第ニ話『百眼』――ジャガン――

1-2.

 こんこん、というノックの音とともに聞こえてきた妹の声に、ぼくははじかれたように顔を上げた。

 返事を待たずにドアが開いて、一つ年下の妹――名は緑衣子みいね――が、ペットボトルとコップを二つ、そしてお菓子入りの小皿を載せたお盆を持って入ってくる。

 帰宅したばかりなのか、学校のセーラー姿のままの、どこかかしこまった――いつもの見慣れた姿と違う――よそいきの面持ちで。

 なんとなくばつが悪くてあたふたしているぼくとは対象的な優美さで――いつの間にか指は離れ、身体も距離を開けていた――、先輩は微笑んだ。


「いつもいつもありがとうね。みいねちゃん。でも本当に、そんなに気をつかわなくていいのよ? 無理いってお邪魔させてもらっているのはこちらなんだから」


 そういいつつ、先輩はいつの間にか引き寄せていた子猫を撫でている。

 子猫もおとなしく、むしろ嬉しそうに、自分からひたいをこすりつけていて、そののどかな光景は、あたかも一枚の絵のようにどこか完成していて――

 なぜだろう、みょうにうすら寒い。


「いえいえいえ。生徒会長サマが家にいるって思うと、なにもしないほうが落ち着かないんです。だから、お構いなく」

「ふふ、お構いなくって」

「へへ、逆ですね」


 お盆をテーブルに載せると、そそくさと離れ、後ろ歩きにドアに近づきつつ、照れたようなかわいらしい笑顔(正直、ぼくにとっては違和感バリバリ)を見せる妹。

 対する先輩も、寸前まで至近でぼくのあごの下に指を入れていたとは思えない、きちっと座布団に正座ししかもメガネまでいつのまにか装着している隙のない姿(ちなみにこちらも、学校から直行したので妹と同じ制服姿。いかにも優等生らしい。さらにぼくも着替えるタイミングがなく学帽と上着を脱いだだけの制服姿のままなので、ある意味ここにいる全員が『礼服』姿、……だからなんだ、というわけでもないが、なんというか、全員が『飾っている』というか――)。

 子猫はひざに、顔にはとてもきれいな笑顔をのせて。

 笑いあう、女子ふたり。

 先輩と妹、両方の、素――といっていいのかどうか、とにかくいつもの見慣れた姿――を知っているぼくとしては、正直、違和感を禁じえない。

 どうして女性というものは、瞬時に、これほどまでに化けられるのだろう。

 それとも女性に限らず、だれもがこうなのか? 

 意識していないだけで、ぼくも? それともぼく以外の全員が? 


「……ていうかお兄、まぁいつものことだけど、いっつもキョドウフシンだよね。美人相手に舞い上がるのはわかるけど、ソソウしちゃダメだよ? 相手は生徒会長サマなんだからね?」

「う、うん、も、も、もちろんだって」

「はは、やっぱり、兄ちゃんキョドウフシン」


 ころころと笑い声を上げると、つかの間、テーブルの上に視線を走らせ――小さなテーブルの上には、ぼくと、そして先輩の字で埋められたノートが広がっている――そのまま軽く先輩に礼をして、


は部屋にいるから、用があったら呼んでね? お兄ちゃん。……それじゃあ、ごゆっくりー」


 妹は部屋から出て行った。

 それを見送って――

 気がつくと、ぼくは大きく息を吐いていた。

 なんとなく、視線が妹の見ていたテーブルに行く。

 復習用のノートが広げられてはいるが、実際に勉強していたわけではなくて、ろくに握られてもいないシャープペンシルが所在無げに転がっている。

 毎度のこと。

 先輩は、あくまで子猫に癒されにきていて、というのも先輩の部屋ではペットを飼えないからで、代わりにぼくが飼うことになって、――日々に疲れた先輩は猫に会いにくる。

 ただ会いにくるだけでは申し訳ないから、ついでにぼくに勉強を教えてくれる――以上が、先輩が考案したぼくの部屋を訪れるための『表向きの理由』で、もちろん、真実を妹や親が知ることはない。

 実際には、教わっているのは勉強ではなく、話しているのは勉強とは正反対の常識に逸脱した事柄で、テーブルの上は単なるカモフラージュで、だから罪の意識があるのだろうか、妹に見られたことが妙に気になる――

 先輩の声が聞こえた。


「妹さん、かわいいわよね。仲もよさそうなのに――」


 一拍おいて、尋ねられる。


「――やっぱり、妹でも、怖い?」


 一瞬考え、ぼくはあわてて首を振った。


「え? いえいえいえ! そりゃ、ときどきは怖がらせられますけれど、でもそれはぼくの性分みたいなものですし、妹だからってわけじゃなくってですね、いえ、妹特有の怖さ、だってありますけれど、――とにかく、怖いっていうよりは、へんに気になるというか、どう扱えばいいのかわからないって感じです」

「ふうん?」

「なんというか、ちょっとまえまでのランドセル背負っていたあいつと、いまの、ぼくと同じ中学の制服を着たあいつが重ならないといいますか――でもそういうのって、ぼく特有ってわけじゃなくって、だれにでもあることでしょう? ……ですよね?」

「……そうね」


 先輩の唇に浮かぶ薄い笑いに暖かげなものはなく、その視線は、ひざの上の猫へと注がれている。

 妹がいう『生徒会長サマ』というニュアンスにうそはなく、だれもが認める黒髪の美貌はどこか酷薄なものを感じさせて、先ほど妹と親しげに笑いあっていた姿と重ならない。

 まだしも、目を離した瞬間に別人とすり替わった、といわれたほうが納得する。

 安心できる。

 あらためて、思う。

 自分は、この人のことをほとんど知らない。

 知らない赤の他人を、こうして、自分の部屋に入れている。

 扉の向こうに家族がいるとはいえ、ふたりっきりになり、ときには、適切な距離パーソナルスペースを超えるほどに近づかれて――

 ひざの上で、白い指と無邪気に戯れている子猫は、気づいていないのだろうか。

 いま、甘噛みしているその指に、かつて害されかけたことに。

 子猫から血を奪おうとした指で、子猫をいとおしげに撫でている、そのおだやかな表情はいつわりのものとも思えず、思わずじっと見つめてしまう。

 子猫を傷つけようとした先輩、優しく愛撫している先輩、どちらが彼女の『本当』なのか。

 あの白い指は、――そうだ、さっきまで、ぼくをも撫でていた指で、――だったらぼくこそ、気づいているのか? 

 先輩が、ぼくにとっていったいどういう存在なのか――


「――やっぱり、テスト期間中にしよっか」

「え?」

「テスト明けよりテスト中のほうが、アリバイつくりやすいかなって。どう?」

「ええと? その、いったい」

「もちろん、あなたの都合がよければだけど? やっぱり、テスト期間中はテストに集中したい? 勉強のほうはだいじょうぶみたいだけど、あなたの場合、メンタル的な意味で」


 ……ようやく。

 なんの話題か理解して。

 心臓が、早鐘を打ちはじめる。

 そうか、ついに、次がくるのか。

 覚悟はしていた、つもりだけど――


「……ぼくは、どちらでも、だいじょうぶです」


 平静を装ったつもりだったが、声がうわずるのは避けられなかった。

 それを気にしたそぶりも見せず(気がつかなかったはずがないが)、先輩は、うなずく。


「じゃあ、予定はテスト期間中の午前で終わる日で合わせるってことで。お互いに、しっかり準備しておきましょ? テストに集中させてあげられないのは申し訳ないけれど、学力見る限り平気そうだし、やっぱり、ばれないのがいちばんだから」


『ばれないのがいちばん』――聞き逃せない言葉に、たずねる。


「あの? もしかして、なにか、だれかに、ばれそうな……感じでも?」

「ううん? いまのところそんな感じはないわよ? でも、用心に越したことはないからね。他人の目ってどこにあるかわからないし、……意外なところでチェックされているものだし。

 それで、お待ちかね、次にやる『儀式』のことだけど――」



「邪眼つながりで、『百眼』、はどうかな?」