第一話『猫女』――ギシキ――

2.

 その日ぼくたちが出会ったことを、彼女は超自然からのある種の啓示として受け取ったようなのだが、当然ながらそんなはずなく、そのときのぼくは彼女に数奇な運命を歩ませるために元神社の『暗室』にやってきたわけではなかった。

 というのも、ぼくはその『暗室』を――あえてこう表現させていただこう――手に入れてから、長い休みが明ける前日は、必ず行くようにしていたのだ。

 それはもちろんなにか神秘的な託宣をその場所から受け取るためではなく、たいした意味などほとんどない、初めて神社にきたときと同じく自分への肝試し修行のようなものだったが、もう小学五年生から続く習慣となっていて、だから春休みの最後の日、翌日から中学新二年生になるにあたって新たな生活に対する心構えをするために、ぼくはいつものように『暗室』をおとずれた。というだけで、繰り返すが、決してなにかの霊感が働いて突如その場所にやってきた、というわけではない。

 はっきりといってしまえば神社の地下の『暗室』は、ぼくの『秘密基地』だったのだ。

 趣味はなにかと聞かれれば、基本的には読書とSS書き、と答えるぼくだが、じつはもうひとつ、小学生のころからいまだに続けている、だれにも内緒にしているものがある。

 子どもっぽいというなかれ(子どもそのものなのだから)、それこそ『秘密基地』探しであり。

 さらにいうなら、肝試し以前から、この神社の社務所はぼくの『秘密基地』のひとつだった。

 恐怖克服のため何度も神社をおとずれているうちに社務所の鍵が用をなしていないことに気づき、そのなかに畳み敷きの寝転がれる部屋を見つけたときのぼくの気持ちを、わかっていただけるだろうか――? もしもあなたが秘密基地を探せる環境にあるならきっと同意してもらえると思うのだが、『秘密基地』、というフレーズはただそれだけでオトコのココロを激しく震わせるコトダマを持つものなのだ。

 たとえ樹上の枝一本分のスペースだろうと、藪のなかのわずかな隙間だろうと、橋の下の段ボールだろうと問題ない。

 大事なのは、そこがだれからも邪魔されない自分だけの場所だということ。

 それがあるというだけで、どれだけの平穏と自尊心と勝利感とを得られるだろう。

 秘密基地とはそういう心地よく秘密めいた素敵なものであり、それがなんと、丸々一部屋分手に入ったのだ。

 それがつねに心の平和を求めてやまない人一倍怖がりなぼくをどれだけ喜ばせたか、想像に難くないだろう。

 超常の存在など信じていないが、その場所はあたかもひとり怖がりという試練に臆せず? 立ち向かわんとするぼくへの褒美、天からの贈り物のように思え、暇ができると小学生のぼくはひとり元神社を訪れ、社務所を拠点に『ひとり肝試し』を行っていた。

 だれかに知られないよう細心の注意を払っていたつもりだったが、結局だれかに見つかったのか、幽霊のうわさ話を呼び起こしてしまったが――

 ――そんなわけだったので、ガキ大将との肝試し時、夜の神社の怖さに耐えかねた小学四年生のぼくが自分の『秘密基地テリトリー』たる社務所に自然と向かってしまったのも無理のない話だったろう。

 しかし、その代償は大きかった。

 なにしろ、子どもが前歯を折ったのだ。

 ぼくたちの肝試しは事件として学校で大きく取り上げられ、朝礼において見せしめといわんばかりに全校生徒の前に並ばされたのち、このような怪我ですんだのは単なる幸運であり、二度とかの神社に近づいてはナラヌ、と校長直々にきつく言い渡された。何者もカノ場所に立ち入ってはナラヌ、入ればイノチのホショウはデキヌ、と厳しい言葉で散々脅された。

 そして、原因となった社務所には、ピカピカの真新しい南京錠と鋼鉄っぽく白く輝く鎖が取り付けられた。

 さすがに神社全体を隔離することは無理があったのだろう、境内へと続く階段の傍に立ち入り禁止の看板が立てられただけだったが(それによると、どうやらこの山は木を育てるためのだれかの私有林であるらしい)、社務所のほうはがっちりと鍵をつけられ窓などは板で釘づけされ、侵入できないようされた。なにしろ社務所は保存状態がよく、一部屋丸々使える感じだったのだ(もっとも畳は腐ってぶよぶよで、ピクニックシートを自分で持ちこんでいたのだが、それが人に入りこまれている証拠になってしまったかもしれない)、ぼくのようなそこで過ごそうとする不心得者が出る可能性を見過ごせなかったのだろう(実際ぼくも、高校生などのたまり場になることを恐れて扉の偽装は念入りにやっていた)。

 つまり、ぼくは結果的に、愚かなトン走と引き換えに『秘密基地』を失ったのだ。

 校長からの叱責はもちろんつらいものだったが、『秘密基地』の喪失は、それ以上の衝撃だった。

 肝試しから数週間後、久しぶりにおとずれた――まだほとぼりが冷めたとはいえない感じだったが、ガキ大将がなにかを見たのかどうにも気になりだして、未知の恐怖を確かめずにはいられなくなった――そこで真新しいピカピカの南京錠を目にして、しばし呆然と立ち尽くしたのを覚えている。

 山や神社に入れなくなるかもしれない、とは想像していた。

 それでもどうにか入りこめる自信はあった。

 ぼくの行動力は幼稚園のころから周囲を困らせる筋金入りのものだった。

 脳内シミュレーションは完璧だった。

 しかし社務所自体に入れなくなるとは、正直、かけらも考えていなかった。

 なにしろ小学一年からの付き合いであり、毎回そこで過ごす時間こそ短かったが(とくに目的がない場合、だいたい二十分もたずに廃墟の雰囲気から逃げ帰る)、ある意味第二の家であり、もはやあって当たり前のものとなっていたので、それがぼくから奪われる事態など思考のラチ外だったのだろう。だからこそ受けた衝撃ははかりしれないもので、現実はつねに想定なんて考慮せず、世はなんでも起こり得る、永遠が保障されているものなど存在しないということを、あらためて学び直させられたが――

 それでもあきらめるにあきらめきれず、ぼくは神社に通ってはどこか侵入口がないか社務所の周りをうろつきまわった。校長先生の厳重注意は平気で破って神社に侵入していたにもかかわらず、扉や窓に打ち付けてある板を壊してなかに入ろう、とは考えもしなかった。秘密基地とは見つけ出しつくりあげるものであり、他人から奪うものではなく、そして明確に戸締りされている場所に無理やり押し入るのは、ぼくの基準で『間違ったこと』、だった(よく考えれば立ち入り禁止の神社に不法侵入していること自体『間違ったこと』なのだが、当時のぼくはそちらについてはまったく考え至らなかった。逆に余人が近づかないよう注意してくれた校長に感謝さえしていた。それだけ、ぼくはその神社を『ぼくの居場所テリトリー』とみなしていたということだろう)。

 もはや社務所はぼくの『秘密基地』ではない、という事実ははやい時点で受け入れられたが、それでもなにかあきらめきれないもの、後ろ髪を引かれるものがあり、ぼくはやがて、社務所回りだけではなく、神社全体を『探索』するようになる。

 明確にそう考えていたわけではないが、おそらく、社務所に代わる秘密基地を求めていたのだろう。

 そしてとうとう、神社にくるようになって四年目のある日、はじめてぼくは、『拝殿』に足を踏み入れた。

 吹き抜けの造りのせいか、社務所とは比べ物にならないぐらい荒れ果てた拝殿のなかは、床は破れ腐り落ち、背の高い草々にむしろ外以上に浸食されていた。壁も一部壊れていて閉鎖された室内という感じはまったくなく、草むらのなかの隙間も、『秘密基地』と見なせるようなぼくを満足させるような閉塞感をもたらさなかった。が――

 ぼくは恐怖心をこらえつつ、用意していた懐中電灯を点灯し、腐った床から地面へと降り、奥に向かった。

 もともとはじめて神社を訪れたとき、拝殿のなかにも少し入ったのだが(そしてすぐに逃げ出したのだが)、そのときには気づけなかったことがあった。

 神社全体をあらためて探索してみて、ようやく気がついたのだが――

 この拝殿、後ろのほうに一部屋分、出っ張った箇所があったのだ。

 上空からながめると、おそらく凸字の形をしている――拝殿周りをうろうろしてはじめて知ったその事実は、ぼくにある種の予感を与えてくれた。

 もしかして、あの出っ張り側に、なにか秘密の部屋でもあるのだろうか。

 これだけ荒れ果てているのなら、その秘密の部屋にも入ることができるかもしれない――

 正直、たとえ神を信じていなくても神社の要であろう拝殿に侵入するのは怖かったが、いまは廃墟であること、そして『秘密基地』を失ったことからくる飢餓感は未知への恐怖を超えていて、ぼくは心の求めるままに、前面から拝殿へと入り、薄暗い影のなか、腐った床から地面へと降りて、奥を目指した。

 拝殿の内部は、一階床と地面の間に一メートルほど隙間があった。

 なぜこのような構造になっているのだろう、どうやら柱かなにかで囲まれているらしく、外からは見えないようになっている床下を、カビだかのにおいを感じつつ、ぼくは懐中電灯で照らしながら進んだ。床がほとんど残っていないおかげで這いつくばらずにすんだが、足元は草と木片と粉のようなよくわからないものが散乱していて、神殿のなか、という薄暗い雰囲気も恐ろしく、まるで目をつぶっているかのように一歩、一歩ずつでしか進めなかった。

 それでもなんとか、足元をながめ確かめ進んでいくと、やがて、床がしっかり残っている部分に行き当たった。

 床がしっかり残っている、というよりも、その下に新たな土台が存在していて、板壁にさえぎられ床下を進むこともできなくなっている。

 部屋というか、家のなかにもう一軒、家が埋まっているような感じだ。

 ずっと地面を見つめていた顔を上げ、床に上がると、そこには(神社でいうのもなんだが)観音開きの扉があった。

 施錠のようなものは、見当たらない。

 恐怖に躊躇しながらも、ぼくはその観音開きの扉へと、手を伸ばした。

 意を決するまでにかけた時間と反比例するかのようにあっけなく、わずかな軋みも感じさせずになめらかに扉は開き――

 ――最初は、なにもない、ただの小部屋だと思った。

 板張りに囲まれた空間は、広さは四畳もなかった(それだけでも、『秘密基地』としてはじゅうぶんだった)が――

 よくみると、床の中心あたりに、長方形に区切られた箇所――『蓋』があり。

 取っ手代わりにつけられていたのであろう、床板から飛び出していた縄の輪を握って(ちなみに、当然ながら軍手着用)引っ張り上げると。

 地下へと続く、垂直のはしごが現れた。

 もっとも、地下、といってもそれほど深いわけではない。

 壁際に固定されたはしごに従い四メートルほど降りると――正直、よく降りれたなといまさらながら震えるが――もう、そこは終着点。

 観音開きの部屋の床下、はしごの先には、六畳くらいの(実際にはもう少し小さいかもしれない)空間――『暗室』が広がっていた。

 入っても圧迫感を感じないくらいに高く感じる天井は、床下の空間のことを考えると、むしろ地上に突き出ているのかもしれない。

 おそらく先ほど突き当たった土台はこの空間上方を形作る壁であり、イメージとしては、地面に穴を掘って六畳くらいの部屋を四分の三くらい埋めこみ、天井をかぶせて『蓋』とし、その上に観音開きの戸のある部屋をのっけている、といった感じだろうか。

 天井部はかなりしっかり目張りしてあるようで、はしごの置かれた唯一の入口以外からは、光は一切、入ってこない(よって、ぼくはこの部屋を『暗室』と名付けた)。

 部屋は、床も壁も、どうもコンクリートのような感触で、懐中電灯で照らしてみると、入口側から右の壁には木製の簡単な棚(つぼがいくつか乗っているのだが、いまにいたるまで中身を確かめたことはない――それどころか棚に手を触れたことさえない)が見えたが、正面と左側にはなにもない。

 がらんとした、コンクリートの打ちっ放し空間。

 ここはもしかして、神社のご神体とかを置いていた場所だろうか。

 それにしてはあまりに無骨で、外から入ってこなければ神社の一室だとは思えないような無機的雰囲気だが――

 見つけた初日は、光のささない部屋への未知の恐怖に負けて、なにもできずに逃げ出したぼくだったが――そう、当然ながらその日すぐにはしごを下りられたわけではない――それきりにはならなかった。

 失われた居場所/社務所への執着はすでになく、新たな興奮に包まれて――

 次の日から、ぼくはその『暗室』の攻略を開始した。

 もちろん時間に自由のある休日限定だったが――懐中電灯を複数用意し、必要になりそうなものを考え、用意し、なるべく朝のうち――日の高いうちから神社をおとずれ、安全かどうか、はたして新たな『秘密基地』になりうるか、調査を開始した。なにしろずっと閉め切られていたであろう地下室だ、底に危険なガスでもたまっていないかと、マッチに火をつけ落としてみたり(火はすぐ消えて意味がなかった、というか、消えればいいのか消えなければいいのかそもそもぼくは知らなかった)、危険な害虫対策に蚊取り線香を複数落としてみたり(最初はバルサンのような殺虫剤にしようかと考えたのだが、あとからそこを使うこと、換気が難しそうなことを考え、蚊取り線香で妥協した)、よくは覚えていないのだが当時は完璧に納得していた理由からリトマス試験紙に糸をつけて垂らしてみたり、はたから見ればバカらしいと冷笑されそうなアプローチを、もちろんだれにも見つからないよう注意を払いつつ、真剣に、部屋へと降りる前準備として繰り返した。

 怖がりなやつと笑うなら笑え。

 それだけ、ぼくは本気だったのだ。

 ようやくだいじょうぶだろうと自分を納得させて、階段を降りその部屋に入れたのは、少なくとも二十回は調査活動を行ったのちだったろう。

 小学校を四年生から五年次へと上がる、春休みの最後の日だった。

 五年生に上がるという節目を迎えてようやくその『暗室』に入る決心がつき、ぼくはこっそり遺書を書き、机に隠し、空気清浄スプレーその他を持って、元神社へ向かった。

 ――初めて『暗室』に両の足で立った時の興奮を、忘れることはないだろう。

 カビかなにかの粉っぽいにおいがするそこは、その瞬間、『ぼくのもの』となったのだ――

 だからだろうか、その『暗室』は秘密基地として、社務所やほかの場所、木の上や橋の下の排水溝のなかといった他の『秘密基地』以上に、ぼくにとって特別な場所となった。調査と挑戦を重ねたからだろうか、そこはまぎれもなく、ぼくがぼくのものだと感じられた。そこはぜんぜん怖くない場所、というわけではなかったが(とつぜん恐怖心がわきあがって逃げ出したくなると、それが『秘密基地』から帰宅する合図となった)、その光のささない部屋で、向こうの見えない闇をのぞきこんでいるとき、ぼくは間違いなく恐怖心以外のなにか不思議な感情を味わうことができた。

 忘れられた神殿の地下にある、ぼくが見つけ、手に入れた、心地よく秘密めいた場所――

 ほかの『秘密基地』については少ない友人を招くこともあったが、社務所と、そして新たに手に入れた『暗室』だけは、友だちとも妹とも、だれとも分かち合うことはなかった。

 ちょうどいい時間ができると、ぼくはその『暗室』をおとずれ、時を過ごした。

 といってもなにか特別なことをしていたわけではなく、基本的にはこっそり持ちこんだレジャーシートの上に寝転がり、目をつぶっているのか開けているのかわからないような闇のなかで、さらさらという水が流れるような音が聞こえるような気になりつつ(聞こえるような気はするのだが、近くに川があるわけでもないので気のせいかべつのなにかなのかよくわからない)、あらぬ妄想がトン走せずにはおれない恐怖心を引き起こすまでぼぉっとしているだけだったが――告白すると、たまにマッチやらロウソクやらライターを持ちこんで、さまざまな炎をながめたりしていたが(よりによって地下で、我ながら危険なことをしていたと思うが、自分なりに安全には配慮していた――具体的にはつねにバケツを持ちこんでいた――し、秘密基地を持ったことがあるなら同意していただけるだろう、火に近づくなと怒られてきた子どもにとって、火で遊ぶことは秘密基地でやりたいこと上位三位に入るのだ)。

 ただいるだけの場所であっても、そこはぼくにとって大切な、重要な場所だった。

 学校休みが明ける前日に訪れることが、もはや習慣――ある種の『儀式』になってしまうくらいには。

 と、いうわけで、またも前置きが長くなってしまったが、その日もぼくはいつものように、単なる習慣として、その『暗室』をおとずれたのだった。

 なにしろぼくの『秘密基地テリトリー』、怖がりこそすれ、なにを遠慮することがあるだろう。

 もちろんだれかに見つからないよう細心の注意は払っていたが、それも神社に着くまでで、ぼくはなんの警戒心も(恐怖によるものはべつだが)持たず、いつものようにはしごを下りた。

 そんな感じだったので、降りた先――自分だけの居場所だと安心していたところで「動かないで」と、闇のなかから突如走り寄ってきた女性に息がかかるほど近くからナイフの切っ先をつきつけられたぼくの狼狽ぶりは、たやすく想像できるだろう。

 事実、そのときの情景は悪夢となって、いまでも闇の向こうからぼくを怖がらせ続けている。

 まさしく悪夢のような出会い――

 それが、ぼくと彼女――『先輩』とのファーストコンタクトだった。