第一話『猫女』――ギシキ――

3.

 目を閉じればいまでも、あたかも映画の一場面のように思い浮かべられる。

 ゆっくりとはしごを下りるぼく。

 手足をつかっているので、部屋側に背を向けている。

 地面に降りたち、振り返り。

 そして目にする、闇のなかからこちら目掛けて飛びかかってくる女性。

 目をむいて、唇を結び、懐中電灯の薄い光に照らしだされた白い顔は現実のものとも思われず、しかしなにより目を引くのは、わずかな光をとらまえて闇にくっきり浮かび上がったナイフの刃――

 閉じた扉、曲がり角、あるいは物陰など見通せない闇の向こうになにか恐ろしいものが待ち受けている、といった妄想は、恐怖のイメージとしては一般的なものだろう。

 たとえばホラー映画を観賞したりネットや本などで怖い話を精読したあとなどは、だれでもちょっとした暗がりが怖くなったりするものではないだろうか? シャンプーするとき背後が気になり、いつもならなんなく通っているドアを開くのに、だいじょうぶだとわかっていても、わずかでも躊躇してしまうものではないか? 

 人一倍怖がりなぼくはそういった状況もトミに顕著であり、しばしば普通以上に勇気を振り絞って扉を開き、暗闇へと踏みこんでいかなければならなくなる。もしも何者かがそこに潜んでいてとつぜん襲い掛かってきたらどうしようかと――もちろんそんなことあるわけないのだが――具体的な対抗策は考えないまでもせめて油断はしないように、全身を緊張させつつ――そんなぼくの姿を見かける都度わが親友は、「おおシンシ、また見えない敵と戦っているんだな? いいないいな、さすがはシンシだぜ!」と声をかけてくる。からかわれているだけなのだろうけど、たいていの場合その声には賞賛と羨望が満ち溢れているようで、いったいなにを期待しているのだろう、彼のほうこそ戦わなければならないナニカがあるのではないかとたまに心配になってくるのだが、閑話休題。

 ともかくそういう具合に人一倍警戒心の強いぼくが、よりにもよって警戒していないところを襲われた、というのはいかにもな皮肉ではないだろうか。

 本当に恐ろしいものは予測しているところからは現れないといういい例で、とにかくこの出会いがあまりにインパクトがあったためしばし悪夢で繰り返し、現実においてもますます見えない物陰が恐ろしくなってしまったほどの(これはもうトラウマといってもいいんじゃなかろうか?)、あまりに衝撃的過ぎる出会いだった。


「動かないで。――懐中電灯を、下に向けなさい」


 それ以前にもなにかいっていたようなのだが(ナイフは構えたままだったのできっと物騒なナニゴトかだったろうから聞こえてなくて良かったかもしれない)、実際に最初に耳に入った言葉はそれだった。

 手が勝手に、指示に従う。

 直接光を当てなくても、ほのかに相手の姿は見える。

 暗室の深い闇のなか、ぼぉっと浮き上がった女性の姿――黒髪の間に浮かんだ白い顔は現実のものと思われず、ほんの一瞬、これはいつもの妄想かと考えたのを覚えている。

 もっとも、ぼくは(ここもよく誤解される部分なのだが)脳内妄想を実際の幻覚として目にしたことなど一度もない。

 ただただ、リアルに脳裏に思い浮かべてしまうというだけだ。

 それがあまりにリアルすぎて一瞬現実に見た気になってしまうというだけで、正しい意味での幻覚に悩まされたことなど記憶する限りなく、自分でも単なる妄想だと自覚していて、それゆえぼくは精神的な病気ではなく「人一倍以上怖がりなだけ」というふうに診断されてしまうのだが――

 そんなぼくでさえこれは幻覚なのではと自分を疑ってしまうほど、闇のなかでナイフをつきつけられる、という状況は非現実的で、しかしまぎれもなく、現実だった。

 驚くほど近くに他人の顔がある(ちょっと見上げる位置にある)。

 ぼくの右肩には、気やすい相手であるかのように知らない左手が載せられていて。

 視界に入れられないが、ぼくのおなかに近いところにあるのだろう逆の手には、おそらく、先ほど見てしまった――ナイフ。


「あなた、名前は?」


 次に聞こえたのはそんな言葉で、途端、冷水を浴びせられたかのように全身がぞっと粟立つ。

 その問いに答えないでいるべき理由は十も二十も思いついたが、そのための対抗策はかけらも浮かんでこず、ぼくはおずおずと、答える。


「……目良、シンシ、です」

「目良シンシ? ……え? 目良、シンシ? ……うちの学校の生徒よね? ……え? 待って? なん年生?」

「……はい、に、二年……」


 無事に明日を迎えられたら、という注釈がつくが――

 ぼくの答えに、女性は怪訝な表情を浮かべた。


「新二年生? 一年下? ……そう。……ううん。ねぇ、あなた、あたしのこと、……知ってる? 前に会った覚えとかない?」

「い、いえ、知らないです。会ったこととかない、です」


 ようやくの答えやすい質問にいくらか強調して答えたが、


「本当に? あたし、……というか、あなた、本当にあたしを知らないの? 自意識過剰かもしれないけど、いちおうあたし、生徒会長なんだけど?」


 返ってきたのは否定のニュアンスで、え? と浮かんだ疑問が、鈍麻していた思考回路をようよう復活させた。

 生徒会長? 

 そこではじめて、自分にナイフを突きつけている相手が、背こそぼくより高いがまだ子どもらしいことに気づく。

 ついでに、うちの学校の指定ジャージを上下着ていることも。

 ジャージのラインは確かに、うちの学校の上級生――明日から三年生になる二年生――であることを示している。

 ――同じ学校の、生徒会長? 

 途端に、安心感が湧き上がる。

 闇のなかでナイフを向けられている、という状況にはまったく変わりはないのだが、未知の状況にようやく既知なるものが現れたからか。仮にも生徒会長だというのなら、人格だってそれなりだろう。あのナイフもきっと自衛のためで(よく考えれば自衛のためにナイフを持つ、というのもけっこうアレだが)、対応さえ間違わなければ危険が及ぶことはない――そう考え、心がどこかほっとしたことで、ようやく、相手をきちんと見ることができるようになった。

 いわれてみれば、確かに見覚えがある、気もする。

 肩を軽く越す長い黒髪に、整った顔立ち。

 もしも本人だというのなら、彼女が生徒会長になったことで学校紹介用PVが撮り直されたといううわさがまことしやかに語られているほどの学内有名人だ。

 もっとも、だからといって全校生徒が彼女の顔を知っている、と考えるのは確かに自意識過剰だろう、全校集会などで遠目に見たことある程度ではっきりと断言できるほど生徒会長の顔なんて知っていないし――確か三つ編みにメガネだったような、こんな鬼女じゃなかったような――もちろん、会った記憶もなかった。

 が、なおも彼女はじぃっと、こちらをのぞきこんでくる。

 思っていたほど危機的状況ではないと感じたからか少し心に余裕ができてきて、そうなると、肩に手を置かれ、こんな近くに女子の顔があることが、なんとも居心地悪くなり、さりとて抗議もできず、ぼくはされるままじっとしていた。

 目を合わされて、そらすにそらせない。

 安心してしまったからか、目に涙がたまっているのを意識してしまい。

 思考はおろかまばたきすらできず――

 そのまま、どれくらい時間が過ぎたのか。

 ようやく、自称『生徒会長』は肩においていた手を離し、ぼくから離れた。

 目とナイフが遠ざかったことで、まばたきが許されて。安堵のため息をつきかけ――


「もう一回繰り返しておくけど、お願いだから、動かないでね。こちらに向かってきても抵抗するし、はしごに逃げてもあなたが昇るより先に背中を刺せるから」


 あまりに恐ろしいセリフに、いわれずとも蛇ににらまれた蛙のようだったぼくはますます動けなくなる。

 またも緊張してきて、やばい、このまま緊張しすぎてドラマでよくあるような呼吸困難(過呼吸?)になったらどうしよう、などという『もしもの恐怖』が湧き上がる(そんなふうになったことなど一度もないが)。もしも意思に反して勝手に身体が動いてしまったら、はたして彼女はそれを理解しセーフとみなしてくれるだろうか――?


「……ごめんなさいね。こんなこといっておいてなんだけど、そんなに脅すつもりはなかったのよ? 運悪くここにきたってだけっぽいし、自分でもおおげさだって思うし。ただ、わかってほしいんだけど、いまあたし、ちょっと神経質になっていて、……それに、あたしだって怖いのよ? あたしはいちおう、女だし、こんなところで、知らないオトコノコととつぜんふたりっきりになったんだから。……いやまぁ、どう考えてもあたしのほうが悪いよね。ハンカチ、使う?」


 いわれてはじめて自分が泣いていることに気づき、けっこうです、ともごもごいいつつ手の甲で目を拭う。

 涙を見せた恥ずかしさに、わずかに彼女に対して怒りと反骨心とを感じ、差し出されたハンカチは受け取らなかった――そしてすぐに怒らせたかなと後悔したが、とくに気にした様子もなく、彼女は続けた。


「で?」

「……え?」

「目良くん、だったよね。どうしてこんなところに? あたしがいうのもなんだけど、ここはそもそも立ち入り禁止の場所でしょう?」


 なんと答えればいいだろう、適当な答えを返せず口をつぐんだままのぼくに、彼女はさらに問いを重ねる。


「もしかして、よくここにきているの? 初めてきた、って感じじゃなかったけど」


 いいながら、その眼は周囲を見渡している。

 といっても地下室の闇は深く、光に照らされた自分たちの姿しか見えない――

 そこでようやく、ぼくは自分が地面に向けたままの懐中電灯以外に、べつの明かりがあるのに気づいた。

 いつの間に点灯したのだろう、暗室に降りたときには光源なんてなかったのは間違いない。

 ランタンとしても使える懐中電灯が、地面に置かれている。

 といってもそれも、周囲を明るく照らし出せるほどのものではない。

 闇のなか、ぼくたちふたりの姿をほんのり浮き上がらせる程度。

 それでも彼女の姿はよく見えて(向こうにもぼくの姿はよく見えているのだろう)、左手の指で右手のナイフの刃をしごいているのがわかる。

 なんの意味があるのかわからないが闇のなかでは決して見たいと思えないその仕草にあっさりと心が折れて、ぼくはとうとう、だれにも話したことのないぼくの秘密を告白した。


「……ここは、ぼくの、秘密基地、なんです」

「秘密基地? ……ああ」

「その、小学生のときからの」


 さりげなく、領有権を主張する。

 もしも彼女もまた、秘密基地を探してここにきた、というのなら、といってももう中学三年生にもなって秘密基地探しをするなんてぼく以外にはいなさそうだが、もしもそうだというのなら、いったいどうするか――どうすればいいのか――ここはぼくのものなのに――

 秘密基地、という言葉になにかを感じたのか、考えこむようにじっとナイフを見つめていた『生徒会長』だったが、ようやく、得心がいった、といったふうにうなずいた。


「やっと思い出したわ。目良くんって、あれでしょう? うちの学校で有名な、すごい怖がりで、霊感があるとかいう――」

「霊感なんてないです! それは誤解でぼくに霊感はないんで、す……」


 条件反射で相手の言葉をさえぎってしまい、またもしまった、と後悔するが、やはり気にした様子もなく、彼女は笑った。


「――なんかそういっているみたいね。自分では認めていないけど、でも周りには霊感があるって思われているんでしょう? なんかよくわからないとこで怖がったり、変なことばかりしているからって。うちのクラスにもあなたを霊能力者だって思っている子がいてさ、その子に教えてもらったのよ、あなたのこと。いつだったかな、体育の授業の時、あなた、奇声を上げて走っていたことがあったでしょう? それ、上から見ていたことがあって」

「……それは、べつに、霊を見たからとかじゃなくって」


 確かあれは、わが友人になにかの話で想像力を刺激され、生まれた妄想を振り切るために自分に気合を入れていただけで(発声でテンションを上げるのはだれだってやることではないか?)、周囲のみんなも驚いていなかったしそれほど奇矯な行動ではなかったはずだが――

 それともぼくだというだけで、アレすら超自然的ナニカに思われてしまうのか? 


「確か、むかしこの神社で幽霊を見たのもあなたよね? それでここ、立ち入り禁止になったって。もしかして、そのときにこの部屋を見つけたの?」

「……まぁ、その」

「なるほどね。あなたがあの目良くんか。

 ……

 オカルト的なことは信じない、っていっているっていうのも、本当?」

「え、ええ。オカルトというか、超自然とかはありえないって、思ってます、けど……」


 なにか値踏みされるような目で見られ、再び、背中がぞっとする。

 まだ四月の初め、春とはいえ『暗室』は肌寒いくらいであるのに汗が流れるのを感じ、いやな妄想が心に渦を巻きはじめる。――あの目になにか意味はあるのか。なんであんなにぼくを見るのか。まだぼくに用があるのか。ぼくになにか関係あるのか――

 


「……これも運命、ってやつかしらね」


 ぽつり、と彼女がつぶやいた。

 独り言のようで、しかしぼくを意識している感じで、言葉が続く。


「正直、どうしようか迷っていて、だれかの気配を感じたときは、ほとんど中止するつもりだったんだけど……、神さま、ううん、悪魔なんてものがいるのなら、背中を押してくれたのかもね。なんだか、すっごく気分が落ち着いちゃった。頭のなかが冷え切ったっていうか――あなたのおかげで、吹っ切れたって感じかな」


 ぼくも冷たさを感じていた。

 なんというか、全身が。

 見たくないと思っても、なぜだか視線が、ナイフに向かう――

 ――彼女はいま、なんといった? 

 どうして悪魔、なんて言葉が出てきた? 

 吹っ切れた、という言葉自体に良いも悪いもないが、悪魔、という単語と並ぶとどうしてこれほど恐ろしく聞こえるのか――

 彼女はここで、なにをするつもり、なのか? 


「――あたしはね、今日ここに、『儀式』をしにきたの」


 あたかもぼくの内心を読んだかのように、『生徒会長』はいった。


「そのための場所を探していてね。で、あなたのうわさを聞いたとき、廃神社があるって聞いて――それで思いついたのよ。立ち入り禁止のそこなら、だれにも見つからない、邪魔されない場所があるんじゃないかって。意外と、そういう場所ってないのよね。……まぁ、お目当てだった社務所には入れなかったけど、でも『偶然』、ここを見つけて――

 それが、まさかあなたの秘密基地だった、なんてね。すごい『偶然』だと思わない?」


 なにがすごい偶然なのだろう、彼女がここを見つけたことか? 

 でもぼくが見つけられたものを、他人が見つけられないとは思えない。

 秘密の場所を探していたというのなら、廃墟のなかを探すのはべつに不思議でもなんでもないのでは? 


「……でも、なんか放置されていたにしてはきれいだし、蜘蛛の巣もなかったし、地下にしては空気もいいし、レジャーシートや一斗缶、きれいなバケツまでおいてあるしで、これでもあたし、注意していたのよ? もしかしてだれかいまでも使っている人間がいるんじゃないかって、……そうだったらあきらめようって、この二週間くらい、準備しながら様子見していて……

 その間は姿を見せなかったくせに、いざ決行、となった日に、こうして会っちゃうなんて、――すごいタイミングよね?」


 すごいタイミングもなにもない、今日が春休みの最後の日だからきただけで、なにか霊感が働いた、というわけでは決してない。

 たしかに長くおとずれてはいなかったが、ぼくだってもう中学二年生、少ないながら友人もいるしやるべきことはいろいろあって、いくら『ぼくの秘密基地』とはいえそう頻繁にいくわけにもいかなくて、それでも節目節目にはきているわけだから、どちらにせよいつかは会っていたかもしれなくて、だから今日ここで会ったのは、べつにたいした偶然じゃなくて――


「正直、なかなか踏ん切りがつかなくてどうしようかと思っていたんだけど、あなたのうわさから見つけた場所で、いざ、というときに霊感がある、なんていわれている『あなた』本人が現れるなんて、ちょっとした『縁』ってやつを感じない? たとえ単なる偶然でも、……うん、運が味方しているってことよね? あたしがしようとしていることに。

 

 だから目良くん、手伝ってくれる?」


 ――いやだ怖い冗談じゃない偶然に運も味方もあるものか――

 頭のなかで拒否する理由が十も二十もはじけたが、しかし言葉にならなかった。

 ついで声にならない懇願が、心のなかを駆け回る。――『儀式』だかなんだか知らないが、やるなら勝手にやってください、そのためにこの『秘密基地』が必要なら喜んで差し上げますからお願いですから――

 あれほど苦労して手に入れたにもかかわらず、ぼくは本気でそう考えていた。

 オトコのくせにみっともない話だが、この状況から逃れられるなら、この大切な『秘密基地』さえ惜しくはない、そう思ってしまうくらい、この状態が恐ろしかった。

 だからこそ、怖くて怖くて、拒否の返事ができない――

 かろうじて、妥協の言葉をしぼり出す。


「……手伝いって、なにを、すれば、いいん、ですか?」

「だいじょうぶ、そんな警戒しないで。べつに難しいことじゃないから。ただ、あたしが『儀式』をしているあいだ上の部屋にいて、だれかこないか見張っていてほしいの」

「見張る、……だけ、ですか?」

「うん。それだけ。簡単でしょう? こんなところ、だれもこないとは思うんだけど、念のため、ね。やっぱりひとりだと、けっこう勇気がいるのよね、こんなところで『裸』になるの。上であなたが見張ってくれている、って思うだけで、かなり安心できるから」


 そういって『生徒会長』はくすりと笑い、ぼくは「ええ?」と怪訝な声を出し、あわててとりつくろう。


「あ、あの、み、見張るだけ、それでいいなら、……その……」


 ナイフを持った相手からの要請、と考えれば、見張るだけでいい、というのはそう悪くない提案ではないだろうか。

 それぐらいなら、ひととき場所を貸すだけで、『秘密基地』が奪われるというわけでもないし、確かに、ちょっと気になる言葉が聞こえたが(――『裸』?)、彼女がどんな『儀式』をしようがそんなの彼女の勝手だ、ぼくが気にすることじゃない。というか、彼女がなにか犯罪的なことをしようとしている可能性を考えれば(未成年での喫煙とか、飲酒とか――『裸』?)、むしろなにも知るべきじゃない。これ以上巻きこまれないほうがいい。

 あとはただただ、時が過ぎるのを待つだけでいい――


「……ええと、どれくらいの時間でしょうか、その、『儀式』って」

「ちょっとわからないけれど、まぁ、一時間はくらいはみていたほうがいいかな? ……あ、携帯教えてくれる? それで状況伝えるから」

「あの、携帯、家に置いてきていて」

「……本当に? あたしに教えたくない、とかじゃなくて?」

「……その、『秘密基地』にくるときは、GPSとか、怖いので――」

「……ふうん。それって、いざというとき困る気もするけれど。……じゃあ、待っているあいだすることないね。本とか、読む? 推理小説なら一冊、文庫で持ってきているけど」

「……お願いします」

「時間つぶし用に適当に入れてきたんだけど、だれのだったかな……」


 こちらに対する警戒心などかけらも見せず、『生徒会長』は背を向け、しゃがみこみ、懐中電灯を手になにかをがさがさ鳴らしはじめた。

 そのあっさりとした無防備さに――もうぼくに対して危険を感じていないのか、もちろん怖がりのぼくにはなにもできないが――思わずほっと、息を吐く。

 こちらも怖さが薄れるので、警戒を解いてもらえたというのはそれだけでありがたい。

 ありがたく、おとなしく、逆らわず――本を読みつつ現実逃避をしていよう。読書はむしろ大好物だし。

 ランタン代わりに置かれていた懐中電灯はいま彼女が使っているので、なにをしているのかわからないが、音からすると、紙袋だろうか――



 にゃあ! 



「あ、ごめん、起こしちゃった?」


 続いた『生徒会長』の声がなかったら、いつもの脳内妄想だと思いこんでいただろう。

 とつぜん聞こえた鳴き声は、幻聴かと疑うほど現実感がなく、にもかかわらずなぜだろう、自分でも驚くくらいにぼくを動揺させていた。

 なんだ? 

 いまのは猫の鳴き声か? 

 どうして猫が、こんなところに? 

 決まっている。彼女が連れてきたからだ。

 でも、どうして、こんなところに猫なんか――いや本当に猫なのか? 

 こちらに背を向けている彼女の陰に隠れて、その手元はよく見えない。

 かといって近づいて光を当てるなんて、彼女がどう出るかわからなくて怖い――

 ――気がつくと、言葉が口から飛び出していた。


「いまの、猫ですか?」


 聞いてしまって後悔するが、


「ええ、そうよ」


 彼女が普通に答えてくれたため、ぼくは続けた。


「……猫を、つれてきたんですか」

「ええ」


 では、どうして、猫を――? 

 一瞬浮かんだ恐ろしい想像を、顔をしかめて振り払う。

 わかっている。悪いくせだ――どうしてもいやな方向に妄想してしまう怖がりなぼくの。

 彼女はきっと、かわいい猫とひととき過ごしたかっただけで、だから連れてきた、だけで。

 そう思うのに、怖がりなぼくの妄想は広がるのをやめてくれない。

 きっと、『儀式』という言葉が悪いのだ。

『儀式』というフレーズにはどこかただごとではない雰囲気があって、そのせいで、悪い想像をしてしまうのだ。でも実際はたいした意味などなく、彼女はただ猫と遊びたいだけで、それを『儀式』とよんでいるだけで、そんな姿を他人に見せたくないからここにきただけで、だから見張りが必要で、『裸』、というのはよくわからないけれど――ああそうか、きっと、素肌に猫の肉球を感じたい、とでもいうのかもしれない。

 それならわかる。理解できる。

 いやな想像をしてしまうのは、ぼくが怖がりだからで、ただの悪い癖なんだ。

 いつもそれで大騒ぎして、迷惑かけて、結局杞憂で終わるんだ――

 まだ文庫本が見つからないのか、『生徒会長』は、こちらに背を向けている。

 いや、あれはきっと、猫を撫でているのだろう。

 かわいがっているのだろう。

 さりげなく。できる限り、さりげなく――



「――先輩の猫、ですか?」



 ――なぜだろう、返事はすぐにはなかった。

 聞こえなかったのか、

 静かに高まる困惑に、心臓が激しく動悸がするのを意識するようになってようやく、彼女は言葉を返した。

 どこか、独り言のような口調で。


「そうね。あたしの猫。……あたしの猫よ」

「……そうですか。……ですよね? ええ、……あの、名前とか?」

「名前? ……名前は、そう、コネ、コ、コネコよ」


 いうなり彼女は振り返った。

 その手に文庫本はなく、代わりに小さな、本当に小さな猫を抱いている。

 生まれたばかり、といわれても信じてしまいそうなほど、小さな子猫。

 逆の手にナイフを持ったまま。

『生徒会長』はおもしろがっているような表情を浮かべた。


「そう、コネコ。シンプルでしょう? ところで目良くん。さっきまで怖がってろくに話もできない感じだったのに、急に話しかけてくれるようになったね。もしかして、猫好きとか?」


 彼女の笑顔にたじろきつつ言葉を探す。


「い、い、いえ、その、べつに嫌いじゃないですけど、た、ただ、その……」


 ――ただ、聞きたいだけだ。

 聞いてさっぱりしたい。

 どうして猫をつれてきたのか。

『儀式』って、これからなにをする気なのか――

 妄想は現実にならないからこそ妄想で、ぼくが勝手な想像に怖がっているだけで、実際にはたいしたことなんてないと確認して、安心したい。

 

 もしも、万が一にも、怖がりなぼくの、いやな想像通りだとしたら――

 葛藤が顔に出ていたのか。

『生徒会長』は微笑んだ。


「……気になるようね、なんでコネコがここにいるのか。……そうね、手伝ってもらうのに教えないのもフェアじゃないよね。いいわ。教えてあげる。――」



 



 ――その言葉を聞かされて、ぼくはどんな顔をしていたのだろうか。

 自分で自分の顔を見ることは不可能だが、目の前にいる彼女の顔は、はっきり見えた。

 ぼくの顔を見ているであろう、闇のなかに浮かんだ彼女の白いは――

 見まごうことなく、笑っていた。