第ニ話『百眼』――ジャガン――

3-3.

「……………………えっ?」


 あまりに唐突な、予想外からの質問に、しばらく反応できなかった。

 一拍遅れで我に返り、動揺していることを自覚しながら――それが隠せないことも――必死に言葉を返す。


「なっなななななな、なんで? どうして? どどどうしてそう思うの?」


 狼狽してしまっているのは、――自分でも、思い当たってしまうから。

 ――正直に告白してしまおう。

 ぼくはいま、確かに、異性に興味が湧いている。

 きっかけはいわずもがな、『先輩』との『儀式』のせいだ。

 もちろん、純粋にあの儀式で見てしまった先輩の裸体によるもので、儀式自体がぼくにある種の嗜好をめばえさせた、ということは決してない。さすがにそこまで変人ではなく、あくまで儀式のとき見てしまった異性の生の胸部のせいで、しかしあえていいわけさせてもらうなら、ぼくももう中学二年生、はやいか遅いかはともかく、これは『普通』、というかむしろ喜んで迎えられるべき人間としての成長ではないだろうか。

 先輩の胸部を目撃したことは、ぼくの生活に大きな変化をもたらした。

 読書時、これまでなんとはなしに読んでいた部分を、具体的に理解するようになった。

 これまでとは違う基準で、読む本が増えた。

 なんとなく、背後を気にしながら本を読んだり、妹や友人に読んでいる本を紹介するとき、「あれ、これ紹介してだいじょうぶかな? こいつ中学生のくせにこんなの読んでいるのか、なんて思われないかな?」みたいなことを気にするようになった――ああ、いままでのぼくはなんと無恥だったことだろう、よく理解していなかったとはいえ、あんな本やあんな本をあんな描写があるのにあんな妹にあんなに読ませてしまうなんて――と妹の視線が怖くなったがそれはまぁいつものことだが――

 変化はほかにも多々あるが、くわしくはプライベートなことなので割愛するとして、とにかくぼく自身、自分で戸惑うほど異性への興味が湧きだしていることは否定しようのない事実で、だからこそ先輩との『儀式』について、非日常への恐怖とはべつの部分でよけいに悩んでしまっているわけだが――

 でも、どうしてそのことを? 

 驚きを隠せない――それゆえに正解だと看破されてしまっているだろう――ぼくの質問に、小林さんは、笑った。


「そりゃ、わかるよ。たとえば、視線?」

「視線?」

「あきらかに胸とか、あと腰とか見てたりするしね。今日だって、私の胸もと見てたし。たとえちらっとだけでも、女は、そういうのって見逃さないよ? 普通に見ているか、そういう目で見ているか」

「――ええ?」


 そういうのって、わかるものなの? 

 脳内がどうだからって視線自体が物理的に変わるはずもなく、ならばそれはもはや一種の超能力で、つまりこの世に存在しないもので、視線からわかる、なんていうのは思いこみではなかろうか? 

 とはいえ実際に、小林さんは、ぼくの異性に対する興味が変わったことを見事に見抜いてみせたわけで――

 いやいやいや、待って待って待って――

 あまりのショックにめまいさえ覚えつつ、しかし、確認しないわけにはいかなくて、おそるおそる、尋ねる。


「……し、視線で? 視線だけで?」

「それだけでもないけど」

「……そ、それって、小林さんが人一倍鋭いから、とか、頭がいいから、とかじゃなくって? たとえば、ほかの女子とかも?」

「――あー。きみはいままでがいままでだから、わかる人にはわかりやすいかも?」

「……え、遠藤とかにも?」

「え、遠藤? そこ気にするの? ……いやぁ、あいつは男子だし、さすがにいわなきゃ気づかないんじゃ? 知らんけど。――気づいてたらむしろ気持ち悪い?」

「それなら……」


 少なくとも、遠藤にはにやにやされながらからかわれるようなことはなさそうだが――ちなみに遠藤自身は『そういうこと』にもいろいろ深い、周囲にはおくびも出さない爽やか系むっつり野郎だが――いやそれでも。

 確かに、ときどき、小林さんやクラスメイトの女子を、気がつくと目で追ってしまっている。

 いわれるほど凝視しているつもりはないのだが、無意識というか、あらためて意識してしまうと、異性、というのはなんだか気になってしまうもので――あんなところにあんなにきれいな、あんな先輩とあんなに同じものがあんなについている、と思うとよけいに気になって――

 それが、周囲に知られてしまっている? 

 それも、ただ見ているだけではなく、異性への興味、という視点、だということまで? 

 ――ぼくは明日から、どんな顔して登校すればいいのだろう。

 登校しなければいけないだろうか。

 時刻のせいだけでなく目の前が暗くなるように感じて、ゆっくりと、両手に顔をうずめる。

 なんだか涙がにじみ出てきて、どうすればいいかわからなくて――

 ぼくに与えた衝撃の大きさに気づいたのか、小林さんがぽんぽんとぼくの肩をたたいた。


「いやいや、そこまで気にしなくていいって? いままでがいままでだから多少目立つというだけで、べつに異常なことでもないから。きみだけってわけでもないし」

「……でも、セクハラとか……不快感とか、ない? 吊し上げられたりしない?」

「少なくとも私はないかな。最初に気づいた時も、純粋にびっくりしただけで、むしろ微笑ましいとさえ。……ただ、まぁ……」

「……ただ、なに?」

「……いやまぁ、これは……いわないほうが……」

「いって。お願い、教えて、お願い!」


 顔を上げたぼくの必死の懇願に、あっさりと。

 小林さんは応えた。

 学帽で口を隠したまま。



「正直、ちょっと、興奮した」


「……こー……?」


「いままでそういうことにまったく興味なさそうだったのに……とつぜん、異性として見られて、いままでとは違う感じに目をそらしたり挙動不審になったりして、微笑ましいやら恥ずかしいやら、おかしいやら残念やら複雑やら疑問やら、そういうのひっくるめて、ひとつにまとめると――

 うん、興奮した、としかいいようがない」


「……」



 ――なんとも返しようがない返答に、絶句で答える。

 どう反応すれば正解なのか、わからない。

 少なくとも、不快にさせてない、と喜んでいいのか。

 いやでも、ここで安心するのもなにか違う。

 ではどう答えればいいのか。

 というか、なんでこんな話になったのか。

 そもそもの話の発端は――



(……興奮?)

(……ええと、それって、……話の流れ的に、つまり……?)



 ぼくの顔色を読んだのか、それとも女子特有の超感覚とやらが働いたのか。

 学生帽を机に置いて、小林さんは、笑顔を浮かべた。