第ニ話『百眼』――ジャガン――

5-2.

 そう、儀式の手順自体は、失敗するわけにはいかない。

 前回、『儀式』をきちんとやり通せずに失敗させてしまったせいで、もしも最後までやれていたらうまくいっていたんじゃないか――次はうまくいくんじゃないか、という期待を持たせてしまった、と思うのだ。

 そのせいで、今回またこんなことをやらされることになった。

 もちろん前回だって、たとえ失敗しなかったとしても『猫人』になんて成れたはずがない。

 確かに、前回の『儀式』はなんだか変な雰囲気、はっきりいってしまえば普通ではない感覚を味わったことは確かだが、あれはおそらく、集団パニックとか、集団ヒステリーとか、そういった類のまっとうで科学的な心理学的アプローチで説明がつくのではないだろうか。

 あのときの自分はテンパりすぎてて冷静とはいえず、先輩だって普通の精神状態だったとは思えないし、そういうのが要因となってある種の催眠術的暗示的幻覚的ナニモノかに惑わされていただけ――それが世間一般の常識的な考えかた、というものだろう。

 たとえ先輩の思惑がどうであれ。

 人が猫とか、百目なんかに、なれるはずがない。

 

 

 これが最後となるよう、『儀式』なんて意味ないことを、わかってもらうためにも――


「……うん、だいたいこんなところかな。じゃあ、そろそろ――、だいじょうぶ? いける?」

「は、はい! もちろん! だ、だ、だいじょうぶですっ!」


 なにやらいわくありげな古めかしい筆と筆壺、筆洗器らしきものを受け取り、資料を確認し直しつつ、あらためて自分に言い聞かせる。

 大事なのは、――まずぼく自身が、冷静であることだ。

 前回のぼくは、あらためて思い返しても、やっぱり普通じゃなかった。

 あれは、正直、暴走していた、と形容していい。

 そもそもの動機であったはずの子猫の存在さえ忘れ、先輩に命令し、四つん這いにさせ、あまつさえあんなことまで――普段のぼくからは考えられない我を忘れたあの暴走が、あの空間の異様な空気を生み出すのに一役買っていたことは間違いないだろう。

 もちろんあの場の普通じゃなかった雰囲気がぼくをそうさせたわけだから、卵が先でも鶏が先でも、ぼくばかりが原因とは思わないけど――

 あのとき、ぼくさえ冷静に対処できていれば、きっと、あんなふうにはならなかった。

 ただあのときは、いきなりいろいろ異常な状況が重なったわけで、だからしかたなかった、ある意味どうしようもない必然だったかもしれないが――

 今回は、違う。

 あらかじめ準備期間を与えられ、心構えを持つことができた。

 小林さんの『告白』という思いがけない爆弾に心乱されはしたが、それでも、じゅうぶん時間はあった。

 何度も何度も脳内でシミュレーションすることができた。

 ――そう。

 はては夢に見るほどまで何度も何度も繰り返しこの『儀式』を空想し、妄想し、頭のなかでシミュレートしてきたのだ。

 もはや『儀式の日』よはやくこい、と思えていたほど、余裕がある。

 心の準備ができている。

 我を忘れ暴走することなく、冷静に、落ち着いて、『儀式』を行える確信がある――


「それじゃあ、はじめようか。……あとはあなたに、まかせるね」


 答えるより先に、ピッ、という音が聞こえて、ついで呪文――『祝詞』が聞こえはじめた。

 ぼそぼそと低く平坦な、男とも女とも判別しにくい複数の、日本語はおろか英語にすら似ていない聞きなれぬ言語の囁きが、暗室の闇に満ちていく。

 録音源の悪さのせいか、単に頭が理解を拒んでいるのか、呪文というよりほとんど雑音、聞きづらくカタカナ化することさえ難しい詠唱だったが、渡された資料のおかげで、その音列がなにを意味しているかは想像できる。

 異形の存在を、その眠りを覚まさぬよう、声を潜めて讃えているのだ。

 無数の目を持つ不定形の怪物を、こっそりと――崇め、讃え、そして喚んでいるのだ。

 この場にましまし、しもべに力を与えたまえ、と。



(これをぼくの『声』として、これからぼくは、先輩の身体に『目』を描いていく――)



 耳にこびりつくような異邦の声の奔流のなか。

 ――しかしひときわはっきり聞こえる、すぐそばからの衣擦れの音。

 あわてて手の内の資料に目を落とす。

 これから描くべき九十八の、『目』の場所が指示された図案。

 前回の『猫人』のように自由にはいかない、この絵の通りに、できる限りに正確に。右と左の上腕部。右と左の上腿部。背中に、腰に、胸に、おなかに――

 そして最後の一つは――

 ……最後の一つとなるだろう場所は――

(――本当に、いいんだろうか? こんなところに――)

 だいじょうぶ、何度もイメージトレーニングして、準備してきた。

「……あ、ええと、これ、勘違いしないでほしいんだけど――」

(――先輩の、――女の人の、きっと、いちばん、隠したいところ――)

 心構えはできている。だいじょうぶ。


「……べつに、生えてないわけじゃないからね? ちゃんと」



 きっと絶対、やりとげられる――! 



「……えっ? ……あ! ――その! な、な、なななんです?」

「……だから、……その、描きやすいようにしてあるだけだから!」

「え? なにが? いや。その、すいません、なにが、その、なんですって?」

「……いや、だから……わかりなさないよ! ショリしてあるだけっていってるの!」

「しょしょしょっ? しょり? しょうり? なにが? あの、なにが? なんのことです?」

「……………………ええと、もしかして、シンシくんって、……まだ……?」

「え? まだ? まだってなにが? まだってなにがです? ええと? あの、あの?」

「……………いや、その、ごめん。忘れて。うん。忘れていいから、落ち着いて?」

「あ! はい! ええと、その、すいませんっ!」


 大きく深呼吸して――

 、一糸まとわぬ姿となった先輩を、

 胸前で腕を組んではいるが、身体を隠そうという意図をまったく感じさせないどうどうとした立ち姿に、こちらのほうが目線を泳がせずにはいられない。

 とくに下には、向けられない。

 さっき見たときは、まさにいきなりすぎて、頭が真っ白になってしまったが――

 だいじょうぶだ。すぐに自分を取り戻せた。

 いまは落ち着いて、

 とても緊張しているのは確かだが、我を忘れるほどじゃない、こうしてすぐに落ち着ける。

 シミュレートした通りに。冷静に、向き合えている。

 だいじょうぶ、きっと、最後までやり遂げられる。

 最後、つまり、最後まで――

(……最後のひとつとなる場所は――)



「……それでは、『百眼の儀式』をはじめます。……先輩」



 先輩がうなずき。

 マット代わりにしき重ねられたバスタオル群のうえに、横たわるのを確認して。

 勝手に、言葉が、飛び出した。



「――ぼくらが『超克』するために――」