よりも反応が早い。知覚速度はおそらくこちらと同等。

 だが、運動速度が伴っていない。

 続けて二歩目。

 ここで、少年の肉体が動作を開始。

 推定運動係数は約五倍。なかなかの数値だ。

 三歩で射程距離に飛び込む。りにいつせんねらうは少年の右腕。

 剣の軌道上にあった腕が寸前で引かれ、小さな体が向かって左に大きく跳びすさる。

 剣先が床にたたきつけられる寸前で、右足に力を込める。直線の運動量を円の動きに転化させ、まだかい運動中の少年に向かってり上げるように一閃。

 せつ、チタン合金製の床が大きく変形して巨大な手が出現、剣の軌道に立ちふさがる。


剣「めいおう六式」情報解体発動)


 かまわず、チタン合金の手に向かって叩きつける。接触したしゆんかん、騎士専用剣型デバイス『冥王六式』が『手』の論理構造をハッキング、消去。自らのよって立つ論理を失った『手』が、砂のように崩れる。

 少年が、さらに一歩距離をかせぐ。

 斬り上げた剣先を引き戻しつつ踏み込む。少年との距離を一瞬でゼロに戻し三撃目。剣を水平に構え、まっすぐに突き出す。

 正確に少年の右腕を狙ったこの突きは、しかし、いつのまにか少年の手に出現していたナイフに受け止められた。


(情報解体、失敗)



『冥王六式』の干渉力がナイフの論理構造に抵抗される。ハッキングが終了する前に、少年は突きの勢いを利用してちようやく。ナイフを騎士剣の干渉から逃れさせ、距離を取ろうとする。

 よく、かわす。

 ゆういちは、剣を正眼に構えた。


剣「めいおう六式」完全同調。光速度、万有引力定数、プランク定数、取得。「自己領域」起動準備)


 論理構造を回復したチタン合金が空中で再結晶し、床に跳ねて甲高い金属音を立てた。



(運動係数制御デーモン「ラグランジュ」じようちゆう。知覚倍率を二〇、運動能力を五に設定)


 と同時に、男が踏み込んできた。

 速い。

 二〇倍に引き伸ばされた時間の中で、男は当たり前のように『普通』に動いて見せた。れんには、剣の動きを目で追いつつじりじりと体を逃がすことしかできない。

 知覚速度と運動速度の比率は四分の一。空気がコールタールのように重く感じられ、ひどくじれったい。

 だが、これ以上の速度での運動は、自分の肉体をかいしかねない。脳内に常駐した『運動係数制御デーモンラグランジユ』によって肉体の運動速度と知覚速度は限界まで加速されているが、錬のI-ブレインは近接せんとうに特化されているわけではないのだ。