第ニ話『百眼』――ジャガン――
2.
なにが契機となってしまったのかいまでもわからないし、聞いても教えてもらえないのだが(というか向こうもわかっていないらしい)――たぶん、いちばんの原因はやっぱり『ぼく自身』、なのだろう。
いまさらいっても後の祭りというやつなのだが、正しく秘密を守ることをわきまえていたのなら、そもそも、話題に出すべきではなかったのだ。
もちろん、その話題がきっかけとなったのかどうか本当のところはわからないし、そもそも『百眼』について聞くことがそんな答えを誘発するなんてだれにも想像できたはずがない。
そして、ここが肝要なのだが、ぼくはまだほんの中学二年生で、しゃべりかたやら読書傾向が年齢不相応とかいわれることはあるにしても(幼稚園のころからそういわれていたようで、自分でもそれなりに早熟な自覚はあるが)精神的にはまだ子どもで、なのにまたも非日常的な『儀式』を行うことが決まって、心が不安定だったのだ。
どうにか不安を払拭し、少しでも安心したかったのだ。
そのための方法として『会話』してだれかに吐き出す、というのが有用なのは経験則からわかっていたし、ありがたくも分不相応である優秀な友人にすがってしまっても、これはしょうがないことではないだろうか。
とにもかくにもぼくは安心を求めるために、聞いてしまった。
「『百眼』って聞いて、なにを思い浮かべる?」と。
もちろん、
「最近妖怪に凝っているんだけど――」
という前置きのうえでの問いだが、いかにも人生になんの益ももたらさなさそうな質問に、しかしよくできているぼくの友人は、おもしろげな笑みを浮かべつつも真面目に応えてくれた。
「確か、水木しげるの妖怪?」
「ええと、それは『百目』だね」
それを呼び水として、ネットで調べた知識を開陳し、放課後の教室に夕日の光を感じつつ、ぼくの机をはさんでふたり、それなりの時間を熱く語り合った。
現実には存在しない超常についてのおよそ意味のない議論だったが、それでもぼくは確かに気が楽になるのを感じ、そして、対面の友人――
「私、いま、パンツをはいていないんだ」と。
百眼、という言葉になにを想像するだろうか。
それが怪物的なものを表す名称、という前提があれば、たいていの人は、本来眼があるべき顔面のみならず身体中に無数の眼をぎょろつかせている怪物を思い浮かべるのではないだろうか。
日本においては、『百目』という名でこうした妖怪が存在する――
もっともネットで調べた限りでは、この妖怪は漫画から生まれたほぼ創作の存在らしい。
もっと由緒のありそうなものでは『百々目鬼』という妖怪もいて、これは全身ではなく両腕に無数の眼を持っているらしいのだが、これまたむかしの作家による創作妖怪であるっぽい。
つまり両者とも作者の都合で意図的にでっちあげられたものであり、もちろん、妖怪という存在自体人間の想像の産物であり、そもそもぼくは何度も明言したとおり妖怪のような現実的でない存在を信じていないのだからぜんぜんかまわないのだが、それでも正直「なんだ、創作物なのか」と拍子抜けしたのは否定できない。
こんな儀式を行うことになって自分で調べてみなかったら、むかしから語り継がれている伝説的な存在なのだといまでも信じていただろう。
ちなみに、百眼をひゃくまなこと読むと、これは目鬘ともいう、顔の上半分を隠す簡素なお面を意味するものとなる。そもそも寄席などで使われる伝統を持つものであるらしく、これまた自分で調べてみなければ知ることのなかった事実であるが、バラエティ番組などでたまに見る変顔を書いた目隠しにそんな由来があったのか、とこちらはちょっと賢くなった気分になれたけれども閑話休題。
『百眼』と呼ばれている、というくびきをはずし、『無数の眼を持つ超常的存在』という観点で調べてみると、なかなか興味深いことがわかった。
日本におけるもっとも有名な無数の目を持つ存在は、おそらく『千手観音菩薩』だろう。
知らずともその名称から手がたくさんある観音さまなのだろうと容易に想像できる存在だが、じつはこのかた、正しくは千手千眼観自在菩薩といい、手だけではなく目も、それも百どころか千も持っているのである。
身体中ではなく千ある手のひらにひとつひとつ生やしているらしいのであまり目立ってはいないが、まさしく、『無数の眼を持つ超常的存在』なのだ。
なお、実際には千、というのは『数えきれないほど』を表す数であり、無数の人を救うために無数の手を、救うべき人を見逃さぬために無数の眼を持っている、ということらしく、同じような理由からだろう、観音菩薩という存在は手やら顔やらを標準以上に備えている姿が少なくない。
その異様を以ってして、人を導くに足る存在であることをわかりやすく表しているのだろう。
もしやと思い調べてみると、西洋にもやはり似たような存在がいた。
いわゆる神の使い――『天使』である。
調べてみるまで天使というのは羽が生えて矢を持った子ども、というイメージだったのだが、どうしてどうして実際? はなかなかぶっ飛んだ姿をしていて、例えば『座天使』と呼ばれる――一個体ではなくある役割を持つ天使たちの総称らしい――存在は、一説には、なんと無数の眼と無数の翼のみで構成されているのだとか。
翼と眼で車輪をつくり、神の玉座を運んで回る役割を担うことから『座』天使と呼ばれるらしいが、正直、そんな異形が空を飛んでいるのを見て「あ、天使だ」と思えるものだろうか。そんなものに乗っかっている存在を善性極まる尊いものと感じられるのか――いまとむかしでは天使のイメージが違うということだろう。
ちなみに、前述したかわいらしいイメージを持つ天使は『智天使』というグループらしいが(厳密には、矢を持っているのは天使ではないらしい)、こちらも旧約聖書(ノアの箱舟、とかが載っている奴)においては複数の顔(それも獅子とか牛とか人外の)と複数の羽根、そしてやっぱり『無数の眼』を持つ異形として描かれている。
というか旧約聖書の天使はだいたいが異形――神学的な話は正直中学生の自分にはよく理解できなかったのだが、つまりそれだけ、神さまというのはすごい力を持っているのだということをわからせたかったのだろう。
初期のころの天使像には神の正しさとか優しさよりも力の強大さを伝えることが求められ、その結果が人外の異形であり、無数の翼であり、そして無数の眼だったのだ(ぼくの信念上、実際にそういう存在を見た、という考えかたは前提としてない)。
そう考えると、洋の東西を問わず、人を導く上位存在である天使や観音がじつは無数の眼や手を持つ異形として描かれているというのは、なかなか興味深い。
あいにくとネットで調べられた限りでは、先輩に渡された資料に出てくる『百眼』の存在とそれにまつわる『儀式』の裏は取れなかったが(前回の『猫人』も同様で、――そのため正直、『百目』や『百々目鬼』のような創作物で、先輩はだれか――ぶっちゃけこの資料を渡してくる相手――に騙されているのでは、という疑いを捨てられなかったのだが)――
なお、日本でもっとも知られている百眼を持つ存在といえば、子ども時代、おそらくだれもが一度は手に取る怪物の宝庫『ギリシャ神話』に登場する百眼の巨人アルゴスだと思うのだが(千手観音さまはおそらく、目が複数というのはあまり知られていない)、あらためて調べてみると、アルゴスは単に全身に百の眼を持つ巨人だというだけで、悪い怪物ではなく、むしろ悪い怪物を退治した英雄と呼ばれてもよさそうな存在だったらしい(まぁ、神のわがままに振り回されるのがギリシャ神話というやつだが)。
巨人アルゴスの持つもっとも顕著な特徴は、眠らないこと。
休んでいるときでも、百ある目のどれかが必ず起きていて、油断しない――見逃さない。
その用心深さ、死角のない視野の広さをわかりやすく伝えるのが『無数の眼』であり、むしろ『そういう存在』だからこそ『無数の眼』という異貌を与えられたといってもいい。
千手観音も、座天使も、――つまりはそういうことなのだ。
異形だからそういう力があるのではなく、力があるからこそ、『そうした姿』に描かれる。
『百眼』とは、超常の力を持つ存在であることのわかりやすい証明であり、そして。
救うべき存在、あるいは敵、罰すべきもの、注意すべきもの――対象に違いはあれど。
見つけるべきものを、決して見逃さないことの、象徴。
――『そういう存在』に与えられるものこそが、『無数の眼』――
ながながと語ってしまったが、つまり、以上のことをぼくは小林さんと話していて、そして、まさしくその見逃さないことの象徴――と(正直、多少もったいつけていたかもしれない)、結論付けたまさにそのとき、わが意を得たり、といわんばかりにうなずいて、小林さんは、とくにためもつくらず先ほどの答えを返し、その瞬間、ぼくの脳内から無数の眼の表すものも、『儀式』の資料のことも、『百眼』のことも、将来に対する不安もすべて吹っ飛んだ。
思考が停止し、呆けてしまったのを自覚し、ついで、自分がまったくの異世界にほうりこまれたような、現実感の喪失を味わった。
いまなんといったのか、あらためて聞き直したかったが、返ってくる答えが怖くて唇は開かず、固まって、そしてようやく、自分が彼女と眼を合わせていることを意識し、そしてまた、頭のなかが真っ白になる。
――しばらくして。
ようやく彼女が、微笑みながら視線をはずし、にらめっこ状態が解除され――おかげで呼吸ができるようになって――せきこみながら、ぼくはあわてて顔をそむけた。
涙目になっているのを自覚して、情けなさを感じつつ、それでも彼女を、見られない。
悪い悪い、と口もとを斜めにしつつ、小林さんは、あらためて、繰り返した。
「そんなに驚かせたかな? 私がパンツをはいていないこと」
やっぱり、いつもの日常は、どこかにいったままだった。



