第ニ話『百眼』――ジャガン――
3-4.
「……へぇ? 思い当たったかい? そのへんもやっぱり、目良もいろいろ『成長』したってことなのかな? なんか寂しいというか、もったいない気もするけれど、それはそれで――
きっと、きみが思った通りかな。
きみの視線で、思い出してしまったんだ。
――忘れたはずの、あの『興奮』を」
絶句したまま言葉を継げないでいるぼくのことなど知らぬげに、視線を教室の天井にさまよわせながら、小林さんは、続ける。
「我ながら、ひどい話だよね。あれほど恐怖と罪悪感にさいなまされて、必死に記憶の奥底に封印したはずなのに、――あれのせいで親友や、『誠実な自分』さえ失ったのに、――のどもとすぎればなんとやら? あの子が引っ越して、いろいろなことに安心して、一年たって、もうだいじょうぶだと確信できたとたん――こうだよ。
あれほど、――思い浮かべただけで息が苦しくなっていた『秘密』を、こうも軽々と話し、想像し、からかうネタにさえできる。
……これって、人間だからしょうがない?
それとも……結局のところ私が、どうしようもないやつってだけ?」
試すような問いかけに――
答えられない。
答えられるわけがない。
恐怖を、感じている。けれど。
なにが怖いのか、わからない。
そんなぼくの状態を知ってか知らずか、話は続く。
「……きみのそういう視線に気づくたび、あのころを、思い出して、でも、確かに感じていたはずの嫌悪感はなくなって――ううん、罪悪感はまだあるけれど、でもそれ以上に――興奮して。
でもね? だからって、またノーパンツをはじめたわけじゃないよ?
むしろ、もう絶対に、同じ過ちは繰り返さないって決意して――本気でそのつもりだったのに――」
なんでだろうね、と学帽のなかにため息を吐く。
「それなのに、きみは今日、百目? なんかの話をはじめた。――そう、視線の話だよ。まぁいいがかり? きっかけってだけだけど、……いったん想像しちゃうとね。おかげでこちらはビキビキ意識しまくり。きみは視線を合わさないから、こちらからは余裕できみを観察できるし、……うん、正直、きみの目には得体のしれない迫力があるんだ。きみはいつも真面目で、度が過ぎるほど真剣だからかな、そんな目が一途に私を見ているって感じると、――そんな視線を百も二百も無数にあるのを想像してたら、なんかもう、いろいろどうでもよくなって――
気づいたら、いっちゃってた。
『いま、私、パンツをはいていないんだ』、って――」
――いやまさか。
そんな強引なつながり、だれにも予想できたはずがない。
『百眼』の話がそんなキンセンに触れるなんて、それこそお釈迦さまでも気づくはずがなく、あえていうなら、ぼくが自身の不安に耐え切れず秘密にすべき『百眼』についてだれかにぼかして聞いてみよう、なんて考えなければ避けられていた事態だろうが――
そんなこと、いまさらいったって。
なにをいえばいいかわからず、ただただ彼女の横顔を見つめ――視線が合いそうになり、あわてて顔をそらす。
目線を口もと、を隠した学帽へ向けるが、その下には白い首があり、襟もとからのぞく白い肌があり(そう、告白しよう、『百目』の話の最中も、ぼくはときおり、小林さんの『身体』が気になっていて――それを誤魔化すためにいつもより雄弁だった感もある)、先の話の影響か、見てしまうのがはばかられ、結局机の上の学生帽に落ち着き、そこであらためて、いまいる場所が放課後の教室であることを思い出す。
そうだ、ここは学校で。
そして目の前にいるのは、ぼくの『大切な友だち』で。
たとえどう思われていようとも、その気持ちだけは、絶対譲れなくて、裏切れなくて――
涙が落ちそうになるのをこらえ、うつむいたまま、必死に声を絞り出す。
「……じゃあ、ぼくは、どうすれば、いいの?」
「え?」
「……ほ、ぼくは、その、引っ越していったヒトみたいに、小林さんと疎遠になんか、なりたくないよ?」
「……ええと? なんの――」
「でも、だったらぼくは、どうしたらいいの? 正直、ぼくは、……どうするべきか、正解なんて、わからない……」
しばらくの沈黙ののち。
小林さんは、ああ、とうなずいた。
「なにかと思ったら、……そういうことか。そのことなら、うん。きみはべつに、どうもしなくていいんだ。きみはそのまま、きみの思うままでいてくれていい」
「でも! それじゃ! 変わらなかったら、変わらなかった、から、小林さんは、そのひとと疎遠に……」
「いやいや、だって、きみは彼女とは違うしね」
学帽を置き、浮かべた笑顔に陰りはなくて、嘘や慰めをいっているようには思えない。
それでも、焦りも、怖いと思う気持ちもおさまらない。
本当に、なにもしなくていいのか?
ぼくになにも求めていないのか?
なにも応えなかったからこそ、かつての親友とは離れてしまったはずなのに、それともまさか、これは遠回しな絶縁宣言なのか?
いや、小林さんはそんな迂遠な人ではなくて、必要とあらばむしろ大喜びで絶縁状をつきつけてくるタイプで、いや、でも、まさか――
だとしても、簡単にあきらめるわけにはいかない。
家族や友だちというものは、なによりも大切にしなければならないものだから。
「……ああ、いや、本当に、なにかを求めているわけじゃないから、そんな気にしなくていいんだ」
ぼくの表情からなにかを読み取ったか、さとすようなおだやかな口調で、小林さんは続ける。
「うん。……あえていうなら、私の求めていたことは、きっともう達成されているしね」
「え?」
「きっと私が望んでいたのは、……だれかに、――きみに、確かに知ってもらうこと。
きみはわかりやすいから。きみは絶対、なかったことにはできない。これからは、きみは私を見るたびに、今日のことを思い出す。そして、私のスカートの下に思いを巡らせる。そしてそれを私に隠せない――それだけで、じゅうぶんなのさ」
少なくとも、いまは、ね――
そういって微笑む小林さんの表情は、教室まで入りこんできた夕闇のせいかかつて見たことないほど白く整って、まるでこの世のものとも思われない、あたかも幽霊のような――
なぜだか先輩を、思わせた。
顔に視線を感じ、観察されていると思いつつも、目は合わせられず、とにかくなにかいわなければ、と口を開きかけたところで、下校門限十五分前を知らせる放送が流れはじめ。
ぼくたちは無言で戸締りを確認したのち、教室を出た。



