第ニ話『百眼』――ジャガン――

3-1.

 お互いに口を開かず、しばらく沈黙が続いた。

 金縛り状態は解除されていたが、現実感の喪失はまだ続いていて、向こうが口を開いた以上、なにか言葉を返さなければ、と思いながらも考えをまとめることに精一杯だった。

 これははたして、現実の出来事なのか? 

 放課後の教室で、もしかしてぼくは眠ってしまっているのか――『儀式』の予定が決まったことで、少し寝不足だったかも――そして夢を見ているのか? 

 思い出す。

 暗い穴の底――自分にとっての安全であるはずの『暗室』で、とつぜん、闇から飛び出してきた先輩にナイフを突きつけられた情景を。

 いやあれに比べたらまだしも現実味はあるが、しかしまぎれもない、あのときと同じ感覚――

 実際にあり得ることなのか? 

 本当にこれは現実なのか? 夢ではなくて? 

 見られているのを意識して、しかし視線を上げられず、ふと、周囲をうかがう――

 放課後の教室は他に人影もなく、幸か不幸かふたりきり。

 たまに学校が終わるととくに部活にも入っていない生徒はよく教室に「駄弁って」いて、なかでもぼく、遠藤、小林さんの三人は、家が学校に近いこともあってけっこう遅くまで――ほぼ最後まで居座る。

 べつに用事があるわけでもなく、宿題をしつつとりとめのない雑談をするだけなので、趣味が幅広い(現在十八あるそうで、『十八の顔を持つ男』を自称している)遠藤なんかはさっさと帰ってしまうことも多いが、それでもたまには付き合ってくれて、そうして三人で過ごす時間は意味ないながらもぼくにとって大切な大好きな時間で、今日のこれも、そうした『いつもの放課後』だったはずで――

 ――小林さん、ナニを、はいてないって? 

 もしかして、ナニカの聞き間違いかもしれない、その可能性に希望を寄せるが、あらためて振り返っても受けたインパクトが強すぎて、彼女の発したセリフを正確には思い出せず、確認できない。

 いやでも、だからこそ、聞き違い、という可能性は否定できない。

 ならばこそ、まずするべきは、やはり現状の再確認――

 顔を上げ、視線を相手の口もとあたりに持っていきつつ(口を見る――目を見るのが苦手な人のための会話テクニックらしいが、正直これもけっこう意識して辛い――ともあれ、こういう技法が存在すること自体、ぼくみたいな人間が少なくないことを示している)、ぼくは、聞いた。


「……ごめん、いま、なんて?」

「なんだきみは。聞いてただろうにいわせたがりか。じゃあ、もう一回いうぞ――」



「私は、いま、パンツをはいて、いません?」



 とつぜん、心臓が早鐘を打ちはじめる。

 理由はわからない。

 恐怖を感じているというわけではないが――いや、感じていないわけでもないが、それは決して、彼女がパンツをはいていないからではない。

 さすがのぼくも、女子が下着をつけていないというだけで怖がったりはしないと思う――そう、恐るべきは彼女の下着の有無ではなく、放課後の教室で、『百眼』についての雑談をしていたはずがとつぜんパンツをはいていないという話になってしまったこの状況で――

 どういうこと? 

 なんでとつぜんそんな話を? 

 そう、すべからく行動には起因があるはずで、そうなるに至った動機というものが必要で、動機もなく犯行した、では話が成り立たないわけで、太陽が黄色かったから、程度のものでもいいから理由と目的さえあれば――なんとかなるだろうか? 

 ならない気がする。

 またも場を支配した沈黙に、いたたまれず、ぼくはとにかく、口を開いた。


「……あの、つまり、その、パン、パ、ショ、その、……下着を」

「いいにくい? じゃあ指定しよう、ここはパンツで」

「……つまり、……ソレを、いま、はいてないって、こと?」

「パ・ン・ツ。いや? じつは、ちゃんとはいてる」


 一気に。

 身体中から力が抜けた。

 急激に汗が噴き出てくるような感覚に、思わず深いため息をつき、そこではじめて、自分が尋常ではなく緊張していたことを自覚する。

 小林さんはあからさまににやにやしていて、ぼくの反応をおもしろがっているのが伝わるが、それでも怒りや恥ずかしさよりも安堵の気持ちのほうが強い。

 なんだ、、からかわれていただけか。

 これまでも、小林さんにはけっこうな頻度でいたずらをしかけられている。

 とはいえ、トータルでいえばぼくのほうが彼女に迷惑をかけているし助けられてもいる(そしてそのお返しはほとんどできていない)ので、文句をつける気にはならない。

 とはいえ今日のは、いままでのからかいかたとは桁違いの威力だったが――

 緊張からの弛緩でいっきにうるんだ目もとをぬぐいながら、ぼくも笑った。


「なんだよも――、そういう冗談やめて? なんかもー、ありえないくらい心臓どきどきしちゃったよ? そういうの繰り返されたら、いつかぼく、ぽっくりいくよ?」

「ごめんごめん。そこまでとは予想――してなかったといったらうそになるかな。それに、いちおう弁護しておくけれど、冗談、というわけでもない?」

「え? なにが?」


 あっけらかんと。


「確かにいまははいている。けれど、そういう趣味がある――あった、というのはうそじゃない」


 あらためて衝撃的な言葉が飛び出して、そして――

 しん、と静寂が教室を打つ。

 とつぜん、夕日を意識する。

 夏も近いこの時期はもう日没も遅くなり、最終下校時刻のころもまだまだ夜闇はおりてこない――

 とはいえ勘違いはいけない。

 まだ明るいというだけで実際にはもう夜のとば口であり、そして夕日は一気に落ちるのだ。

 暗くなるのはあっという間で、そして家で、親に怒られることになる。、と。

 暗くなるのはあっという間に。

 またも混乱をはじめた頭のなかに、小林さんの、まるで独り言のような語りが満ちていく。


「はっきりとは覚えていないんだけどね、私、たぶん、幼稚園のころから『そういうところ』があった気がする。きっかけはなにかって考えると、そのころ人前で着替えるの平気だったし、ほかの子の着替え邪魔したりされたりするの楽しかったし――ていうか脱いだり脱がせたり、ね。恥ずかしがりつつも、きゃーきゃー喜んでいた記憶があるし――目良はそういうのって、ない?」

「え、あの」

「はっきり自覚したのは小学生になってからだけどね。さすがに脱いだり脱がせたりできなくなって、しばらくそういうの忘れていたんだけど、――水泳の授業でさ、替えのパンツを間違えて濡らしちゃって、ま、いいかーってノーパンのまま授業に出て、周りの女子や男子がおもしろがったりからかったりしてくるのを平然としている自分が、なんだか妙におもしろいというか気分がいいというか、自分が特別な存在になったような気がしていたのかな、いま思うと」

「そ、そう」

「まあそういうことがあって、次からも水泳のたびにみんなにからかわれるわけさ、今日はどうなの? みたいな。ま、へんに意識させられたせいで替えのパンツを忘れることも濡らしてはけなくすることもできなくて――そのうち話題にあがらなくなって――

 でもまわりのみんなが気づかなかっただけで、そのころから、ときどき水泳のあとはノーパンで過ごしていたんだよ」

「……そ、そう」

「正直いって、どきどきしてた。みんなが今日はノーパンじゃないんだー、とからかってくるたびに、じつはまたはいてないんだ、と答えたかった。でもいわなかった。そのころから基本優等生であろうとしていたし、それに――うん、子どもながら、わかっていたんだな、『わざと』はよくない、ということを。しかたなくノーパン、というシチュエーションこそがとうといのであって、『わざと』パンツを忘れて、『わざと』知られる、というのは、なんというか、冒涜だと――だからこそ、自分から白状してはいけない、みんなに知られてはいけない、ってね」

「そ、う、なんだ」

「男子なんかにはノーパン、なんて呼ばれたりして……それで先生に怒られたのもいたし。まぁ、実際にはいやな気分どころか、むしろどきどきして、ノーパン、と呼び掛けられるたんびにそうだよー、と返す自分を想像してたけど。もちろん返さなかったけど。とにかく、『わざと』ノーパンなのは、絶対に知られるわけにはいかない――そう自分にいいきかせながらスカートをはいていたわけで、そのうち、まぁ、想像はつくと思うが――

 気がつくと、もう水泳とか関係なく、はかないで過ごすようになっていた」


 口もとにかすかな笑みを浮かべ、ぼくの学帽で遊びつつ、言葉をつむぐ小林さん。

 その端正な横顔を、ほとんど吸い寄せられるようにながめつつ、ぼくはテキトーな相槌を打つことしかできない。

 思考能力自体がどこかに行ってしまったようで、考えることを放棄してしまっている。


「もちろん、たまに、だよ? 四六時中ノーパンだったわけじゃない。本気でばれてはいけないと考えていたし。……ただ、話題にも上がらなくなり、ノーパンと呼ばれることもほとんどなくなって――そもそも変人だろうが優等生だったからな、私は――そうなると、正直、頻度が増えた。……というか、自分に『そういうところ』があるのをはっきり自覚した。してしまった。それからは、まぁ、――自分にとって、秘すべき趣味、となってしまったわけで――

 ……それも、ずっと忘れていたんだけどな」


 ぽつり、とこぼれるようにつぶやかれた言葉に、思考がようやく回転し出す。

 忘れていた、というのはつまり、過去の話、ということか? 

 いまはもう、そういうことはしていない、と? 

 じゃあ、とつぜんむかしを思い出し、ぼくをからかうためにいってみただけ、ということなのか――それならまぁ納得で、要するに僕をからかうために話しただけのことで、なにも怖がる必要はないわけで、なにも心配いらなくて――答えを探すかのようにじっと彼女の横顔を見つめるが――

 小林さんの顔が動くのを察知して、視線が合わぬよう、あわてて目をそらす。

 不自然な挙動に気づかれたか、小林さんはくすり、と笑った。