ウィザーズ・ブレイン
第一章 騎士と天使と悪魔使い~Dance in the air~ ⑥
考えるより先に体が動いた。ぼろぼろの右腕が跳ね上がり、剣先をはじく。同時に体は
完全に使い物にならなくなった右手から、ナイフが滑り落ちる。
頭が冷えた。
もし自分が負けたら、死んでしまったら、兄と姉はどうなるか、どれだけ悲しむか。
痛覚遮断、左足の血流をカット。
砕けるほど奥歯をかみしめ、壁を支えに立ち上がる。
この足では動けない。『マクスウェル』の攻撃は効果がない。脳内麻薬が思考を活性化し、
やるしかない。
(「アインシュタイン」
まだ動く右足で床を
剣先をかいくぐり、目の前に着地。左足が体重を支えられず体がよろけたが、かまわず男の顔を正面から見据える。
男はたじろいだように半歩後ずさり、反射的に剣を振り下ろす。
錬は、無我夢中で左手を突き出した。
(空間曲率制御開始。「次元回廊」発動)
「ふう、これでよし」
左足と右腕の応急処置をすませると、錬は、壁に頭をもたれさせて目を閉じた。
疲れた。あんな強い相手と戦ったのは生まれてはじめてだった。次にやったら、たぶん勝てないだろう。
このまま眠ってしまいたかったが、そうも言っていられない。脳内時計が『二時五二分』を告げる。壁に預けたままの体を引きずるようにして立ち上がり、あらためて周囲を見まわした。
ここが目的の部屋の中だ。さっきの男は
気温が低い。ここは一種の冷蔵庫なのだろう。五〇メートル四方ほどの大きさの部屋には、
「ってことは、どれかが四番だね」
ガラス筒はどれも、表面が
「……脳?」
培養槽に浮かんでいたのは、人間のものと
「これ、生きてる」
あることに気づいた。まわり込んで脳の正面、前頭葉のあたりを見る。中心から少し外れたところに、まわりの組織に比べてしわの数が多すぎる、少し
「……I-ブレイン」
慌てて
「ってことは、四番っていうのも……」
錬の頭に、自分のベッドの
かすかに顔をひきつらせながら、培養槽の番号を読み取り、四番を見つける。
ひんやりとしたガラス筒の表面に手を当て、さっと
その
そこにいたのは灰色の脳ではなくて、白い肌の人間、それも錬と
錬は思わず見とれた。肌が、文字通り透き通るように白い。肩までの長さの金色の髪に
視線を下げると、胸のあたりが規則正しく動いていた。人形ではない。
ところで、少女は培養槽の中に入っているわけだから、当然なにも身に着けていない。
──大きな、エメラルドグリーンの
少女の目がいつのまにか開いていて、人形が人間になっていた。少女は数回
つられて、
慌てて両腕を広げ、少女を抱き止めた。
「うっ!」
痛覚遮断の大きな欠点は、けがをしているという事実を本人がときどき忘れてしまうことだ。腰が砕けそうになるが、なんとか片腕片足で踏みとどまることができた。
幸いなことに、少女の体はとても軽かった。
「と、とにかくはやく脱出しないと」
なんとか声がうわずるのを抑えようとして、ひとつ
と、部屋の片隅のテーブルの上に置かれた携帯端末に目が止まった。ラップトップ型のずいぶん古いタイプのものだ。
なにげなく歩み寄り、起動する。ドライブにディスクが一枚。ファイルを開こうとしたが、思いのほかロックが固く中身を読むことはできない。
データをI-ブレインにコピーするのは
「これぐらいもらって行っても、
かすかな金属音と、それに続く
反射的に四〇メートル後方の扉を振り返る。
「……
硬化された扉は見事に円形に切り抜かれ、黒ずくめの男が部屋に入ってくるところだった。
「やってくれたな」
男は錬の姿を認めると、ミラーシェードをはずして胸ポケットに収めた。
「空間を
そっちこそどうやって『次元回廊』から抜け出した、その言葉を錬はかみ殺した。
こちらの受けた傷は、右腕と左足に致命的なものが二つ、細かいものにいたっては数え切れず。対して、相手に与えることのできたダメージはまったくの皆無。
逃げ切れるかな?
(「チューリング」起動。「ゴーストハック」をオートスタート)
床面の構造情報を伝って、男の足もとに『腕』を生成。
同時に、床を
その
その向こうに広がるのは、マイナス四〇度の大気と、鉛色の空。
男がチタン合金の腕を切り飛ばし、こちらを見た。錬は息を吸い込み、床を蹴って
雪混じりの風が、耳もとで低く
「……本部か?
「まあ、あの連中に捕らえられるとは思えんがな」
気だるげに呟き、
騎士剣の刀身を構成する銀の不安定同素体、通称『ミスリル』は情報制御のもとでしか存在することができない物質だ。そのためにこの物質は『情報の海』の中で強い
もともと、祐一の能力に耐えられるほどの設計はなされていなかったのだが、少年が予想外に
この剣さえまともなら、逃がしはしなかった。
「大量生産品は、役に立たん」
……まさか、もう一度『マザーシステム』と
あるいは、あんな夢を見たのも、なにかの符丁なのだろうか。
大きく息を吐き、チタン
ことによると、一〇年ぶりに日本に帰ることになるかもしれない。
「……
鉛色の空は、いつのまにか少し落ち着いた軽い灰色に染まっていた。激しかった雪も、ちらほらとした小降りなものに変わっていた。
それを見ながら、ふと考えた。
あの少年は、青空の色をおぼえているだろうか、と。



