第ニ話『百眼』――ジャガン――

1-3.

 正直、驚きはなかった。

 それどころか、妙に納得していた。ああアレが選ばれたかと――事前に渡されていた『資料』はどれもすぐにでも行えそうなものばかりだったが――そういうのを選んで渡していたのだろうが――でもそのなかでも、とくに、前回を想起させて――

 やっぱりか、と、うなずく。


「『百眼』、ですか」

「ええ。この前、猫人の模様を背中に描いてもらったみたいに、今回は――

 『眼』を計百個、あたしの身体中に描いてもらうの」


 身体中――背中だけではなく――本当に、身体中――

 ゴクリ、と唾をのむ音が、やけに大きく響いたのは、


「――あたしが『超克』するために」


 先輩にも聞こえてしまっただろうか。



 いまの時点で決められる予定を打ち合わせたのち――といってもほぼ先輩が決定し、ぼくははいとうなずいていただけだったが――先輩は帰っていった。

 いつものように玄関の外で見送って、ため息をつくと、踵を返し。

 ――息を呑んだ。

 すぐ後ろで妹が、わずかに玄関を開いてこちらを見つめていたのだ。

 まったく感情を感じさせない、陰に浮かんだ白い顔――まるでホラードラマの一場面のような光景に、一瞬、頭のなかが真っ白になる――


「……な、なにやってんの? みいね?」

「べつに? なんでもありませんけど?」


 否定の言葉とは裏腹に、じっとこちらを見つめてくる二つの瞳に気づかないふりをして(妹も『にらめっこ』の真実を知っている)、そっと、注意深く、妹の隣をすり抜ける。

 心臓が早鐘を打っている音が、聞こえていなければいいなと願いつつ。

 ようやく妹を背後にしたところで、声をかけられた。


「兄さんって、頭だけはいいですよね」


 振り返らずに、返事する。


「……だけって」

「なのに、こんなに頻繁に、いったいなにを教えてもらっているんですか?」

「なにって、その、………………いろいろだよ。知識あるのと知恵があるのは違うし、ほら、――だ、だいたい、ぼくがなにかを教えてもらっているっていうのは、ついででしょ? 先輩は、メラミに会うためにきていて、それを条件に、メラミを譲ってもらったんだから」


 メラミ、というのは子猫(メス)につけられた名前で、命名者は妹(目良家のミィ、の謂いらしい)。オスだったら『目良ゾーマ』とつけるつもりだったようだが――ゲームの呪文がもとのようで、じつをいえばメスでもゾーマにしようか悩んでいたらしいが――女の子にゾーマの語感はあんまりなので、メラミに決まってよかったと思う。

 ……ちなみに、妹はみいねという名をみい、と省略されることをきらっていて、――だからあえて子猫にみい、という名前をつけたのでは――つまり自分と区別をさせるため――と想像したりもするのだが――もちろん怖くて確かめられないが――

 先輩の訪問を正当化するぼくの言葉に、みいねはいちおう、うなずいた。


「……そうですね」

「でしょ? そもそも、先輩の目的は子猫で、勉強は理由づけ――親切で申し出てくれているんだから、教わることがないなんていうのは、べつに問題じゃないんだし、それに、あのヒト先輩なんだから、べつに教わることがないわけでもないし――」



「――だったら、べつに取りつくろう必要だってありませんよね?」



 虚を突かれ一瞬思考が止まり、ぼくはあわてて、言葉を続けた。


「べ、べ、べつに、取りつくろってなんか――」

「まぁ、べつにいいんですけれど? 大好きな兄に隠し事をされるのは、つらいなぁっていうだけで?」


 いま、背後でしおらしい言葉を口にしている妹は、――どんな顔をしているのだろう。

 だいたい取りつくろうってなに? べつになにも、取りつくろってはいないはずだが――いや、確かに勉強をしているふりは――テーブルにカモフラージュとかしているけれど、そのことなのか? というか気づいていたのか――いやまさか? 

 そもそも、先輩がしばしば家に、ぼくの部屋にくるようになって、きちんと家族にもあいさつをしていい印象を与えていて、両親ともみいねとも、いい関係を築けていると思っていたのだが――

 みいねはいま、どんな目をしているのだろう。

 いったいなにをいいたいのだろう、本当になにか気づいているのか、それとも、これもまたぼくが考えすぎているだけか――

 ふと、疑問がわき、たずねる。


「……みいね、もしかして、先輩のこと、嫌い?」

「どうしてそう思うんです?」

「いや、その、ちょっと聞いてみただけだけど、――そ、そんなわけ、ないよね?」


 ちょうどそのとき、キッチンから、夕食の支度ができたことを告げる母の声が響いた。

 はーい、と朗らかな声を上げ、寸前の会話などなかったかのように、みいねがぼくを追い抜いていく。

 かと思いきや、二、三歩先を行ったところで振り返り、微笑んだ。


「――ほら、行きましょう? 


 親しげな笑顔とは裏腹な、隔意を感じさせる言葉遣い――みいねがぼくとふたりきりのときだけ敬語を使うようになったのは、けっこう前――四年生の終わりごろで、これまた間接的にだが、かのガキ大将が関係している。

 もうすぐ五年生になるというのに、いまだに家族と一緒にお風呂に入っているのは情けない、じつに恥ずかしいやつだ、と彼が声高にのたまわっているのを聞いた(というか対面にこそいなかったがあきらかにその言葉はぼくに向けられたものだった)ぼくは、あてこすりとはいえそこにいちまつの真理を感じ、その夜、みいねにもう入浴を共にはしないことを宣言した。

 お兄ちゃんっ子だったみいねは激しく抵抗したが、一年という年齢差は大きく、ぼくを説き伏せ返すことはできず、そのことにも腹を立てたみいねは彼女独自の論理によって、それほど礼節が大事だというならこれからぼくとは敬語で話す、と宣言し、それがいまでも続いている。

 もっとも、理由はそれだけではない。

 一緒に入浴しなくなったことによって確かに一時はケンカ状態となったが、それも短い間のことで、みいねはすぐに機嫌を直してくれた(もちろんおやつの譲渡等、いくらかの代償はともなったが)。

 たぶん、ぼくらはきっと、仲が良い兄妹だと考えていい、と思う。

 自分でも、どうしてこんな情けない兄を、と思うのだが、それでもみいねはぼくを慕ってくれていて、いつもいまでも、邪険にすることなく、頼ったり、また頼らせてくれたりする。一緒の空間にいることを苦痛に感じることもすくなく、一緒の時間を過ごすこともすくなくなく、怖い映画を見たときなんかいやがらず手をつないで寝てくれて、他人から見ても、兄妹仲は良好に思えるのではないだろうか。

 それでもみいねはふたりきりのとき、ぼくに対して敬語を使い――両親は知らない――それが正直怖くてたまらなくなることもあり、ある日、意を決してたずねた。

 もしかして、まだ怒っているのかと。

 みいねは笑って、答えた。


「まさか。そんなこと、もう怒ってはいませんよ。こればっかりは、しかたのないことでしょうし、にとっても、そのほうがよかったのだと思います」

「……じゃあ、なんで、いまでもそのしゃべりかたなの? ぼくとふたりだけのとき。……みいねも知っているよね? ぼくが、その、人一倍怖がりなの――」

「……怖い、ですか? わたしのコレ?」

「うん、正直。だから、できれば――」


 いまでもはっきり覚えている。

 みいねのあの顔、笑顔、あの言葉――



「――?」



 それは違う、といいたかった。

 確かにぼくはホラー小説を読むし、ホラー漫画を見るし、映画もまずホラーを探す――けれどそれは決して怖いのが好きだというわけじゃなくって、むしろその逆で、怖すぎて無視できないだけで、というのも知らない悪魔より知っている悪魔のほうがましだからで、ホラー映画の登場人物がみずから死亡フラグを踏みに行く、というか行かざるを得ないようなもので、それはもはや火にひきつけられる羽虫のような遺伝子レベルの宿命的なもので、だから決して怖いのが好きなわけではなく怖がらせられたがっているわけでもなくて――


(でも本当にそうだろうか)

(ぼくはぼくをもだましているだけで、自覚がないだけで、もしかして、心の奥底では――)


 常日頃から万全に行っていたはずの理論武装はまったく役に立たず、みいねの言葉に反論はおろか返事すらできず、固まって、結局ぼくは、みいねの話しかたを正すどころかもぐもぐとお茶を濁して逃げてしまったのだが――

 この会話がある種のトラウマのようになっていて、――先輩には否定してしまったが、正直、ぼくはぼくの深い部分で妹を、怖がっている。

 またこの会話が繰り返され、この言葉に直面することを本気で恐れていて、なんだかみいねの敬語については腫れ物に触るような感じでむしろ触れないようにしていて、そんな自分の思考放棄をはっきり自覚しているわけだが――


(ぼくは、本当は、――気づいていないだけで――)


「兄さん?」

「あ、うん。いま行く」


 返事して、先行するみいねのあとに、そっと従う。

 そう、みいねの敬語は決して隔意の表れではなく、むしろ兄を喜ばせよう(怖がらせることで!)という好意の表れで、それは間違いなく誤解なのだけれども(本当にぼくの周囲には誤解が多い)その気持ち自体はありがたいもの、のはずで、でもなにかが違う気がして――


(いや、どう考えてもやっぱりぼくは、怖いのは怖くていやだ)

(それをきちっと伝えて誤解を解くべきなんだろうけれど、でもやっぱり、みいねが怖くてそれができなくて、それ自体、怖いのを恐れいやがっていることの証拠だと思ってもいいんじゃないか?)

(そう、絶対に、怖いのなんか好きじゃない――だからこそ、先輩とも、こんなことになっているんだし――)


 目の前には妹の背中。

 そしてその向こうには――とうとう予定が決まった、先輩との次の『儀式』。



 忌避すべき、しかしどうしようもない、間違いなくぼくを怖がらせる『儀式』――



 首を振り考えるのをやめて、足を進める。

 妹やぼくのことなど、いまさら悩んでもしかたない。

 いまは『儀式』が最優先――テスト期間中だというならまだ猶予がある、どうせ考えずにはいられないのだから、まずは『儀式』に集中しよう。

 この『儀式』で終わりになるよう、前回のテツを踏まぬよう、先輩のさらなる興味をひかぬように、なるべく『自然に』『失敗する』よう、万全を期して挑めるよう――

 そう、怖がりの第一人者を自認していながら、ぼくはすっかり忘れていたのだ。

 本当に恐るべきものは、予想していない角度から急襲してくると。



『百眼』にまつわる第二の爆弾は。

 数日後、放課後の学校の――

 ぼくの教室で爆発した。