右手めがけて剣が迫る。予測できていなければ到底かわせないスピード。ぎりぎりのところで腕を引き戻しながら、体ごと右に飛びすさってかわす。
男の体勢がほんの一瞬だけ流れる。そのわずかな時間にI-ブレインの容量を一部解放し、床面を構成するチタン合金に対して意識のチャンネルを開く。
(仮想精神体制御デーモン「チューリング」起動。「ゴースト・ハック」をオートスタート)
I-ブレイン内に圧縮保存されている仮想精神体がチタン原子の情報を上書きしていく。
『仮想精神体制御デーモン』は情報の海を介して対象の物体に仮想意識を送り込み、生物化させて支配下に置く。
送り込まれた意識体は、なんらかの手段で対象の物体に『思考』させ続けない限り、一〇秒足らずで拡散、消滅してしまう。本来はコンピュータ制御された一般兵器に対する攻撃手段として用いる以外に使い道のない能力だが、ナノセカント単位で進行する対魔法士戦闘においては有効な攻撃・防御手段として機能する。
錬の命令に従ってチタン合金の床が変形し、巨大な『腕』が出現する。
男はすぐに体勢を立て直し、切り上げるように一撃を放つ。速すぎる。こちらはまだ着地もできていない。創ったばかりの『腕』でかろうじて受け止める。
(論理式破損。ゴースト強制解除)
『腕』を腕たらしめていた情報はおろか、『チタン合金』という属性までもが一時崩壊。金属結合をとかれたチタン原子がばらばらにくだける。対応が速すぎる。これでは距離を取ることができない。
とっさに腰のサバイバルナイフに手を伸ばす。
(右腕の運動を一五に再設定)
右腕が跳ね上がり、三撃目の突きを受け止める。同時に軽く跳躍し、剣の勢いを利用して後方に逃れる。姉のお手製のサバイバルナイフは騎士剣の干渉力をなんとかしのいでくれたが、超過運動と衝撃の相乗効果に耐えられず右腕の毛細血管が破裂、腱もなん本か切れた。神経パルスを制御して痛覚を遮断する。
男が、剣を正眼に構えるのが見えた。
後方に跳躍した現実の肉体は、慣性の法則にしたがって宙を滑る。着地するまでほんの一秒足らず、そのわずかな時間を使って、I-ブレインの起動状態を変更する。
(肉体制御、自動回路に移行。脳内容量開放。全力起動準備)
目の前の一点を中心に、視界が裏返る。周囲が闇に包まれ、文字列に埋め尽くされた無数の『窓』が浮かぶ。思考の主体を『I-ブレインの中の錬』に移行。ナノセカント単位に引き延ばされた極限まで濃密な時間の流れの中で、思考が研ぎ澄まされていく。
正面の一番小さな窓を指差す。窓が弾けていくつかの銀色の球体に分かれる。銀色の球体は、りんごの皮をむくようにするするとほどけて無限に連なる文字列の紐となり、互いにより合わさって二つの能面のような人の顔を形作る。
それに呼応するように、それまで錬の周りを飛び回っていた二つの銀色の妖精が文字列の紐に分解、窓の中へと吸い込まれていく。
(「ラプラス」「マクスウェル」常駐。容量不足。「運動係数制御」「仮想精神体制御」強制終了。肉体感覚復帰)
思考の主体が再び『現実の錬』に戻り、視界の中に薄暗いホールの灰色の壁が出現。
右足、左足、と着地の感触。
正面から、男が突っ込んでくる。
肉体が反応するよりも、意識が反応するよりも遥かに速く、I-ブレイン内に常駐した短期未来予測デーモン『ラプラス』が起動する。その能力は、近接空間内の全物質の座標、運動量を初期値とした、三秒先までのニュートン力学的未来予測。
視界の中に、予想され得る剣の軌跡が可能性の高い順に書き込まれ、盾を創るのに最適のポイントが赤く点滅する。
(エントロピー制御開始。「氷盾」起動)
右腕を振り上げ、目の前の空間を払う。と、手のひらが通過した一角で気温が低下。一〇センチ立方ほどのわずかな空間は瞬時に絶対零度近くまで低温化し、小指ほどの大きさに固体化した空気結晶が淡青色のきらめきを放つ。
分子運動制御デーモン『マクスウェル』。その能力は、気体分子の運動を制御する仮想存在『マクスウェルの悪魔』の生成による、局所空間内のエネルギー、運動量の操作。
生み出された空気結晶は、その一部は寄り集まって手のひらほどの大きさの淡青色の盾となり剣の衝撃を拡散吸収、残りは一定の運動量を与えられて銃弾となり男に襲いかかる。
男は寸前で剣を引き戻し、氷の銃弾を弾きつつ後方に跳躍する。
回避する軌道など予測のうち。
男が着地した瞬間には、『マクスウェルの悪魔』は情報の海を伝って移動を終えている。
(「氷槍」起動)
男の左右、後方、頭上の四方向に氷の槍を生成、回避軌道をふさぐ。
男が迎撃のために構える。その表情には、あせりの色はまったく見られない。男の能力をもってすれば、氷の攻撃をすべて叩き落とすのは容易いことだろう。
予測通りの反応だ。
(「マクスウェル」熱量操作。「炎神」発動)
氷の槍を創り出すために奪い去った熱量。エネルギー保存則ゆえに消えることもできず周囲に漂うそいつらを、そっくりそのまま槍の中へと戻してやる。
槍を構成する窒素結晶が一瞬で沸騰する。固体と気体の体積差はおよそ数千倍、高圧縮状態に置かれた気体は音速の壁すら超過して膨張する。
あとに続くのは、水蒸気爆発。
男を中心として、空間が爆ぜた。爆心地の床が異様な音をたてて陥没し、四方に飛び散る衝撃波は、真空の盾に包まれた錬の体を避けてチタン外壁に叩きつける。
爆発が収束するまで、ほんの一秒足らず。空間に残る振動の余韻もすぐに消え去り、やがて、ホールは静寂に包まれた。
錬は、ほうと安堵の息を吐いた。
──危険信号が真後ろから襲ってきた。
(攻撃感知。回避不能、防御不能)
『ラプラス』の告げる警告の意味を理解するよりはやく、焼けるような痛みが左足を貫いた。
「……がっ!」
すさまじい痛みは神経を伝い、脳を撃ち抜いた。
意識を集中することができない、痛覚を遮断することができない。
転げるように二撃目三撃目をかわしながら、体をひねって振り向いた錬の視界に、闇色のロングコートが死神の翼のごとくはためいた。
立ち上がろうとして、失敗する。足を斬られた。たぶん、骨の近くまで達している。
這いずるようにして男の攻撃から逃れる。
かわしきれない。右腕を浅く斬られる。
動くたびに新たな痛みが走り、鮮血が飛び散る。
頭が混乱する。わからない。どうやってあの爆発をかわしたのか。どうやってこちらの真後ろに移動したのか。一億分の一秒単位で世界を見る『ラプラス』の力をもってしても、瞬間移動にしか見えなかった。
背中に、とん、という軽い衝撃。血の気の引く思いで後ろ手に探ると、チタン外壁の滑らかな手触りがあった。
朦朧とした視界の中、男が剣を突きつける姿が、やけにはっきりと見えた。
体中の血液が逆流しているかのような、すさまじいめまいと吐き気。力を失った四肢は、どれだけ動け動けと念じても、まったく反応してくれない。
自分の意志とは無関係にまぶたが閉ざされていくのを、錬は感じた。
……脳裏に、家で待っている兄と姉の顔が浮かんだ。