第ニ話『百眼』――ジャガン――

6-2.

 いやもちろんそんな気がしただけで、なにも動いてなどいないのだろう。

 気のせいに決まっているし、よしんばなにか動いていたとしても、べつにたいしたことではないだろう。

 先輩が身じろぎしただけだろう。

 じゅうぶん予習をしてきた手はシミュレート通りによどみなく作業を続け、自分でもびっくりするくらい心は平静、恐怖はなく、そして視線は、動かない。右にも左にもさまよわず、ただただ自分が描いている『目』を見つめ続ける。イメトレ通りに。

 それでも――


(もう少し左に動けば、足側に近づけば、きっと――)


 バカな、と自分を恥じる。

 自分はいったいなにを考えているのか。

 いやもちろん、見たい、と思ってしまう気持ちを否定はできない。

 開き直りとそしられようが、ぼくだってもう中学二年生、小林さんの件はべつにしたって、女性に対し興味が出てきて当然だろう。

 声変わりだってまだだけど、自分が『男』の自覚があるから。

 今日はじつは、下着――ブリーフを二枚、重ね履きしている。

 ちなみにぼくは小学生のころからずっと下着は親に買い与えられているままのブリーフで、そろそろトランクスに替えたらどうだと遠藤に忠告されているのだが、正直、たとえ『男』の自覚があっても男が下着をオシャレにする意義をいまのところ見出せない。トランクスを買うくらいならほかに買いたいものがいくらでもあるし、親に次からはトランクスに替えてくれ、と頼むのもなんか色気づいたようで恥ずかしい。とはいえ他人と違うことでへんに目立つのもいやなので、修学旅行までには何枚か調達しようと思っているのだが、それはともかくわざわざブリーフを二枚重ねにしたのは前回の反省からすこしでも『抑える』力を強めるためで、正直、出かけに急に思い立っての衝動的な行動でしかもあまり効果ない気もしているのだが――つまりなにをいいたいのかというと、おもいあまってそんなことをしてしまうくらいにはぼくも男であって、――見たい、と思ってしまう気持ちはどうしようもなく否定できない。

 だからこそ。

 ――そもそもその場所は、見たいからって気軽に見ていい場所ではないはずで、『儀式』のためにしかたなく――先輩だって女のヒト、本当は恥ずかしいのをこらえて臨んでいるはずで、『儀式』を成功させるため――自分を『超克』するために、がんばっていて――

 その気持ちを、踏みにじるのは『間違ったこと』。

 ――自分の本心は否定できないけれど、だからこそせめていまだけは、心を尽くすべき。

 よけいなことは考えず、ただただ『儀式』をやり遂げよう。

 そうすれば、必然的に、最後には見ることができるわけだから――そういう考えかたもどうかとは思うけど、でもどうしようもない本心で、だからこそ、いまはあえて見ようとしてはいけない。

 必要もないのに見ようとするのは、『間違っている』。

 自己満足かもしれないが、せめてそれぐらいの気持ちで――

 ――気がつくと、臀部の右側に描くべき『目』は描き終わっていたが。

 身体は動かず、そのままの位置から手が伸びて、右の太ももに取り掛かる。

 本来のシミュレーションでは、身体ごと描きやすい位置に移動するはずだったのだが――いまよりも位置へ向かうことを思わず忌避してしまったのか。

 いやだいじょうぶ、左手でうまく体を支えれば、それほど無理な体勢にはならない。

 しかし気をつけなければならない。

 見まいとするあまりに肝心の『目』を書き損じては意味がない。

 できる限り、視界に入れないように。

 集中し、慎重に――

 思わずごくりと息をのみ、喉から響いたその音に、ぎょっとして先輩の様子をうかがいたくなるが――いまの音が聞こえただろうか、もし聞こえていたならどう思ったか――顔を動かすのもためらわれ、じっと、太ももの上、自分が描いている『目』をにらむ。

 たちまち完成する二つの『目』。

 ――あきらかにペースがはやかったことに、先輩は気づいただろうか? 


(――よけいなことを、考えるな。ひたすら『儀式』に集中しろ――!)


 ただしあくまで冷静に、落ち着いて、暴走しないよう気をつけて――

 ――右の太ももに描くべき『目』を描き終えて、筆を筆洗器に入れ、筆壺を持った左手にひっかける。

 右手にはタオルとランタンを取り、立ち上がる。

 足がかすかにジンジンしているのを感じたが、だれに対しての強がりか、まるで平気だといわんばかりに意に介さず身体は動き、先輩の両ひざをまたいで、一瞬、視線が自分の股間に落ちた。

 外見的には変化が見られないことを確認し、安心し、ついで、先輩の頭をながめる。

 やはり、先ほどの位置から変わっていない。

 後頭部をこちらに向けて、両手で抱えたまくら? に顔をうずめている。

 ランタンの光がとどいてないため黒い髪があたかも闇に溶けこんでいるかのようで、そこから伸びる首すじがくっきり際立ちなまめかしい。

 そして、白い背中の右半分には、これまで描いてきた『目』の群れ。

 丸型とリーフ型が大小それぞれに入り混じったその紋様は、なにしろ描いているのは『目』、『猫人』などよりはるかにグロテスクに感じるはずだが妙に蠱惑的な魅力があり、一瞬見惚れ、ついでそのままだと見てはいけない場所まで見てしまいそうで急いで視線をそらす。

 あわてるな、まだ半分にもとどいていない、『儀式』はまだまだこれから――

 うつぶせになった先輩の左太もも側に座り、ランタンを置き、資料とタオルを手に取って。

 絵図に目を走らせつつ、先輩の太ももを軽く拭く。

 ほとんど自動的に、何度も何度も脳内シミュレーションで繰り返してきた通りに。

 拭き終わり、筆と筆壺に持ち替えようとしたところで、とつぜん左手が、シミュレーションにない行動をした。

 たたんだタオルを、先輩の臀部のつけねあたりに置いたのだ。

 ほとんど無意識に行ったその動作に、自分で自分に感心する。

 なるほど、これはじつにいいやりかただ。

 これなら間違えて見てしまう、というアクシデントは起こりえない。

 タオルを置くときと取るときにだけ気をつければいい――なんでさっきこれを思いつかなかったのか。どうして昨日までの脳内シミュレーションでこれを考えつけなかったのか――いやそもそも、うつぶせの背後からでも見ることができる、なんてこと自体想定できなかったわけだけど――

 これなら、安心だ。

 落ち着いて、作業を続けられる。

 ――軽く乗せられただけであるにもかかわらず安心感抜群なタオルのこころづよいたたずまいになぜだか女子のスカートを想像してしまい、たたんだタオルをのせただけで腰に巻いたわけでもないのに? ぜんぜんスカートっぽくないのに? とわけのわからない自分の連想にあきれつつ身体を回し、筆の入った筆壺に手を伸ばしたところで――



 ――視界のはずれに、なにか、動くものを見た。



 ような気がした。

 先輩の頭から、背中のあたりに――

 もちろんそんな気がしただけだろう。

 単なる気のせいなのだろうが――それにしても、まったく動じず作業を続けられる自分に驚く。

 人一倍怖がりで、ちょっとしたことにもすぐにびくつき飛び上がることから前世は草食性の小動物だったのだろう(そして凄惨な死にかたをしたのだろう)と友人に思われているこのぼくが、二度もなにかが動いたような気がしたのにどうしてこんなに平然としていられるのだろう? 

 こんなに暗い地下室のなか。

 ただでさえ恐怖感を倍増させそうなのに、どうして怖がることもなく、普通に作業を続けられるのだろう? 

 これもイメージトレーニングの成果なのか? 

 それにしたって自分自身に違和感がある、この状況――

 不自然を感じながらも、作業の滞ることはない。

『目』を描き、絵図を確認し、ナンバーを消し、ときに筆に塗料をふくませる。

 われながら感心してしまう、もはや目をつぶっていてでもやれそうなくらい慣れている動き。

 ついさっきはじめたばかりで、まだ半分にも到達していないというのに、もう半世紀も続けていてあたかも熟練であるかのようなこの感じ――

 ――既視感、というやつだろうか。

 見たことがないものをかつて見たように感じたり、実際には体験したことないにもかかわらず体験したことがあるように感じる、デジャ・ヴュ、とかいう現象――

 もちろんこんなことするのははじめてなのだから、つまりそれだけ、イメージトレーニングの効果があったということなのだろう。

 連日のシミュレーションのおかげで、リアルに体験した気になれているのか。

 実際に体験したのと同じくらい慣れているから、不慮の事態にも冷静に対応できてびくつかないでいられるのか。

 だとしたらなんと効果的――これからはもっとイメトレを活用しなければ――

 ――視界にはずれたところで、またも、なにかが動いた、気がする。

 もちろんそんなはずがない。

 でもなにより変なのは、その『気のせい』に驚かない――それにすら慣れているような既視感に満ちた自分の反応。

 怖がらないでいる自分。

 ――もしかしたら、これはぼくが怖がりを克服するための――そう、ぼくが自分を『超克』するための大きなヒントになるかもしれない。

 本来の目的とは違うが、ぼくにとってこの『儀式』は有用だったということか? 

 ならばなおのこと、この『儀式』をやり遂げて、自身の自信としなければならない。

 太ももと臀部分の『目』を描き終えて、腰から背中へと空いた左半分に移るため、ぼくはランタンと道具を移動させた。

 これでもう、先輩の大切なところを間違って見てしまう危険はない。

 安心して、タオルの


(スカートの)


 はしをつまみ、引き寄せる。

 勢いが強かったのか、先輩の身体がびくり、と震えた。

 もしかしたら、さっきタオルをのせたときも、先輩を動かしてしまったのか。

 それで、なにかが動いたように感じたのか。

 なんだ。たったそれだけの話だった。

 冷静に落ち着いてさえいれば、怖がる必要などそもそもないことだった。

 それにしたって、なんだろう、この状況を知っている、という気分が消えないこの感覚。

 まるで、大切なことを忘れているような、なにかを思い出しそうな、違和感――

 ――だめだ、よけいなことは考えるな、いまは儀式に集中しろ。

 あれだけイメトレしたんだから、既視感なんてあって当然。

 怖がらなくてすんでいるなら、それでじゅうぶんじゃないか――



 ――腰、そこから背中の『目』を描き上げるのは、あっという間だった。

 とくにペースを上げたつもりはなかったのだが、ふと気がつくと終わっていたという感じで、とくに疲れも感じられず、正座していたはずの足も本当に正座していたのか疑うくらいしびれはなく(もとから正座は平気なほうだが)、はたして自分がどれだけ時間をかけていたのか、はじめてからいままでどれくらい時間が経っているのか疑問に思う。

 ――もちろん確かめたりはしないが。

『儀式』が無事に終わるまで、一息いれるつもりはない。

 最初にやったように先輩の肩をひざでつつくと、どこか鈍い反応ながら――まさか眠っていた、ということはないだろうが――顔をうずめていた左手をゆっくり脇へともどし、そのまま左肩を持ち上げひざの入る空間をつくった。

 やわらかな肌の隠されていた部分が重力の命じるまままろやかに動くのをまじまじと見てしまい、いまさらながら、激しい心拍を意識する。

 そうだ、肩が終わったら、次はいよいよ――

 自分のひざを差しこんで先輩の肩を固定しつつ、これからの作業手順を想像し、手に持つタオルに、悩む。

 ここが終わったら、次はあおむけ――

 ――どうしよう、やはり胸部にも、タオルを置いて進めるべきだろうか――? 

 でも視線をさえぎられればそれでよかった股間の隙間と違って、胸に置くのは、正直いって邪魔になる。図案通りに進めるなら胸の左右それぞれ下半分に弧を描くように小さな『目』を描く必要があるし、そもそも胸の先端部分を瞳に見立てる『目』もある。

 それに、その、だいたい、先端部分に何度も何度もタオルを置いたり取ったりするのは、むしろそちらのほうが先輩に恥ずかしい思いをさせてしまうのではないか? 

 くわしく知っているわけではないが、そこにはあまり刺激を加えてはいけないはずで――ぼくにだってそれぐらいの知識はある――

 いや、やはりここは、当初のシミュレーション通りでいこう。

 胸にどういう『目』が描かれるか、先輩だって知っている。

 ならば覚悟もできているはず。

 こちらがへんに意識するほうが失礼だろう。

 純粋に、正しく『儀式』を進めるために必要なことと割り切るべき。

 もちろん『最後の場所』だって――

 ――ついに左肩部分の『目』を描き終えて、気合を入れ直すと。

 ぼくは先輩の左肩をのせているひざを、揺り動かした。

 期せずして先輩の柔らかいところをひざでつつく形になってしまったが、もちろんそんなつもりは毛頭なく、そのままあおむけになってほしいという意思表示のつもりだったのだが――

 それをどうとらえたのか。

 先輩は左肩を起こしてあおむけになるどころか、ぼくのひざから左肩をおろし、うつぶせにもどった。

 一瞬あっけにとられ、我に返って、声を出さずにあおむけになるよう伝えるにはどうすればいいか、頭をひねったところで――

 一拍遅れでゆっくりと、先輩の左肩ではなくが、持ち上がった。

 ぼくの目前で、先輩の背中が横になったまま起き上がり――



 背中の『目』がいっせいに、ぼくを見た。



 ぎょろり、という音が聞こえたんじゃないかと錯覚するくらい、息ぴったりに見つめてくる大小さまざまな『目』を、しかしぼくは平然と、驚くことなく受け止める。

 ――ようやく、既視感の正体を思い出して。


(……ああ、そうだ、ぼくはこの状況を、知っている)


 先輩が身体を回すにつれて、『目』は未練を隠すことなくぼくをにらみつつ、隠れていく。


(この情景を、見たことがある)


『目』の大群が、先輩の身体に押しつぶされるところを最後まで見とどけたのち。

 ぼくは視線を上げ、

 既視感のある――しかしはじめて目にする、先輩の、身体。

 一糸まとわずさらされている、かつて暗い闇のなかで一瞬だけ見た、先輩の、……女の子の、裸の胸――

 ――――



(……ああ、そうだ、これは夢だ――)



 そう。それは。

 今日までに幾度も夢で見た、光景だった。