第ニ話『百眼』――ジャガン――
5-1.
梅雨も明け、いよいよ夏がはじまろうとしているにも関わらず、『暗室』内はまるでそこが別世界であるかのようにひんやりとしていた。
うっそうと茂った木々のおかげか、山にあるからか、なにかそういう仕組みがほどこされているのか――むしろ冷やかといってもいい『暗室』内の空気は、そこが廃神社の地下に隠されていた、という事実もあいまって、いつも一種厳かな気分にさせられる。
入口の扉を開くと、まず、前回も嗅いだアロマのような香りに気がついた。
眼下にぽっかり口を開いた闇に向かって、小声で「先輩?」と呼び掛けると、一拍ほどのち、ぽつ、と小さな灯りがともった。
ジャージ姿の人影を確認し、そっと、梯子を降りていく――
人影に背を向ける形になったためか、さっそく恐怖心が湧き上がるのを自覚しつつ、ぼくは久しぶりとなる『暗室』へと降り立った。
「時間通りね」
「……す、すいません」
思わず謝ってしまったのは、寸前まで迷っていたから――
やはり、もっとはやくくるべきだったか?
なにか準備を手伝えたかもしれないし、そもそも目上のひとを待たせるべきではないとも考えたのだが、結局、先輩の指示通りにしか動けなかった。
いわれた言葉に反することが、怖かった。
かつての恐怖――闇から飛び出してきた先輩の姿――を頭から振り払いつつ、振り返る。
邪魔にならないようにか、髪をアップ――シニヨン、というのか、なんか見た感じ複雑そうなふたつの塊――にまとめ、メガネもはずした、ジャージ姿の先輩(ちなみにぼくは目立たないよう私服姿で、たぶん先輩も、着替えただけでここには私服できているはずだが――前回もそうだったらしいが――)。
天井の入り口は閉めてきたため、光源は先輩の足もとのランタンしかなく、まだ目が慣れていないのか、わずかな光に浮き上がった先輩の姿以外に見えるものはない。
先輩の背後が見通せず、一瞬、この場が暗室内ではなくどこまでも広がる闇の空間であるかのように錯覚し、とつぜん、実感する。
かつてのぼくの『秘密基地』――せまくも心地よい私的な空間だったものは。
もはや存在しない。
ここはもう、先輩との『儀式』の空間――
少しずつ、暗室を形づくる壁等がうっすら見えるようになってくるが、それでも、一度感じた思いは消えなかった。
ここは、もう、ぼくの『秘密基地』じゃない。
ここは『暗室』。『儀式』を行うための場所――
「……だいじょうぶ? もうはじめられる? それとも、ちょっと時間置いたほうがいい?」
よほど呆けていたのか、こちらを気づかう感のこもった先輩の声に、ぼくはあわてて、向き直った。
「……いえ、だいじょうぶですっ! ぼくはっ!」
力がこもりすぎたかうわずってしまった声に、われながらテンパっているなと思う。
テンパっているわりに。妙に冷静なのも自覚して。
準備期間があったのはそれなりに無駄ではなかったのだなと、安心する。
だいじょうぶ、ぼくは冷静に、考えられている――
先輩の抑え気味の、しかしよく通る声が、朗唱のごとく響いた。
「……じゃあ、さっそくだけど、これから『百眼の儀式』を行うわ。……『百眼』、それは、人知を超えた力のひとつの証。――世界の裏に、とある秘密の――」
――『百眼』がどういうものかは、渡された資料を何度も何度も精読している。
そして当然、ぼくが知っていることを先輩だって知っている。
ならばこれは、あらためて説明している、というよりは、一種の宣誓、先輩なりの儀式の準備なのだろう。
『百眼』、それは人知を超えた力を人に与えるもの。
『百眼』の力を先輩に与えるために、ぼくはこれから、先輩の用意した染料を用い先輩の身体に九十八の『目』を描いていく、ことになる。
儀式の『手順』自体は前回の『猫人』と同じだが、『儀式』としては根本的に違う部分がある。
前回の『儀式』は、身体に『猫人』の文様を描くことでヒトを『猫人』へと昇華させる、というものだったが、今回のそれは、正しくは、ヒトに超常の『力』を与えるためのもの。
資料によると、この世界の裏側には無数の目を持ちつつひたすら眠る不定形の怪物が存在し、そしてその怪物を信仰する『結社』があるのだとか(『百眼』は、その存在を表す呼び名でもある)。
彼らはその不定形な怪物を崇め、生贄やらなんやらを捧げてその怪物の『まどろみのゆめ』を守り――というのもこの世界はその怪物の夢によって成り立っているのだとか――怪物のための『儀式』を行ってその力を借りたりする。
つまりこれから行うのは、そういう『儀式』なのだ。
ぼくはこれから、先輩の身体――正確には胴体と上腕、上腿、即ち衣服で隠せる部分――に、九十八の目を描いていく。
もしも――もちろんそんなのあり得ないが――『儀式』が成功したら、先輩はその『目』を消さず身体に保っている限り、超常の力『百眼』を得られる――ただしそれは、あくまで身体に描いた『目』が残っている間だけであり、力を借りられるだけであり、先輩自身を無数の目を持つ怪物へと変えてしまうわけではなく、そこが、ヒトを完全に『猫人』へと変えるのが目的だった前回とは違う。
たとえうまくいったとしても(繰り返すがそんなこともちろんありえないのだが)、それは一時的なもの――
――それでいいのだろうか?
先輩は、『自分を超克したい』といっていたのではなかったか?
そのために前回、人ではない存在――『猫人』になろうとしたのではなかったか?
なのに今回は、ただ一時的に超常の能力を得られるだけ(いやそれだってすごいことだが――もちろんありえないことだが)。
それが『自己超克』になるのか。
それで満足できるのか?
正直、先輩の考えていることがわからない。
もしかして、今回はお試しというだけなのか。前回と似ている儀式を選んだだけで、本命はべつにあるのか――隠れた目的があるのか。ぼくにわからないだけで、今回のこれもしっかり先輩の意に沿っているものなのか――
いったい、先輩が本当にしたいことはなんなのか。
「……この塗料を使って、『祝詞』を唱えながらあたしの身体に『目』を描いていく。基本左右対称に、数はきっちり、九十八個。これはしっかり、数え間違えないでね? できる限り図案の通り、正確に。『祝詞』は――正確になんてぶっちゃけ無理だし、心のなかで適当に合わせれてくれればいいから。プレイヤー準備してきたし」
「は、はい! だいじょうぶですっ! わかってます!」
先輩の言葉に、勢いよくうなずきを返す。
そうだ、先輩の目的なんてどうでもいい。
いまなによりも優先すべきは、この『儀式』をきちんとやり抜くことだ。
きちんと、とどこおりなくやり遂げることで、うまく失敗することだ。



