第一話『猫女』――ギシキ――
8.
当たり前の話だが、生徒会室の戸も教室となんら変わらぬ普通のドアだった。
いきなり入っていいものか、一瞬躊躇し、学帽を脱ぎ、こんこんこん、とドアをノックし、声をかける。
「失礼します」
「――どうぞ」返事があって。
ぼくは遠慮がちに、ドア(引き戸)を開け、入室した。
初めて入った中学校の生徒会室は、一教室くらいの部屋を三分の二ほどで区切ってあった。
入ったドアに近い広い側には細長い机が二つ中央でくっつけてあり、三分の一側にはスチール製の書架が並べられている。
室内はきれいに整理整頓されてはいたが、なぜだろう、言語化できない部分でどこか雑然とした感がある。
生徒会室、なんて由緒は感じられない急造されたような雰囲気は、正直、居心地がいいとはいいづらい。
先輩は、くっつけて並べられた机の、窓の近く、こちらを見渡せる短い辺の一角に座っていた。
メガネははずし――あとで聞いたところによると、視力とは関係なくただのファッションらしい――、一体型パソコンに向かってなにか作業をしていて(ちなみにパソコンは二つの机をまたぐ形の真んなかではなく、窓に近いほうの机に寄せておかれていた)、さすが生徒会長は忙しそうだ、と思っていたのだが、よくよく見るとディスプレイを見ながらお弁当を広げている。
意表を突かれたぼくの視線に気づいたか、先輩は笑った。
「ほら、目良くん、そこに座って? お昼ご飯は?」
「……いえ――」
遠慮がちにパイプ椅子を引き、いわれたまま、座る――
――なにをいわれるのだろう。
いろいろしたこと、糾弾されるのだろうか。
すべてぼくが悪い、というわけではないと思うのだけれども――そもそもいわれたからやっただけで、確かに後半は行き過ぎてたけど――でもたぶん、責められたら言い返すことなんかできない。
情けない話だが、怒鳴られるだけで萎縮してしまう。
いまさらながら、待っていようか、といってくれた友人たちを帰したことを後悔する。
一緒についてきてもらうわけにはさすがにいかなかったが、待ってくれている、そう思うだけでもだいぶ心強かったのではなかろうか――
「……そんな泣きそうな顔しないでよ。もしかして、なにか勘違いしてる? あたし、べつに、あなたを怒るために呼んだわけじゃないよ?」
「……そうなんですか?」
「ええもちろん。むしろ感謝しているし、……それに、謝らないともいけないしね」
「…………え?」
「ごめんね? あのとき、蹴飛ばして。怪我、させちゃったみたいだし」
手と額を見ながらの、本当にすまなそうな視線に、ぼくはあわてて首を振った。
「いえ、――その、痛かったのは痛かったですけど、あれはしかたないですし、それに、この怪我は逃げる時にあわてすぎてぶつけてしまっただけで、先輩のせいじゃありませんから」
そういって平気なしるしにぽん、と、おでこの絆創膏を叩いて見せる。
「…………………………ふうん。そう。……じゃあ、怒ってない?」
「はい、というか、むしろぼくのほうこそ、その……」
ブラ――下着を――口にするのもはばかられ、言葉が、すぼんでいく。
一方で、ぼくは安心も感じはじめていた。
どうやら、勝手をして儀式を台無しにしたことを怒ってないらしい。
それどころか、蹴ったことを謝ってもくれた。
朝も、猫のことを心配してくれたし、そういえば――
「……あの」
「うん?」
「あの、子猫の、ことですが、本当に、うちで引き取って、いいん、ですか?」
「ええ。あなたがだいじょうぶなら、だけど。ご両親には、どういう説明を?」
「その、山で、木の上から降りられなくなっているのを見つけて、助けた、って」
その時落ちてしまって、左手とひたいとを怪我したことにしてある(そのことで「またか!」と怒られたが)。
先輩はうなずき、思案の仕草を見せた。
「……そう。じゃあそれを基本に、話を詰めましょう。うちの猫が迷子になって、あなたが見つけてくれた、とかいうふうに――まぁ、後日、ご両親にあいさつに行くから」
「……はぁ」
両親に? あいさつに?
そんなことをする必要があるのか? おおげさな? と思ったが、うなずいておく。
それよりも重要なのは、猫を譲ってくれたことだ。
猫を返さなくていいことだ。
よかった、これで、子猫に傷がないこともばれないし、今後も心配ない――
先輩は声を潜めた。
「いちおう確認しておくけど、だいじょうぶなんだよね?」
「え?」
「じつはあのとき、あたし帰ってなかったの。隠れてあそこにいたのよ。それで……
あなたとつぜん飛び出てきて、すごい勢いで走って行っちゃったから、ちょっと心配してたのよ。あの地下室にコネコ残っていなかったから、もしかしたらなにかあって、病院にでも行ったのかって――」
「ああ、いえ、猫ならぜんぜん元気です。病院に急いでたってわけじゃなくって、――ぼくが怖かっただけですから」
答えつつ、少し驚く。
まったく気がつかなかったが、先輩、あのときあそこにいたのか?
もしかして、残してきたぼく、あるいは(傷つけられたはずの)子猫を心配して――?
『儀式』とか、突拍子もないことをいっていたけれど、じつはけっこうまともな人なのか?
もしかして、本当に子猫を死なせるつもりはなくて、ほんのちょっと血を採るつもりだったのをぼくが過剰反応しただけで、そもそもぼくが『秘密基地』をおとずれたことで変な勘違いをさせなければ、『儀式』自体を中止していたっぽいし――
全身から、力が抜けていく。
よかった、話せば、というか話さなくてもわかってくれる人だった。
昨日ぼくがしたことも怒っていないようだし、暴力も謝ってくれたし、なによりも、猫を譲ってくれたということはもう『猫』は必要ないということで――
「じゃあ、目良くんも怒っていないみたいだし、猫も飼えて、これでほかに問題はないよね?」
「ええ、そうですね。ないと思います」
本当に、よかった。
安堵のため息をついたぼくに。
先輩が、ググッと体を近づけた。
鼻孔がかすかに感じ取る、強く記憶に刻まれた、あのときの、他人のにおい――
「――じゃあ、次はいつ、できる?」
まるでそれがスィッチであったかのように、唐突に、『暗室』での出来事が脳裏に甦った。
お互いに相手しか見えない暗闇のなか。
なめらかに揺蕩う、白い柔肌。
半身に描かれた、虎の模様。
宙を舞い揺れ動く尻尾。そして。
暗闇のなか、爛々と光る、二つの瞳――
――違う、あれはすべて、妄想だ。
実際に見たわけではなくて、脳内に思い浮かべていただけで、もちろんしっぽは先輩の背中に描いたものだったし、猫耳なんてそもそもなかった。
先輩は、確かに『猫人』になんかならなかった。
それでも、あのとき、ぼくたちは。
同じなにかを、共有していた――そうではないか?
(「――じゃあ、次はいつ、できる?」)
――先輩は、微笑んで、ぼくを見ている。
どことなく既視感のある笑顔に、ぶるぶると血がざわめくような心地がする。
――ああ、そうだ、あの顔は――
猫の血を使う、とぼくに告げたときと同じ笑顔を浮かべて、先輩は、口を開く。
「……どうしたの。そんな顔をしないでよ。あたしがあきらめるとでも思っていたの?
むしろ、がぜんやる気になったわ。
……正直にいえばね、うまくいけばいいな、程度だったのよ。あのときまでは。失敗して当然、ちょっとでもなにか手ごたえがあれば、得るものがあれば、それでラッキー、ぐらいに。
……ねぇ、でも、もしも、もしもあのときあたしが、急に恥ずかしくなったりしなかったら――逃げなかったら――
いったいどうなっていたのかな?」
そうだ、もしもあのとき。
子猫が鳴かなかったら――
どくん、と心臓がひときわ高く脈を打ち、そして鼓動がはやくなるのを感じる。
そうだ、あのとき、子猫が――ぼくが助けようとしていた猫が、『儀式』を止めてくれたんだ。
あのまま『儀式』を続けていたら、ぼくたちは、どうなってしまっていたのか――
「……もちろん、どうもなっていなかったですよ」
頭を振って、ちょっと涙ぐんでしまったのを隠したく、目を伏せてぼくは応える。
あれは、あんなのは、ただの妄想だったのだから。
しっぽも、猫耳も、光る眼も――すべてはぼくの、幻覚でさえない、頭のなかだけの産物だった。
そもそもあんな『儀式』なんて、最初から、成功するはずなかったのだ。
それが世間の常識だ。
――この先輩は本当に、そんなものを信じているのか?
確かにあのとき、お互いに、普通ではないナニカを感じていたかもしれない。
でもそれは、雰囲気がもたらした、酩酊のような『幻想』で。
『猫人』なんて、現れなかった――
もごもごと、消え入るような声になりながら、それでもぼくは、はっきり告げる。
「……ぼくには、手伝えません」
「あら。どうして?」
(――だってもう、あれはぼくの子猫だから)
それは、と説明を開始する――昨晩ネットをあさりつつ、必死に考えた言い訳を。
そうだ――あらためて自覚する。
ぼくは結局、先輩があきらめるなんて最初から思っていなかったのだろう。
だから断る理由を探しておいたのだろう。猫を返したくなかったのだろう。
なぜならぼくたちは、たとえ妄想だろうとも、同じなにかを感じていたと思うから――
「……だって、先輩。どうせ失敗するからです。一度失敗した『儀式』は、もう二度と効果はないんです。だって『儀式』は、奇跡を起こすものですから。再現性があったら、それはもう奇跡じゃありません。……何度でもやり直せるなら、超常の力が手に入るんです、みんながやりたがって、いまごろ世界中に『猫人』のヒトがあふれてますよ。そうでしょう?」
「そうなの?」
「そうですよ。……だからぼくは、失敗するのがわかっているのに、手伝えません」
(それにあの猫はもうぼくの猫だし、だからもう、手伝う理由はないんだし)
しばらくぼくの顔をながめていたが、ぼくも視線をそらさず見つめ返し――単にそらせないだけだが――やがて、そうかもね、といって先輩は、顔をそむけた。
「『儀式』って繰り返すから儀式なんだって思うけど、――でもまぁ、なんとなく納得できるかな。あたしたちがやったのは、『奇跡のための儀式』だものね。一回限りの『儀式』――うん。あなたがそういうのなら、きっとそういうものなんでしょう。この手の――闇の世界のことは、きっとあなたのほうがセンパイでしょうし? 闇のセンパイの言葉には従わなくちゃね?」
センパイ、のイントネーションにはどこか揶揄する感じがあったが、それで納得してくれるというならオンの字だ、ぼくはうなずく。
「そうですね。……ぼくには、霊能力とかはないですけれど」
「そうね。失敗するってわかっていることを、したってしょうがないわね」
あきらめるようなことをいいながらも微笑んで、先輩は、続けた。
「……だったら、しかたない、『猫人』になるのは、あきらめるわ。
――『儀式』はほかにもいっぱいあるしね?」
「……え?」
「いったでしょ? あたしの目的は『超克』することだって。手ごろだったから『猫人の儀式』を選んだだけで、『猫人』にこだわっていたわけじゃないの。まだまだいろいろな『儀式』、集めているわよ? いったでしょ? あたしは本気だ、って――」
先輩の言葉を聞きながら、昨日渡された、どこか本格的な資料を思い出す。
いったいどこで、あんなものを、――というか、あんなものが、まだある――?
いやいやいや、と頭のなかで首を振りつつ、愕然とする。
この人は、どこまで本気でいっているんだ?
本当に、『儀式』なんてものを信じているのか?
それともほかに目的があるのか?
子猫を傷つけかけたあの『儀式』のようなことを、また繰り返すと、いうのか――?
「『猫人』になる『儀式』は無理でも、ほかの試していない『儀式』なら、うまくいくかもしれない、昨日みたいに――つまりそういうことでしょう?」
「――え、いや、それは――」
「うまくいくかもしれないのなら、もちろん、手伝ってくれるわよね? そもそもあなたが手伝ってくれたから、あそこまでやれたんだから。昨日、確かにいってたわよね? あたしがどこまで本気か、見てみたいって――だから手伝いたいって――」
「――あたしにあんなことしといて、まさかいやとは、いわないわよね?」
ふと甦る。
あのとき、彼女から子猫を受け取った感触。
小さく、熱く、まるで内臓のつまった袋を手渡されたかのような頼りない柔らかさ。
わかってる? と彼女は問うた。
子猫を受け取ることの、意味を。
そしてぼくは、――うなずいたのだ。
わかってます、と。
「…………わかり、ました。手伝います」
「よし。――じゃあ、これからよろしくね? センパイ?」
(――そう、あの猫はもうぼくの猫なんだ)
(わかっていて、それでもぼくは、受け取った――)
はい、とあらためて先輩の前でうなずきながら、ぼくは自分を納得させる。
――そうだ。
無視できないのなら、結局は、かかわるしかない。
助ける、というのは、最後まで責任を取るということで。
そしてぼくは、子猫の代わりに、自分を差し出したのだから。



