第一話『猫女』――ギシキ――

7.

「よう、おはよう。相変わらずはやい、な――?」


 ぼくにかけられたものであろう、朝のあいさつを耳にして、ぼくは机に突っ伏していた顔を上げ、応えた。


「おはよう……どうかした?」

「どうか、って、おま……」


 言葉は続かず、そのまま絶句している詰め襟姿(いやになるほど似合っている。一年のときに買ってもらった制服にいまだに着られているように見えるぼくとは大違い)の友人――名を遠藤一八かずやという――に、おそらくこの手のことだろうとあたりをつけて、左手を伸ばして振って見せる(ちなみに制服が大きいせいで、伸ばしても手のひらが半分以上袖に隠れる――いいや成長期はまだこれからだ)。


「これ? 昨日、ちょっと怪我して」


 巻かれたおおげさな包帯は、朝替えたばかり。

 場所が手のひらというよく動く場所だからか、人一倍怖がりなぼくがすぐ手に汗を握るからか、絆創膏がずれてはがれてしまうため、結局絆創膏の上に包帯を、手首にとどくほど大きく巻いて固定していた。

 ちなみに扉にぶつけてすりむいてしまったひたいのほうにも、大きめの絆創膏を貼ってある。

 目立つかな、と迷ったのだが、血のにじむ傷を見せるよりは人に不快感を与えないだろう。

 学生帽を脱ぎ、カバンを置き、上着を椅子――男女別、出席番号順に座るよう黒板に指示があった(慣例通りなら始業式のあと席替えを行うことになる)――にかけてもどった遠藤が、腕組みして真面目な顔をつくる。


「そうか、怪我か。そうだよな? ……いや、すまん」

「なんで謝るの?」

「いや、……なんていうか、さすがおまえだって思ってしまって。まさか中学二年生となった最初の日に、ひたいに絆創膏をはり左手に包帯を巻いたおまえに会えるとは、さすがのおれも予想していなかったよ。……いや、悪い、怪我だもんな。ていうかおまえ、すごい運だな。神、降りてんな」

「なにいいたいのかよくわからないけど、運が良ければ怪我しないって」


 腕を組んだまま神妙な顔をしているが、小学校五年時からの付き合いだ。遠藤が笑いをこらえているのはわかる。

 ぼくの状態のなにがツボにはまったかよくわからないが、まぁ、怪我を笑うのはさすがに悪いと我慢してくれているのだろう。

 遠藤は、だれもが認めるいいヤツだ。

 クラスでいちばん背が高く、成績も学年順位一桁以内をキープ、スポーツもでき、たぶん顔もいいほうだろう(その証拠に遠距離恋愛中の恋人がいる――中学生なのに! ちなみにこれはぼくともう一人だけが知っている秘密であり、他人にはその存在をかけらも匂わさないだけの演技力もある)。性格も外交的で前向きで、たとえばぼくがテレビから怨霊が這い出てくるかもしれないと恐れおののくような状況でもかわいい女の子が飛び出してきてすてきななにかがはじまることを夢想できる、そういう人間であり、なんでそんなぼくみたいな人一倍怖がりな厄介者とは正反対の人間がぼくと友人を続けていられるのか不思議に思うかもしれないが(いちおう捕捉しておくが、成績だけならぼくも彼に負けていない。いまのところは)、それはつまり、真に完璧なものなどこの世に存在しないということなのだろう。

 小学校五年生の夏、転校してきた遠藤と、当時要領の悪さから学級委員長を押しつけられていたぼくは、まぁ、遠藤がいい奴だったおかげで、それなりに仲良くなった。

 それから三ヶ月弱ほど過ぎた二学期終業式の日、帰りの会が終わってみなが教室を出ようとしたその刹那、なにを思ったか、突如彼は教壇の前に立って、叫んだ。


「おれは! ○○○○と、結婚したい!」


 なお、この○○○○には、人の名前――ただし実在しない人物の――が入る。

 とつぜんの愛の告白に、みんなきょとんとしていた。

 どうもぼく以外に○○○○が何者なのか知る者はいなかったらしい。

 ぼくはしばしば彼の趣味に付き合わされていたので○○○○が何者かすぐにわかり、とうとう現実と二次元の区別がつかなくなったのか、とセンリツしていたが――


「あと△△△△も好きだ! □□□□もいい! ハーレム最高!」


 △△△△も□□□□□もあまり知られていないようだったが(いってしまうとかなりむかしのアニメの脇役の名前だった)、最後のセンテンスだけは意味が通じたらしく、クラスになんともいわくいいがたい沈黙を生んでしまい、それでもまったくくじけずに、以降、遠藤一八は日本的サブカルチャーに傾倒している、というおのれの趣味を隠さなくなり、とんでもない絵案の下敷きを持ってきて先生に呼び出されてはなにが悪いと討論したり、とんでもない音楽を昼休みに流してはいいものはいいんだと開き直ったりするようになった。

 普通ならそんな目立つことをすれば孤立してしまいそうなものだが(正直、傍で見ていてハラハラしっぱなしだった)、知力においても運動力においても、そのころから彼の優秀さは群を抜いていて、もともと人柄自体もいいために、結局は個性として受け入れられた――まぁ、小学生だったし、遠藤ほどディープではないというだけでクラスのみんなもアニメなりマンガなり見ていたと思う。もっとも彼の趣味は中学に入学しても収まるどころかますますの発展を見せ、そのあまりの人柄的もったいなさぶりに、いつかの学芸会で王子さまの格好(とあるアニメキャラのコスプレ)をしたことでつけられた『残念王子』の愛称がいまでも親しまれている(実際、人気はあるがモテてはいない――彼の場合、そう演技しているだけかもだけど)。

 一度、なぜあのとき、あんな告白をしたのか聞いたことがあるのだが、


「いやぁ、いろいろ考えることがあって、……とにかく、おまえに負けたくないって思ったんだよ」


 と、謎の答えが返ってきた。

 いったい完璧超人のごとき彼が(成績以外)ぼくのどこに負けているというのか、というかぼくとなにを張り合えばあの告白(「ハーレム最高!」)につながるのか知りたかったが、結局はぐらかされて教えてもらえなかったが――

 まぁ、その告白のせいで、ぼくの彼に対する親しみが増したことは確かで、いまでは親友といっていい間柄である(と、思う。恥ずかしくて確認なんてできないけれど)。

 そんな遠藤が、はぁ、とため息をつきぼくにいう。


「しまったなぁ、よく考えればせっかくの中学二年生なんだ。おれもなにかデビューするべきだったかも」

「デビューって、……なにいってんだかわからないけれど、……まぁ、なにかを契機に新しいことをはじめるのはいいことだと思うよ。……正直、遠藤はいまでも多趣味すぎると思うけど。ええと、十六あるんだっけ?」

「いいや? いまやおれはその名の通り、十八の顔を持つ男さ。まぁまだまだ増やすつもりだが……それより、せっかくだし、シンシ、ちょっとやってみてくれよ。こう、その左手のなかで、なにかが暴れているようなイメージで――」

「――ええ! ななななんで? なんでそれを?」


 彼のいきなりの指摘に、ぼくは驚嘆に目を見開き、思わず席を震わせて、遠藤を見た。

 なんで、遠藤がそれを知っているのか――? 

 ぼくの彼を見る目に、恐怖が混ざっていたのかもしれない――遠藤も驚いた顔でぼくを見ていて、ぼくは思わず、包帯を巻かれた左手を見た。

 

 

『暗室』では感じていなかったのだが、ナイフで切った傷は思った以上に重傷で、正直想像していた以上の痛みを生んでいて、あたかも左手のひらに心臓ができたかのように脈打つ熱がなかなか収まらず、それがひとつの妄想を生み出していた。

 もしかして、あの地下の『暗室』で、傷口から変なばい菌にでも感染してしまったのではないだろうか。

 帰ってからいちおう消毒したが、時すでに遅く、一日を経たまさにいまどんどんと腕を浸食していっているところじゃないだろうか。もしかして、ぼくは手遅れになる前に病院にいって検査してもらうべきなんじゃないか? なんともなかったら恥ずかしいことこのうえないが、ひとときの恥にこだわった結果、腕を一本ダメにする、それどころか生命にかかわるなんてことになってしまったらどう考えてもそちらのほうが被害が大きい――

 左手を見る。

 ずきん、ずきんという脈動が、まるでそこにばい菌という怪物が潜伏し暴れまわっている証拠のように思えて、なんか動いているようで、いまにもそこから血が噴き出し、手首がぽとりと落ちそうで――


「……おはよう、って、またか? 今度はなにを怖がっているんだ?」


 男子っぽいせりふとともに、ぽん、と頭をなにかでたたかれて、ようやく自分を取り戻す。

 もちろん、手首は落ちていないし、包帯の下がうごめいたりもしていない。

 ぼくと同じように、じっとぼくの左手を見つめていたらしい遠藤も、ふう、と息を吐き、照れたように笑い声を上げた。


「……いやぁ、油断してた。久しぶりに目良ワールドに巻きこまれたぜ。おはよ。小林。元気だったか?」

「ああ。そういえば遠藤、動画見たよ。休みの間にずいぶん技術上がったね。おもしろかったよ」

「……そう思うなら煽るコメントやめてくれよ。あれおまえだろ? すごいコメ増えているなと思ったら――」

「失礼な。決めつけはよくないんじゃないかい? ……ところで目良、その怪我は?」

「あ、うん、おはよう」


 タイミングをはずしてしまったが、いちおう朝のあいさつをして、答える。


「ちょっとその、昨日、猫を助けて、そのときに――」

「え? マジで? そういう理由? いやいやシンシ、おまえ本当に神がかってんな」


 感嘆のこもった遠藤のため息に、


「いやいや、そういう問題じゃないだろう」


 ぼくの頭をぽんぽんと、ぼくの学帽で――机の横にさげていたのに――たたきながら、セーラー姿がこれまた似合ったショートカットの女子――名は小林芳佳よしか、ぼくのもう一人の近しい友人――は、あきれたようなため息をついた。


「どうして猫を助けるのでそんな怪我をするんだ? 状況わからないのに勝手をいわせてもらうが、きみがまたよけいな行動力を発揮してバカをしたんじゃないのか?」

「……ま、まぁ、そう、かな?」


 少なくともこの左手については、――いまにして思えば――しなくてもいいバカだったかもしれない。

 ぼくの学帽をなぜか自分の頭にかぶり、小林さんは首を振った。


「きみはじつにバカだな」


 ちなみにこれ、ぼくに対しての彼女の口癖である。

 初対面は中一の新学期、意気揚々と未知の恐怖に駆られつつ中学校の校舎にやってきたぼくは、五年生以来会っていなかったガキ大将との再会をはたしてしまった。

 どうもあの肝試し以降、彼には妙な敵対意識を持たれてしまったらしく、ねちねちといびられるようになって、さいわい五年次のクラス替えで別れてからはお互い避けあって会うこともなかったのだが(たぶん、転校してきた遠藤の存在も大きかったと思う)、中学入学によって再び同じクラスになってしまったのだ。

 朝はやかったため遠藤の姿も見えず、さっそく難癖をつけられて、うわぁどうしよう、とこれからはじまる中学生活の展望の暗さに絶望していたところを助けてくれたのが、同じく朝はやく登校していた小林さんだった。

 それで縁ができてしまったのか、あるいは小林さんが学級委員長になったためか、それ以降も面倒を見てもらいいろいろ迷惑をかけてしまっているうちに仲良くなった。

 遠藤ほどではないが長身で、やっぱりスポーツ万能成績優秀、みずから委員長に名乗りを上げるリーダーシップも備えており、背が高くてショートカットなためかどこか中性的な雰囲気を持つ優等生(自分でも意識しているらしくわざと男子っぽいしゃべりかたをしていて、それが似合って受け入れられている)。遠藤とも仲が良く(そのため、別称が遠藤と対となる『“性別が”残念王子』)、よくぼくを間に挟んでゲームやコミックについて話していたりする、という一面もある(なお、コミックを読みゲームはするがアニメは見ないらしい。テンポが合わずじれったいのだとか。ちなみにぼくはどちらも消極的な興味しかなく、遠藤の視聴に付き合う程度)。

 ちなみに彼女こそ、遠藤に彼女がいることを知っているもうひとり。

 正直、ふたりともぼくとは違いまばゆいばかりの優等生で、それぞれクラス内に人望もあり、そんなふたりがどうしてぼくをかまってくれるのかわからない。

 こういう自虐はどうだろうとも思うのだけれど、ふたりがいなかったらたぶんぼくはクラスで孤立していただろうと思うので(実際、ふたりのおかげで件のガキ大将にもそれほど悩まされていない)、このふたりには本当に、足を向けて寝られない。

 ――卒業までクラス替えが行われないエスカレーター式のこの中学と、ぼくと同じクラスになってくれたこのふたりに心のなかで感謝の気持ちを捧げていると、ふと、思い出したように、ぼくの学帽をかぶったまま、小林さんがつぶやいた。


「……そういえば、目良」

「ん?」

「大江先輩が呼んでる。廊下で待ってるぞ」

「大江先輩?」

「知らないのか? 大江静、うちの学校の名物生徒会長――」


 ほとんど転げ落ちるような勢いで、ぼくは立ち上がった。

 小林さんのしれっとした顔を、まじまじと見つめつつ、繰り返す。


「――せ、『生徒会長』が?」

「うん。用があるから呼んできてほしい、って」

「な、なんでもっとはやく――ああ、もう!」

「ごめんごめん。私、権力者が嫌いでさ」

「ええ? そんなロックな理由?」


 いいつつ、ぼくは急いで廊下へ小走る。

 いい人のはずなのだが、――小林さんは、あまりにぼくが迷惑をかけすぎたせいか、ぼくに対して意地悪なところがある。

 ぼくが人一倍怖がりなのを知っていて怖い話をしたり、怖いものを見せたり想像させたり、こんなふうにあわてさせたり、――もちろん、文句をいえる筋合いではないが――

 ――

 そう、病院に行くべきかもと思いつつも学校に出てきたのは、始業式だから、じゃない。

 手の傷よりも、こちらのほうが気になったからだ。

 よく考えれば名前すら聞いていなかったあの人は、本当に、うちの学校の生徒会長だったのか? 

 ――教室の扉を開けると、まず見つけたのは、セーラー服の胸もとにある、新三年生を示す色の校章。

 次いで、その上にある顔は。

 ジャージこそ着ていないし、長い髪も三つ編みにまとめていて、しかもメガネをかけているが、それでも――あれほど至近距離で見たのだ、忘れようにも忘れられないその顔は――


「――『』?」

「やっときたわね。ずいぶん遅かったけれど、忙しかった?」

「……あの、……いえ」


 肩を越す黒髪を三つ編みにして胸前にたらし、制服をきちっと着こなしている、模範生然とした隙のないメガネ姿から受ける印象は『暗室』での雰囲気とはまったく異なっていたが――

 ――間違いない。

『彼女』本人。

 本当に、彼女はここの生徒で、しかも生徒会長だったのか? 

 あんな『儀式』を真に受けて(本気だったかわからないが)、子猫を傷つけようとするようなヒトなのに(こちらも本気だったかわからないけれど)? 

 頭のなかをぐるぐると、昨日の記憶が駆け巡る。

 いいたいこと、聞きたいことはいろいろあるはずなのに、謝らなければいけないって、謝罪の言葉を考えていたのに、いろいろ頭でシミュレーションしていたはずなのに、言葉が出てこない――ああそういえばあのブラジャー、持って帰ってしまったけれど返したほうがいいのだろうかこちらで処分するべきか、はさみで切ってしまっているし、つくろいかたも、洗濯のしかたもわからないし、親にも頼れず、どうしよう、きちんと弁償するべきか――



「……コネコは、元気?」



 よく通る、大きな声でつむがれた問いに。

 ごくり、と息をのみこんで、ぼくは、応えた。


「……あ、はい、元気です。とくに問題もなくて」

「それで、飼えそう?」


 え、と思わず言葉を呑みこむ。

 な、なんでそんなことを? 

 確かに、両親にお願いしてあるが――


「え、ええ。うちはみんな、動物好きなので、庭もありますし、家族も乗り気で――」


 だんだんとしりすぼみになっていくぼくの答えに、


「そう。よかった」


 先輩は、勝手に決めていたことを怒るどころかむしろ喜んだように、微笑んだ。


「じゃあ、あのコのことで、いろいろ相談あるから、終礼後、生徒会室にきてもらっていい?」

「……え、ええ、うかがいます――」


 じゃああとで、とうなずいて、去っていくのを見送って――

 ぼくは狐につままれたような気分を感じつつ、教室に戻った。

 遠藤と小林さんが寄ってくる。


「なんだ? シンシん家、猫を飼うのか?」遠藤の問いに、


「聞いてたの?」


 かぶっていた学帽をぼくの頭にのせて、小林さんが笑う。


「人聞き悪いね。ドア開いてたから聞こえてたよ。……てっきりまた目良が問題起こして、生徒会長直々にお叱りを受けるのかと思っていたのに。……その怪我といい、なんかいろいろドラマがあった?」

「……まぁ、いろいろと……」


 気づくとかいていた汗が、左手の傷に沁みて痛痒い。

 

 それだけで、恨みも敵意も感じなかった。

 もしかして、怒っていないのか? 

 それとも、人目があったから自重しただけで、怒りをためこんでいるのか? 

 おそらく、生徒会室では、先輩とふたりきりになるだろう。

 またも頭をもたげてきたいやな妄想に心を震わせて、学帽のした、暗い気分になりながら、ぼくは席へと、戻った。

 左手は変わらず脈打っていたが、もう、気にならない。

 気にする余裕がない。

 気になるのは、待ち受けている『知らない悪魔』――




 ――そして放課後。

 ぼくは、生徒会室へ向かった。