第ニ話『百眼』――ジャガン――

1-1.

「――にーらめっこ、しーましょ?」



 リズミカルに拍子をつけて発されたその言葉、本当に久しぶりに聞いたその『誘い掛け』に不意打たれ、拒否の返事さえままならず反射的に顔をそむけたぼくだったが、おそらくそうした反応は予想されていたのだろう、あごの下に指を当てられ、頬にも添えられ、気がつくと強制的に顔を向き合わされていた。

 あきらかにパーソナルスペースを侵犯した近さにある、メガネをはずした先輩の『目』に、



「――ほら、あっ、ぷっ、ぷ?」



 一瞬、愉悦にも似た感情がよぎった気がしたが、正直、ぼくにはわからない。

 先輩が笑ったかどうか、はおろか、どんな表情をうかべていたかさえ。

 これほど至近距離で見つめあっていながら、その眼の色すらも、ぼくには確認できない――

 できるのは、解放されたそのあとで、思い返してみることだけ。

 ……先輩は、おもしろがって、笑っていただろうか? 

 瞳孔は、広がっていただろうか縮まっていただろうか。

 光を映すその箇所に、ぼくの顔が写っていたのか――ぼくははたしてそのなかに、ぼくの顔を見つけていたのか――しかしそんなことを考えられるのはすべてが終わったあとだけで、見つめあったその瞬間は、――たぶん、ぼくは、なにも考えられていなかった、と、思う。

 自分が見ているものさえ見えぬまま、ただただ目を見開いて、相手の瞳をのぞきこみ。

 ――次の瞬間、視界のなかに、確かなまたたきを認識し――



「……ん。あたしの負け、ね」



 先輩の声を聞き流しつつ、ぼくは、一気に脱力した身体をそのままに、テーブルに、突っ伏した。

 差しこまれたままだった先輩の指が、こそこそとぼくのあごをくすぐるが、反応できず、突っ伏したまま、先輩の手のひらをかまわず巻きこみ自分の両腕をまくらに変える。

 顔を上げないのは、緊張からの解放に力が抜けたのもあるが、泣いているのを見られたくなかったから――それまでまばたきしていなかった反動か、乾いた眼を潤すためにあふれる涙がとめどない。

 先輩の声が聞こえた。


「……そこまで疲れた? オーバーねぇ」


 ぜんぜんオーバーじゃないですよ、少なくともぼくにとっては――心のなかで返事しつつ、深呼吸、自分を落ち着かせようとする。

 ――そりゃ、先輩にとっては単なるがまんくらべ、でしょうけど、ぼくにとっては――


「でもいまの感じ――本当なんだ? 目良めらくん、にらめっこで負けたことないって?」

「……はい。……いちおうは、このルールでなら……」


 言葉を選びつつ、無難に答える。

 確かに、それはうそではない。

 ただし、正確でもない。

 ご存じにらめっこという遊びは、お互い向き合って変顔をつくり、先に相手を笑わせたほうが勝ち、というシンプルなゲームだが――よく考えれば勝ったほうもある意味負けている気がするが――このルールのままだと、実際にはなかなか勝負がつかないためか、いろいろなローカルルールが存在する。

 ぼくが知っている限りだと、にらみ合いつつお互いに相手の手のひらをくすぐるとか、代わりばんこに奇声を上げる(ただし歯を見せてはいけない)とか、にらめっこちゅう息を止め続けるとか――

 お互い目を見開いて、先にまばたきしたほうが負け、とか。

 もはや笑ったほうが負け、という基本ルールさえ無視してしまっているが(とはいえ『にらめっこ』という名称的にはこちらのほうが正しい気もする)、ぼくたちの間でもっともよく用いられたのがこの『まばたきしたら負け』というルールであり――いちおう補足しておくが、にらめっこが流行っていたというわけでは決してない――、このルールに則ってのみ、確かにぼくは負けなしだった。

 というか、負けられなかった。

 こちらをじっと見つめてくる、そんな瞳と目を合わせてしまうと(そしてそれを意識してしまうと)、とたん、ぼくは緊張して固まってしまう。

『ヘビににらまれたカエル』という言い回しのように、相手がまばたきするか、目をそらすまで、なにもできなくなってしまうのだ。文字通り指一本動かせず、思考さえ停止して、ただただ自分が許されるのを待つこと以外には。

 かつて一度、件のガキ大将ともこの『にらめっこ』を行ったことがあった。

 確か肝試し事件以降のことで、ぼくたちの関係が悪化しはじめたころだった。

 そのときにはすでにローカルルールにおいてのぼくのにらめっこ無双は知れ渡っており、だからよけいに、彼はぼくを負かしたかったのだろう。先にまばたきしたほうが負け、というルールを強調したのち、「あっぷっぷう」の掛け声とともに――

 ガキ大将は、ぼくに殴りかかった。

 じつは殴るつもりなどなく、単におどかしてまばたきさせたかっただけかもしれない。

 つまり暴力に訴えるふりをした、むしろ小学生らしい知恵の発露だったのかもしれないが――

 本当のところはわからない。

 結果として、彼は拳を止めず、そしてぼくも、まばたきできなかった。

 殴りかかってくる相手の姿は視界に入っていたはずなのに、逃げようという考えすら脳裏に浮かばなかった。

 相手の瞳が一瞬まぶたに閉ざされた、次の瞬間には、鼻に痛打をくらい、ひざをついていた。

 さいわいにも鼻骨は折れていなかったが(その点を鑑みても、やっぱりガキ大将も本当には殴るつもりはなくて、拳をぎりぎりで止められなかっただけだと思いたい)鼻孔の出血は避けられず、職員室に呼び出され、叱責された――ぼくの被害もおおきかったが、ガキ大将も仲間内でかなり評判を落として、いま考えると、これが決定的な亀裂となってぼくとガキ大将の関係を決定づけた(すなわち、いじめっこといじめられっこ)ように思えるが――

 とにかく、殴られるのがわかっていても動けないくらいに固まってしまい、相手がまばたきするか、視線をそらすまで、まったくの無力になってしまう。

 ……いちおう念押しさせてもらうが、もちろん、これはまったく『目良シンシは普通じゃない』という証明にはならない。

 単に、ぼくが人一倍怖がりであるため人一倍な反応をしてしまう、というだけのことでしかない。

 ――聡いかたなら察してもらえると思うが、正直、ぼくは他人の目が怖い。

 相手の目を見て話そうとするとどうしても緊張してしまうし、それがさらににらめっこのような意識的な見つめあいになってしまうと、緊張が極まり動けなくなってしまう。

 意識さえしなければだいじょうぶなのだが、同じように人の目が苦手なかたならきっとわかっていただけるだろう、ぼくらのような人種は、人の目を見ていると――見られていると、とくにやましいことがなくてもまばたきを多くしてしまったり逆にしにくくなったり、視線をそらすにそらせずむしろ凝視してしまったり、そわそわ挙動不審になってしまうのだ。

 意識すればするほど。

 まばたきしないのではなくて、しにくく――できなくなってしまうのだ。

 ――というのがぼくの『にらめっこにおいて負けなし』の真相で、遠藤にも小林さんにも、ぼくに勝負を仕掛けてくる相手には誤解なきようその点を前置きしているのだが――


「いや、でもすごいっていうか、にらめっこ中のあなたの目、けっこう怖かったわよ? なんていうか、虚ろすぎるというか、ぜんぜん勝てる気しないというか、この世のものとも思えない――ほら、この前の『資料』で見せた、『邪眼』みたいな――、やっぱりあなた、なにかんじゃない?」

「…………そんなこと、ない、と思います、けど」


 さすがにいいすぎではなかろうか――虚ろすぎるはともかく、『邪眼』――見つめるだけで呪いをかける目の伝承――なんて――

 正直、やっぱり先輩の本意はわからない。

 もちろん、先輩に対してもぼくははっきり、『邪眼』はもちろん霊能力などかけらも持たないことを伝えてある。

 持っていないのみならず、その手の超常現象を信じてさえいないということも。

 それでもなお、ぼくには普通じゃないなにかがある、と先輩は考えているようで――まぁこの手の誤解は先輩に限らずぼくの周囲に満ちあふれているのだが――その態度を隠そうとせず、そしてぼくは、先輩のその『信じているアピール』自体を信じ切れていなかった。

 本気で、先輩は『邪眼』とか『儀式』なんてものを信じているのか。

 身体に猫の血を塗ったくらいで超越存在になれると、中学生にもなっていまだに信じられるものなのか? 

 でも信じていないとしたら、なんでこんな『儀式』なんか――? 

 なにがおもしろいのか、先輩はかすかな笑みを浮かべつつ、ぼくのあごのしたをこそこそくすぐっている。

 子ども扱い、というかむしろペットの猫扱いだが――そういえばぼくは猫顔というか猫っぽい、と友人に評されたことがあるが、性根的には犬のほうが近いと思うし、あれはやっぱり『目』がそう、という意味なのか――さりとて反発する気も起きず、机に突っ伏しされるまま――

 正直いえば、心地よい。

 なにが恐ろしいかって、このおうおう恐怖を運んでくる先輩との関係がもたらすものが、不安と緊張だけではないことで――


「お兄ちゃん、飲み物持ってきたよ――開けるよ――?」