第一話『猫女』――ギシキ――
4.
現実感が喪失するのは、その日、二度目だった。
まず、なにかが潜んでいる、なんてこと、起こりえない、と考えていた闇からナイフをつきつけられ。
次に、そんなことありえない、と考えていた恐ろしい想像を、肯定されて。
いったいなにが起きているのか、聞き間違いではないのか――ぼくの願いを否定するかのように、『生徒会長』は言葉を続ける。
話している内容とは裏腹に、指は優しく手のなかの子猫を愛撫しつつ。
「
……ううん、映画じゃなくってね? まぁ、似たようなものかもしれないけれど。でもね、あたしがいっているのは、あなたが信じていないっていう魔術的な存在の――
ねぇ目良くん。あなたは、二十一世紀になったいまでも猫を超常の存在につながるものとして崇めている、――そういう『部族』がある、といったら信じるかしら?」
はぁ? といった内心が表情に出ていたのだろうか、彼女は笑い、首を振る。
「……ああ、『部族』っていっても、ありがちな、未開の奥地で槍を振っているような失礼なイメージじゃないのよ? もっとスマートで、都会的な――そうね、『結社』といいかえたほうがしっくりくるかな。彼らはとっても古い一族で、自分たちだけの掟を持って世間に溶けこんでいるの。彼らにとって、猫とは現実とその裏にある『夢の世界』をつなぐ存在。だから彼らは、必要に応じて『儀式』を行い、一族の者を人間を超えた猫的存在、『
……彼女がなにをいっているのか、わからなかった。
内容自体は平易でわかりやすいが、それでもわからなかった。
彼女はなにを、いっているのか――
「その『儀式』っていうのは簡単でね、決められた状況をつくって、ちょっと特殊な染料で、身体に『猫人の模様』を描いていけばいい。『儀式』に邪魔が入らず、最後まで描ききることができれば、その人物は現実と夢をつなげる銀の鍵、人から猫へとつながる存在、『
ここまで話せばわかるでしょう?
これから行うのは、その『猫人となるための儀式』で、そのための染料として、このコネコの血がいるってわけ」
現実感の喪失は、続いていた。
彼女はなにをいっているのだろう。
話の内容はわかる。
なんのために、なにをするか――
しかし彼女は、本気でいっているのか?
二十一世紀を迎えたこのご時世に、彼女は、ぼくより年上のこの女性は、本気で、身体に猫の血を塗れば人知を超えた存在に変身できると信じているのか?
いくらなんでも、ありえない――
ぼくの表情をどうとらえたか、『生徒会長』は口もとを斜めにする。
「……ああ、べつに信じてくれなくてもいいよ? あなたがどう考え、どう思おうが、どう感じようがどうでもいいし。いまのは、たんにこれからやることを説明しただけで、べつに意見も同意も求めているわけじゃないから」
「じゃ、あ、本気で、これからその、子猫から――」
「そういうこと。……正直にいえば、迷う部分もあったんだけど、……今日、あなたと出会ったことで、踏ん切りがついたわ。結局、やらないといつまでも心に引っかかりっぱなしだろうしね。やらぬ後悔よりやる後悔、よ」
そういう彼女の表情には、気負った決意もギラギラした熱情もなく、あくまで平静そのもので、それが逆に、恐ろしい。
状況があまりにも非日常的過ぎて、現実感がもどってこない。
――彼女は本気で、猫人とやらになるという、そんなバカげた儀式のために、子猫に血を流させようというのか。
闇からいきなり襲われた時には本当にダメかと思ったが、そのあと、同じ学校の生徒会長だと聞いて、ならだいじょうぶと、手伝うのも見張りだけなら平気だろうと、安心していたのに、どうしていきなり、こんな異常な状況になってしまっているのか。
そもそもこれは本当に、現実なのか。ぼくの脳内妄想ではないのか――
あらためて、彼女の腕に抱かれた、子猫を見る。
あごをこちょこちょくすぐられ、気持ちよさそうに目を閉じている、こんなかわいい存在を、彼女は本当に、傷つけるつもりなのか。
傷つけられるのか――
でも、と。
どうにか言葉を絞り出す。
「……その、先輩の身体に塗るには、ちょっとその子じゃ、量が足りないんじゃ……」
「いやいや。血そのものを塗るわけじゃないわよ。血は必要に応じて混ぜて使うの。その代わり、新鮮な生き血じゃないといけないんだけどね」
懐中電灯の明かりに示され、先輩の足もとに、図画で使うようなプラスチック製の小さなバケツがあるのに気づく。
なかになにやら黒っぽい液体が入っているバケツと、紙コップ。
そしてそのなかに立てられた、筆。
それが『儀式』を行うための用意であることに気づき、背筋が凍る。
本気なのか。
冗談じゃないのか。
突如現れたチン入者を悪戯心で脅かしている、というわけではなくて、本気で彼女は、そんな『儀式』をするつもりでいるのか?
思考のループが止まらない――
ぼくはその場にきてはじめて、精一杯の笑顔をつくった。
「そうですよ、ね。血だけを使うってわけじゃないですよね。だったらその、子猫も、その、……ちょっとぐらいなら、だいじょうぶ、ですよね?」
「……そうね。だいじょうぶ、なんじゃない?」
「……ただ、その、もしも、ということも」
「そうね。死なせるつもりはないけれど、あたしだってこういうの、初めてだし――」
……そのときは、そのときね。
彼女がそういったような気がして、一瞬、頭のなかが真っ白になる。
彼女は本当に、そういったのか?
それとも聞き間違いか?
いったとしたら――本気で、いったのか。
それとも強がってわざと悪ぶっているのか。しかたなく開き直っているのか。わからない。わからない。今日会ったばかりの友だちでもない他人の胸中など推し量れるはずもない。普通の日常でだって難しいのに、ましてこんな異常な状況で。
注射器、なんて用意はさすがに中学生には無理だろう(あればいい、ってわけでもないが)。
だからって、あのナイフを、使うつもりなのか――これに。
いかに少量といっても、相手はこんなに小さな猫だ、どうしたって危険になるとは思わないのか。そんな危険を冒してまで、本気で彼女は、『猫人』とやらになりたいと考えているのか。というかなれると本気で思っているのか? それとも結果なんてどうでもよくて、じつは信じていなくて、ただやってみたいだけでそんな『儀式』を行おうとしているのか――
いや、それはもう、どうでもいい。
いまやそれは問題ではない。
いま、問題なのは――
「怖気づいちゃった? だったらまぁ、逃げてもいいけど」
まるでこちらの心を見透かしたかのように、彼女はやさしい笑顔を見せる。
「見張りが欲しいのは本当だけど、結局あなたが上に上がっちゃったら、もうどうにもできないものね。だからまぁ、そのときは――せいぜい、祈ってて。『儀式』がうまくいくことを」
ああ、そうか、逃げることもできるのか――いわれるまで気づけなくて、少しだけ自分が笑えてくる。
実際、このまま逃げる、というのはどうだろう。
隙を見てあの猫をかっさらい、返すカタナではしごを駆け上り、そのまま一目散に逃げ出せば、――根本的な解決にはならなくても、いま、この場で、この子猫だけは助けられて、秘密基地は失ってもそれに見合う満足感を得られるのではないだろうか。
――その代わり、もしかしてぼくが見張っていなかったせいでこのヒトが不慮の出来事に襲われてはいないかと、事故が、事件が起きてやしないかと、その場合、どうにかできたのはぼくだけでは、とドキドキして――なにしろナイフに『儀式』に『裸』、アブナイ感じすぎる――たとえ翌日無事に会えたとしても(彼女が本当にうちの学校の生徒会長なら、だが)、恨まれて復讐されないか怖がって、またほかの猫を確保してないか気になって、やがて、闇という闇から彼女が猫とナイフを手に持って襲ってくる悪夢を見るようになってしまうかもしれないが――
いや、そもそも、まず子猫を奪う、というのからして不可能だ。
ほかならぬこのぼくがやることだ、きっともたもたして、子猫を助けるどころか自分を窮地に陥らせるだけだろう。
では、見張るふりしてぼくだけ逃げて、友だちとか大人とか、援軍を呼んでくる、というのは?
子どものことに大人を引き入れるというのは不文律的ルール違反かもしれないが、でもそれでこの子猫を助けられるなら――確かに時間はかかるだろうが、ぼくが逃げてすぐに彼女が『儀式』を行うとは限らないし、援軍が間に合う可能性だってあるし、それとももしかして、ぼくがいなくなったらやっぱり中止するかもしれないし――そう、単にぼくを脅かしているだけでこんな突拍子もない話、本気ではない可能性だってやっぱりあって、その場合、ぼくがいなくなったほうがすべてはうまくいく、という可能性も――ないわけではないのではないか?
だいたい、あれは、彼女の猫だ。
それを彼女がどう扱おうが、それこそ彼女の勝手じゃないか?
むしろ、勝手に連れていくほうが犯罪で、そもそもぼくがどう感じようと、そんなのぼくの独善で、独善で勝手に決めつけるほうが『間違っていること』なんじゃないのか――
思わず自分を、笑ってしまう。
――ああ、やっぱりぼくって、情けない。
怖がりのくせに、怖がりなのが恥ずかしくって、正当化する理由を探す。
『秘密基地』を探して、恐怖に立ち向かっているふりをして、結局のところ自己満足で、その『秘密基地』だってあっさり棄てられて――
勝手に巡る自分の思考に、なんだかさらに笑えてきて、――深呼吸、ぼくはそれまでずっと見つめていた子猫から目を離し、『生徒会長』を見やった。
足が震えているのを気取られぬよう――無駄かもしれないが――声がうわずらないよう、ゆっくりと、言葉を区切る。
「……じゃあ、これから、本気で、その『儀式』をするん、ですね?」
「ええ。本気よ」
即答に。問いを重ねる。
「本当に、ぼくは、逃げても、いいん、ですか?」
「ええ。かまわないわ。ある意味、今日、あなたがここにきてくれた時点でもう、あなたの役目は終わっているともいえるしね」
「ぼくと会ったから、やる気になった、と?」
「……いえ、そういう意味……に聞こえるわよね? 訂正するわ。……あたしが勝手にあなたを、ジンクス、とみなしただけよ」
「じ、ジンクスって、もともとは悪い意味らしいですよ。オーメン、みたいな。……ええと、つまり先輩は、猫人に、――人間をやめたいって思っているってことですか?」
「ちょっとニュアンスが違うかな。あたしはね、自分を――『超克』したいの。わかる? 超克。『自己超克』、つまり自分を超えて克ち、いま以上の存在になりたいの。そのための手段が『儀式』で、――あまりこういうこと、話したくないんだけど? 『猫人』のことなんて、どうせ信じていないんでしょう?」
もちろん、信じてない。
『猫人』なんてものが現実に存在するとも思えないし、正直、彼女が本気でそんな『儀式』を信じているとも思えない。
――ぼくより年上、来年には高校生になろうという年齢で本当にそんなものを信じている、なんてことがあるのか?
世のなか、ぼくが考えている以上に超自然に対して寛容なのか?
もしかしてぼくがスレて早熟なだけで――その自覚はあるが――中学生というものは、普通三年生までサンタクロースを信じているものなのか――?
なにか、べつの事情、目的があるとしか思えないが(『超克』――『自己超克』? ニーチェだっけ? 知らないけど)、いまはそんなの、問題じゃない。
問題は、理由がどうであれ、彼女が『儀式』を行うかもしれない、という状況。
本当に、この子猫を傷つけるかもしれない、という可能性――
人一倍怖がりで、いつでも怖がっていて、ある意味怖がることのスペシャリストであるからこそ、自信をもって断言できることがある。
いつだって、『知らない悪魔より知っている悪魔のほうがまし』なのだ。
だから、ぼくは彼女に、告げる。
「ジンクスはともかく、先輩は本当に、『猫人』になるためにその『儀式』をするつもりなんですよね?」
「ええ。そうよ。だからそろそろ――」
いいかける彼女を制し、言葉をつなぐ――思った以上に流暢に話せていることに、自分で自分にびっくりしつつ。
「だったら、見張りとかじゃなくって、もっとちゃんと手伝わせてくれませんか?」
「――え?」
「だって、――どんな模様を描くのか知りませんけれど、ひとりじゃ背中とか、無理でしょう? それとも、背中には描かなくていいんですか?」
「……それは、まぁ、妥協するしかないところだし――」
「ですよね? つまり、そここそ手伝いが必要でしょう? 見張りなんかよりずっと重要だと思うんですが。……そもそも手伝わず逃げてもいいなんて、なんとなく、投げやりというか、本気じゃない感じもするんですけど、そういうわけでもないんですよね?」
じっと見てくる彼女に、視線を受け止めざるをえない。
きわまった緊張に瞬きすらできないぼくに、まるでこちらの内心をのぞきこむように視線を合わせながら、彼女がたずねる。
「……とつぜん、なに? さっきまではたから見ていてもわかるくらい、ものすごく怖がっていたくせに、どうして急に乗り気になったの?」
「いまだってやっぱり怖いですよ? ――でもそれ以上に、見たくなったんです。あなたがその『猫人』とやらに、どこまで本気なのか。それに――
もしもその『儀式』が本物だというのなら、ぼくが手伝ったほうが効果が出ると思いませんか?
いえもちろん、霊能力なんて持っていないぼくですけれど、でも――」
余韻を含ませ言葉を切って、彼女を見据える。
予想通りの質問に、できる限りの挑発を返したつもりだが、はたして効果はあっただろうか。
ぼくの言葉は、本気らしく、本心らしく響いただろうか。
彼女はのってくれるだろうか。
なにしろ、ぼくに――異性に肌を見せることになる。やっぱり無理かもしれない、そのときはいったいどうすればいい――?
――どれだけ時間が過ぎたのか、絶望的な思考に陥りそうになったところで。
ようやく、反応が返った。
「……目良、くん、自分がいっていることの意味、本当に、わかってる?」
いったんはずした目線を再び合わせ――どこか挑戦的に見てくる『生徒会長』に、ぼくはかすかに、しかししっかりと、うなずいてみせる。
もちろん、わかっている、つもりだ。
ぼくの返事を確認すると、『生徒会長』は、ゆっくりとぼくに近づいて。
ナイフと、猫を、差し出した。
一瞬ためらってしまったが、すでに心は決まっていて、ぼくは『それ』を、そっと受け取る――
――この瞬間、ぼくは傍観の第三者から、当事者に変わった。
それも、彼女と一緒に子猫の猫権? を踏みにじる、虐待の加害者側に。
手のなかの猫は本当に小さく、軽くて、愛らしくて、こんな存在を傷つけられるものがこの世にいるとは思えない。
あらためて、彼女は本当にこの猫から血を採るつもりだったのか、答え合わせのできない問いに思考がどうどうめぐりをはじめるが――
彼女の本心がどうだったにせよ、もう関係ない。
ぼくはもう、『知っている悪魔』を選んだのだから。
どうなるのかわからない未知の恐怖より、自分の手で確認できる、確実な恐ろしさを。
ふと、周囲が暗くなるのを感じた。
見ると、ランタンとなった懐中電灯にハンカチかなにかがかけられて、光量がおさえられている。
さらに地面をよく見ると、ぼくが敷いていたものとは違うピクニックシートがあって、そしてどこからか、これまで『暗室』で嗅いだことのない奇妙なにおいがただよいだす。
「あの、これ、――お香?」
「まぁそんなものね。揮発するタイプだから、煙とかだいじょうぶでしょう? あと、これが描く模様。はい」
渡された二枚のコピー紙には、簡略化された人間の五体の輪郭が書いてあり、前面部と背面部だろう、それぞれに異なった模様が描かれていた。
縞模様を基本としているようで、確かに難しそうではない。
それぞれ、手書きの古い資料をコピーしたような感じで、ものすごく達者すぎて判別不能な筆記体の(たぶん英語だろうけれど、暗室の乏しい灯りのなかではとても読めそうにない)文字で注釈がなされており、正直この『生徒会長』が手作りしたとは思えずに、ぞっとする。
もしかして、これは『本物の資料』のコピーなのだろうか。
もしかして本当に、『猫人の儀式』なんてものが(猫人になれるかどうかはべつとして)伝えられているのだろうか。
だとしたら彼女は、どこでそんなものを手に入れたのか――
「はい。塗料はここね。いい? けっこう濃いから、まずこれでかきまぜて、適当な量をこれで紙コップに移して、そして、コネコの血を混ぜるの。……血の量は、本当にちょっとでいい――まかせるから。そしたらこの筆を使って、肌に直に、塗るというか、のせていって。そしてこれが――」
ビニールシート。紙袋。プラスチックの小さなバケツ。お玉に水の入ったペットボトル複数本に筆数本――闇のなかから次々出てくる道具類に、あらためて、彼女が周到に準備していたことに気づかされる。
やっぱり、『儀式』実行をとめるのは無理だったのだろう(もちろん、準備自体を楽しんでいた、という可能性もあるが)。
だったらあとは、――突き進むしかない。
ひざ立ちに、塗料の入ったバケツの前へ行く。
いわれた通り、紙コップに特殊なものだという泥のような塗料を移し、水を注ぎ、筆を使ってかきまぜる(かなり粘性の強い泥だった)。
いったん作業を中断し、足の上に乗せていた子猫を左手に抱き、右手にナイフ(ちなみに渡されてから気づいたが、それは思っていたより小さかった――はさみとか、ナイフ以外の機能もついた、いわゆるツールナイフというやつ)をにぎったところで、見てしまった。
『生徒会長』が、服を脱ごうとしている。
いや、すでに脱ぎはじめている。
異性の、ぼくの目の前で、肌に模様を描かせるために――
学校指定のジャージはあっさり脱ぎ捨てられ、躊躇する気配も見せずTシャツもまくりあげられる。ハンカチをかぶせられたランタンはかなりの光量を失っていたが、それでも薄い闇のなか、露出した肌の白色がはっきりわかって、彼女が背中を向ける直前、ちらりと見えたおへその影に、ぼくは思わずびくりと震える。
妹や母をべつにすれば、初めて見る異性の、背中。
脇の下を通る下着のベルトと肩紐に、それを目にしていることに、現実味が薄れていく。
やはり、これは妄想なのではないか。
ここまではっきりした妄想なんてありえないだろうけど、でもそもそも、こんな状況が現実に、存在しうるのか――
学校指定でありながらあまり目にすることのない、女子の体育用ハーフパンツが、地面に落ちて。
こちらに背中を向けたまま、『生徒会長』は、腰を下ろした。
散った衣服をかき集め、がさがさと、紙袋へと入れる音。そして。
目の前で、長い黒髪がまとめられ、背からかきあげられ。
耳にとどく、か細い声――
「じゃあ、……背中から、お願い」
それがスイッチであったかのように、ゆっくりと――
ぼくの身体も動き出した。
左手に猫を抱いたまま、右手にナイフと、筆を入れたカップを併せ持ち、そっと白い背中ににじりよる。
――怖いけど。
やるべきことを、やらねばならない。
だいじょうぶ、ぼくならやれる。
確かに、人一倍怖がりなぼくだけど、だからこそ、いつだってぼくは本気で、そして大真面目だった。小学三年生時、もしかしてぼくは怖がりではなく頭がおかしいのかもしれないと、お年玉をためたお金でひとり、県をまたいで精神科医に会いに行ったとき、ぼくは本気で、鉄格子のある病院に一生閉じこめられる覚悟をしていた(小学生がひとりで長距離バスに乗ったことをさんざん怒られたけれど、怒られるのは覚悟していて、それでもひとりで行ったのだ――もう会えなくなることで家族を悲しませたくなかったから。結果、入院どころか病気でもない、単に人一倍怖がりなだけだと太鼓判? を押してもらえたが)。この『暗室』にはじめて足を踏み入れた時だって、ぼくは本気で死を覚悟して、だからこそ、遺書をきちんとしたためた。他人から見れば笑い話だろうけど、それでも、本気で怖くて、覚悟していたから――
人一倍怖がりなくせに衝動的に行動してしまうせいで周囲に迷惑ばかりかけている――友人いわく「行動するバカ」であるぼくだけど、それでも、ぼくなりの基準を持っている。
怖い目に遭うくらいならと、大切な『秘密基地』だって差し出してしまうような情けない、弱虫のぼくだけど。
それでも、『間違ったこと』を、抵抗もせずあきらめたくない。
――ふと、超克、という言葉が脳裏をよぎった。
(彼女はわかる? と聞いた)
彼女は『超克』したいといった。
そのためこれから『儀式』を行う。
つまり、これからぼくたちは――
「……ぼくたちは、この『儀式』
そのためには、――血が必要だ。
だから、――やるしかない。
カップを置いて、ナイフをしっかり持ち直すと。ぼくは。
左手に抱いていた猫を腰に乗せ、左手の甲側で隠すように抑えて、そのまま――
開いた自分の手のひらに、右手のナイフを走らせた。



