第一話『猫女』――ギシキ――

5.

 あとになって考えてみると、これは無用な犠牲だったのではと思う。

 よく考えてみれば、わざわざべつの血を用意しなくても、子猫を傷つけ血を混ぜた『ふり』をすればいいだけだったのだ。

 あの暗闇の、あの雰囲気のなかでなら、きっとそれで押し通せていたといまにして思うのだが――

 わかってほしい。

 人一倍怖がりなぼくは、ずっといっぱいいっぱいだったのだ。

 あのときのぼくは、どうすれば子猫を助けられるか、そればかりを考えていた――

 思考の道筋としてはこうだ。


 とにかく『儀式』を行う 

 →当然『儀式』は失敗する 

  →『生徒会長』は現実を知る 

   →子猫は助かる! 


 この過程を評価する際は――たとえ語りぶりが年相応に感じられなかったとしても――ぼくが恐怖に怯えてろくにものを考えられなかったようやく新二年になろうとしている中学一年生だったという点を加味していただきたい。

 そう、ぼくは、なによりもまず子猫を助けようとしていた。

『儀式』には血が必要――だからといって子猫を傷つけるなど論外、『間違っていること』だ。

 これほど小さな子猫だ、わずかな傷さえ致命傷にならないとはいいきれない。

 しかし、人間であり猫より身体の大きい、ぼくならば――

 そう、そこで、ぼくは思考をとめてしまっていたのだろう。

 彼女と子猫をほっとくことで起こりうる状況――『知らない悪魔』よりも、ぼく自身が傷つく痛み――『知っている悪魔』のほうがまし――という考えに凝り固まってしまっていたのだ。

 人間はだいたい血液の三分の一を失うと死に至る、と本で読んだ記憶がある。

 といっても人間がそもそもどれくらい血液を持っているのか知らないので、三分の一といわれても困るが、さすがに三分の一もの量は必要ないだろう。子猫にとっては致命的な出血量でも、ぼくならまず平気だろう。闇のなかならきっと誤魔化せる、これならぼくが痛い思いをする代わり、確実に子猫を助けられる――そればかりを考えて、そもそも血液自体いらないんじゃないか、という発想には至らなかった。

 手のひらを選んだのは、そこなら傷を隠しやすい、と考えたから――

 以上の行動を鑑みるに、ぼくはきっと、場の雰囲気に、かなり酔っていたのだと思う。

 もしもあなたも怖がりならきっと理解していただけると思うのだが、恐怖というのは、酔うものなのだ。

 ここでいう『酔う』とはバランス感覚を失い冷静な思考を失うという意味で、そのため人は怖いはずなのに笑いだしたり、歌を歌ったり踊ったり、決然と自己犠牲行為に――必要もないのに――及ぼうとしたり、あとから考えてみればバカげているとしか思えない行動を、それしかないと選んだりする。

 たぶん、あまりに恐ろしい状況に耐えるための現実逃避の一種として、そういう症状が現れるのだろう。

 そう、ぼくはあの時恐怖に酔っていて、結果心の視野狭サクを引き起こし、だから自分の血を使おう、なんて考えて正しい思考ができなかったり、突然もったいつけて「超克する!」なんてよく知りもしない言葉を使ったりしたのだろう。

 つまりそれだけ怖くて、いっぱいいっぱいで――

 

 ともかく、ぼくはかなり恐怖に酔っていて――

 ちょっと説明がくどくなってしまったが、それくらい理解してもらいたいのだ、ということで、以上の前提をしっかりと踏まえたうえで、先に進んでいただきたい。

 もちろん、というか当然ながら――

『儀式』は、失敗する。