第一話『猫女』――ギシキ――
6.
時間の感覚が狂っていた。
外はまだ太陽が浮かんでいるはずなのに、『暗室』のなかは一切夜闇。
ハンカチをかぶせられたランタンだけが唯一の光源となり、薄い闇のなか、白い肌をほのかに浮かび上がらせている。
正しくは、それは白、などという色ではない。
闇に穢された薄い灰色。
墨のように淡い黒色。
にもかかわらず、それが白だとわかる。それが白色だと思ってしまう。薄められた闇のなかでは、既知のすべてが未知の色味を帯びて、常識とは異なる色彩をあたかも既存の色であるかのように錯覚させる。
白なのか? それとも黒なのか?
目に見えるもの、頭のなかに感じるもの、いったいどちらが現実なのか?
手のひらににじみ出る黒い(しかし赤色だとわかる)それを、カップのなかへと、垂らす。
思ったより長く切ってしまったが、うまくやれたか雰囲気のせいか、痛みは感じない。
あふれ出る、というよりはにじみ出てくるそれを、少しずつ、カップへ落としていく。
カップのなかの黒い(あきらかに前者と異なる色なのだが、同じく黒、としか表現できない)液体のなかに、筆を突き入れ、かき混ぜて――
そっと、キャンパスのような柔肌にのせる。
一瞬走った震えを無視し、一気に首すじから腰のあたりまで線を引く。黒としか表現できない血の混じった茶色の線はきれいな軌跡を描いて、それに合わせるかのように、キャンパスと化した背中がピン、と伸び反って。その反応がかわいらしくて、勢いのまま引いた線の両脇に、続けて二本、肩甲骨の下端辺りから脇腹へ向けて線を引く。
跳ねる裸体に、注意も忘れず。
「動いちゃ、だめですよ」
図案によると、この斜め線を基準に、だんだんと横線を引いていけばいいらしい。
ながめているうちに、最終形が、脳裏に浮かぶ。
「……ああ、虎縞の猫のイメージですね。いや、猫そのものに、……虎の仲間に、なるんだ」
虎よ、虎よ、ぬばたまの――いつか見た詩のフレーズが思い出される。
あの詩は確か、こう続くのだ。
夜の森に燦爛と燃え。
いかなる不死の手、はたは眼の、作りしや――汝がゆゆしき均斉を――
描いた線に触れぬよう、いつしか落ちてきていた長い黒髪をさっと撫で寄せ、あらわになった首すじに、そっと筆を持ったままの手をのせて。
やさしく、しかし拒絶を許さぬ意思をこめ、前に押す。
抵抗もなく、白い身体は四つん這い――獣の体勢となる。
首から背中、そして腰から足へと続く、男性とは一線を画した柔らかい曲線に、あらためて、感嘆する。
どうして女性の身体は、こんなに猫のようなのか。
それとも、『彼女』だけなのか?
――いかなる不死の手、はたは眼の、作りしや――汝がゆゆしき均斉を――
ときに図案を確認しつつ、まずは左の半身から――ろっ骨に沿うよう線を引く。
くすぐったいのか、冷たいのか、筆を走らせるたびに小さな反応が返ってきて、それが心を高揚させる。
ああ、いま、ぼくは、対話をしている。
この筆で、言葉を使わぬ会話を。
『彼女』も応えてくれている。
『人』であり『猫』でもある、そんな存在になるために。
『自己』を『超克』するために。
長く、短く、優しく筆を走らせる。
すでに図案は、時折イメージを得るためだけのものになっている――当然だろう? 大事なのは模様を正確にコピーすることじゃない。大事なのは、この『儀式』以て『彼女』を『猫人』へと変えることだ。本質を見誤ってはいけない。この筆は『彼女』を『超克』するもので、模様を正確に描くためのものではない。
気をつけるべきは、ぼくの血を混ぜているのを見られないようすることだけ。
魔術のタネを、知られないようにすることだけ。
あとは、ただただ『彼女』に尽くせばいい。
筆は一度もとまらず、ためらわず、よどみなく縞の模様を描いていく。
ときおり走る肌の震えも、なんの妨げにもならない。
左手にカップ、右手に筆を持ち、みずから身体を回して(『彼女』を動かすなんてとんでもない!)、とくに反応の良かった脇腹から腰を終え、肩側の少し複雑な曲線へと移る。
肩から脇を通って胸の横までとどくその線は、しかし、確かな膨らみを包んだ布に邪魔されて、――はじめて原因不明のいらだちを覚え、かまわずそのまま、膨らみの頂点目掛けて線を引く。
二本、三本――
わずかに漏れ聞こえた吐息は、ぼくと、先輩、はたしてどちらのものだったのか。
背中の左半分を完成させて、あらためて、左脇から背後にもどり、成果をながめる。
完成した左半分と、ほとんど手を付けられていない右半身――その違いは一目瞭然で。
満足のため息があふれた。
確実に、変化しているのがわかる。
筆を走らせる前と、走らせた後で――
一仕事終えたことで、精神が緩んだか、鼻孔がはじめてのにおいを嗅ぎつけた。
香の、どこかくすぐったくなるようなにおいに混ざり、確かに感じられる生々しい、甘くも肉感的なそれは――
汗の、においだ。
自分のものも確かにあるが、しかし他の、嗅ぎ慣れぬそれは自分のものではない。
おそらく、『彼女』の――
『彼女』が汗をかいている。
当然だ、ここにいるのは生き物だ。
生きて息をし、汗をかく、妄想ではなく現実の、存在だ。
それといま、自分は対話し、一緒になって、『完成』させようとしているのだ。
なにかすごいことを達成しようとしている――高まる興奮に、自分を落ち着かせようと深呼吸して、胸いっぱいににおいを吸いこむ。
さらに意気を上げ、続きに取り掛かろうとしたところで。
とつぜん。
図案の間違いに気づいた。
図案は
それは違う。
よく見ればこれほどはっきりしている事実ではないか。
右半身まで左と同じにする必要はない。
これでいい。
このままでいい。
シンメトリーは確かに美しいが、『彼女』――『猫』であり『女性』でもある存在には、むしろこの
ならば、こちらに書き加えるべきは――
バケツから黒い塗料を補充し、黒色の血を垂らす。
左手のひらは、にじみ出た血がいつのまにかしたたるほどになっていて、絞り出す手間がはぶけてありがたい。
いまは少しの停滞も惜しい。
勢いのまま進めたい。
『儀式』には、鮮度があるのだ。
だれに教えられなくとも、目の前の白磁のような肉体を見れば、そんなの疑問にもならない。
異なる黒をかき混ぜて、たっぷりと、筆に含ませて――
目の前にある、腰より下の優美な曲線を包みこむうっすら青みがかったそれを、足の付け根までずり下ろした。
「――ちょっ!」
「――ほら、『猫』は、しゃべりませんよ?」
聞こえた雑音を、おだやかに、しかしきっぱりとはねつけると(雑音はそれで消えた)。
確かめるようにそっと、目の前に現れた白い丸みを、撫でる。
天鵞絨のような、という表現がすぐに浮かんだ桃のようなそれを、さらっとしながらどこか湿ったきめ細やかな感触を、視覚だけではなく感触まで、においまで、脳裏に再現しつつ――
尾てい骨の上あたりに筆を置き。
そのまま下へと筆を走らせて。
なめらかな白い右半球をぐんと大きく経由して、背中まで一気に跳ね上げる――!
――『しっぽ』の、顕現。
腰の中央より始まったなめらかな筆の軌跡はしかし確かな力強さをそなえ、いったん下降しみずみずしくも白い半球を経由したのち緩やかなカーブを描いて背中のほうへ伸びている。
――その一瞬、跳ねて。
いまだかすかに震え続ける『彼女』の身体に合わせて、描かれたしっぽも揺れている、ゆらゆらと――
描かれた?
いや、それはもう、背中に描いた線ではない。
本物の、生命器官。
たとえ目には見えていなくとも脳裏にくっきり浮かび上がる、背より離れてゆらめく姿。
立ち、垂れ、巻きつき、さまざまな表情を見せる猫の本質。
生まれたしっぽに負けまいと、『彼女』の半身に描かれた模様がざわざわ動き出す。
触れずともわかる。
やわらかな、絹にも負けない人外の毛並みが『彼女』の身体の表面を、風のなか波打つ草原のように広がっていく。
身体の半分を縞に、もう半分は純白に、闇のなかでなお黒い尾を、しなやかに、闇に負けずと振り動かして――
――ああ。
『猫人』が、現れる。
その確信とともに、ナイフをしまい、筆を置き、白く冷たい肩に手を置いて、四つん這いに背を向けている『彼女』をゆっくり引き起こし――
動作に合わせてさらりと流れる黒髪のなかに、髪と同じく黒色の、人のものではない耳を見つける。
こちらの挙動をうかがっているのか伏せられているそれは、まぎれもない、猫の耳。
見る間にぴん、とそれは立ち、こちらのほうへ向けられる。
胸が激しく脈を打ち出す。
はやる気持ちを抑えきれず、身体を起こした『彼女』の正面に回って、ひざ立ちに、その顔をのぞきこみ――
しっとりとうるんだそこに細く縦割れた瞳孔を見つけて、息が漏れるのを自覚する。
瞳孔は、――次の瞬間には丸い人間のそれにもどっていたが、問題ない。
ここは暗闇のなかなのだから、猫の瞳も丸くなっていて当然だ。
文目も分からぬ闇のなかでは、見えるものだけが現実ではない。
見て、そして、心に感じるものこそが真実だ。
わずかな光の溶けこんだ、あらゆるものをかすませる薄い闇のなか、しかし『それ』は、らんらんと目を光らせている。
そう――
――ぬばたまの、夜の森に燦爛と燃え――
ほとんど恍惚のため息をつき、賛美の瞳で『それ』をながめつつ、あらためて、一度しまったナイフを手に取る。
もちろん、まだ『儀式』は終わっていない。
ここまででまだ半分、『それ』は『超克』したいのだ。そのためには、まだまだ『人間』が残っている。こんなに残った『人間』は、いまとなっては邪魔でしかない。
『それ』は完全な、『猫人』となるんだから――
ナイフを、ささやかに膨らんだ胸の中心へと持っていくと、驚いたような声が聞こえた。
「ちょ、目良く――」
「おかしいな。『猫』がしゃべるはずがないのに」
反射的にさえぎってから、声にいら立ちを混ぜてしまったことに、罪悪感を覚えた。
怯えさせないように、なるべくおだやかに、猫にだってわかりやすいよう言葉をつむぐ。
「……だってそうでしょう? 猫は、人間の言葉を話しません」
いいながら、ツールナイフのボディからはさみを引き出し、まず右の肩紐を切る。
ぶつん、と。
ついで、左の肩紐も。
『それ』のまるくなった瞳孔をのぞきこみつつ、おだやかに、語り掛ける。
「猫は、服なんか着ていませんし、そもそも話しません。そうでしょう?
猫は話さない。けれど、その代わり――」
「鳴くんですよ。……にゃぁ、って」
胸を包んだ下着のちょうど真んなかに、はさみの刃を、すべりこませる。
冷たかったのか、『それ』は身じろぎしつつ、それでもぼくから目を離さない。
ぼくも目をそらさずに、はさみを握った指に力をこめつつ、そっと、うながす――
「……ほら、鳴くんです。にゃあ、って。――さぁ……」
「…………にゃ、あ」
か細い声だったが、『それ』は確かに、鳴いた。
猫の、声で。
大きな満足感に包まれつつ、ぼくは指に力を入れて、邪魔な固さを断ち落とす。
はじけるようにそれは左右に開き、次いで肩から落ちていき、そしてぼくは、ナイフをたたんで筆へと持ち替え、そして、新たなキャンパスに向かって――
――にゃあ?
彼女の背後のほうから突如聞こえた異なる鳴き声に、全身が、冷水をかけられたかのごとく縮こまった。
ぎょっとして、彼女の肩ごしに、向こうの闇をうかがう。
暗くてよく見えなかったが、確かになにかが動いているのが感じられて、全身が恐怖に怖気立ち――しかし次の瞬間思い出す。この場にいるのが自分たちだけではないことを。
というか、子猫がこの場にいるのをすっかり忘れていたことを――
そもそも、この子猫を助けるためにはじめたというのに、その肝心かなめの存在を、ぼくは――?
あまりに『生徒会長』の鳴きまねが真に迫っていたため、反応してしまったのか。
子猫が再度、こちらに問いかけるように、にゃあ、と鳴いた。
いきなりの声の正体に、ほっとして、子猫のことをすっかり忘れていたことに多少ならず狼狽し、ばつの悪い思いをしながら、ぼくは顔を正面にもどし――
呆けたような顔をしてひざ立ちになっている『生徒会長』を、見た。
見てしまった。
いまさらどうしようもなくはっきりとした、確かな膨らみをみせるみずみずしい白い膨らみと、そしてその中心に、暗いなかでもはっきりわかる、ほのかに色づいた、ふたつの――
――突如腹部から衝撃が走って、たまらず身体がくの字に曲がり、地面にひたいをつく。
声を上げようとするが呼吸ができず、ぜぇぜぇと息を震わせる――
伏せた頭の上から、バタバタする音と「そのままにしていなさい!」という激しい声が聞こえて、ようやく、自分が彼女におなかを蹴られたか殴られたかしたことに思い至る。理不尽な暴力になれていないぼくには殴られたこと自体ひどいショックで、とてもじゃないが身体的にも精神的にも顔を上げる気にならず、目もつぶって嵐が過ぎ去るままにまかせた。
やがて、彼女がはしごを上っていく音が聞こえて。
扉が開き、閉じる音。
かすかに、――本当にかすかに、立ち去っていく足音が響いて、下からだと上の様子はこんな感じに聞こえるのかと新鮮な気分を感じつつ、ぼくはようやく、目を開き、顔を上げた。
ランタンは持って行ったのか、辺り一面まぶたを開けても変わらぬ真っ暗闇で、あわてて腰ポケットに入れていた小型の懐中電灯を取りだし、つけて、あたりの状況を確かめる。
当然ながら、彼女はいない。
バケツやなんかはそのままだが、着替えのようなものはない。
いや、まずは、それよりも――
「……ええと、にゃ、にゃあ?」
――にゃあ?
猫の鳴きまねで呼びかけると、きちんと声が返ってきて、自分で呼びかけていながらドキッとしつつ、ぼくはそちらに光を向けた。
闇に輝く緑色の目――思わずぎょっとし――子猫の姿を発見し、ひざ立ちのまま近づいて、抱き上げる。
置いて行かれてしまったか。
まぁ、でも、助けられたし、結果オーライということで……
もっとも、達成感に浸っていられたのは短い間で、抱き上げた子猫がなにか布っぽいものを爪にひっかけていることに気づき、光を当てて、それがはさみで切られた薄青のブラジャーだったものであることに気づいた途端、猛烈な罪の意識と、そして恐怖に襲われた。
なにをやっていたんだ、ぼくは――?
この子猫を助けるために、『儀式』の真似事をしようとしただけなのに、なんで、なんで、なんであそこまで――?
あれは本当にぼくだったのか?
なんか妙に気合入って、四つん這いにさせたり、――下着をずらしたり、切ったり、挙句の果ては猫の鳴きまねを強要し――
最後に目にしたものを思い出し――あまりに強烈に脳裏に焼き付いて、振り払おうにも振り払えない――そこではじめて、自分の、いわゆる、――男の部分が、固くとがっていることに気づく。
そういう目的で使用したことこそないが、いちおう、どういう状況でなんのためにこれがこうなるのかの知識はある。
うわぁ、いつからだろう。
彼女の、――その、……胸を、見たときからか。
それとも、――もしかして、『儀式』中ずっとだったのか。もしもそうなら、彼女は気づいていただろうか。いくら暗闇のなかとはいえ、自分が意識していなかった部分をはたしてごまかせていただろうか――うわぁ――うわぁ――
殴られたのも当然だ――
というか、あれだけですませてくれるだろうか?
もしも彼女が本当に、うちの学校の生徒会長だったとしたら、――とてもじゃないが逃げられない。
ぼくがしたことはほとんど暴行であり、結果的にはぼくの勝手な行動が『儀式』を失敗させてしまったようなものだし、それなのに、はたして彼女は殴ったくらいで許してくれるのか――?
とつぜん、恐ろしい想像が頭をもたげる。
ここは、ぼくと『生徒会長』以外知らない、秘密の場所。
もし――もしも『生徒会長』が、天井の、唯一の出口をふさいでいたら?
だれにも知られることのないまま、ぼくはここで朽ちていき、復讐の完全犯罪成立――?
「――うわぁ!」
ぼくは左手に猫を抱いたまま、奇声を上げてはしごに向かい突貫した。
段に手をかけた衝撃で右手に持っていた懐中電灯を落としてしまったが、止まれずそのまま闇のなか、昇り続ける。
もしも、本当に入口が、閉ざされていたら。
携帯も持ってない以上(そして彼女はそれを知っている)、ぼくはこのまま、ここで――?
――今日という日は、妄想がすべて悪い方向に当たっていたいやな日だったが――
最後の最後に運命が許してくれたらしく、最後の妄想は妄想のままで終わってくれた。
『生徒会長』によってふさがれた様子はかけらもなく、懐中電灯の明かりがなかったせいで目算が狂い(上りなれたはしごだったのだが、片手に猫を抱いたまま、という不自由な体勢だったせいもあるだろう)、『もしもの恐怖』にせかされるまま顔から全力で突っこんだ扉はそれでも勢いよく開き、そして開閉にひたいをつかったぼくは、衝撃でそのままはしごから落下してしまったが――
ともあれ。
したたかにお尻を打ち、さらにひたいまで負傷してしまったが、それでもぼくはその日、再びはしごを上って無事に家に帰り着くことができた(見られないよう注意しつつ、全力で走り帰った。走らずにはいられなかった)。
一緒に階段から落ちたにもかかわらず、手のひらのなか、怪我一つない、子猫と一緒に。
そして翌日。
無事に? 新二年生の始業式を迎えることができたのだった。



