第ニ話『百眼』――ジャガン――
7-5.
――あと、ひとつ。
びっくりするほど強い動悸を感じつつ、ぼくは冷静だった。
そっと、筆にこれが最後になるだろう塗料をふくませ、いま描いた『目』のナンバーを塗りつぶし、あらためて、チェックしていないナンバーを確認する。
残すは最後のナンバー『
ランタンを取り、両ひざを立てた先輩の正面へとひざ立ちに、移動する。
ランタンを手前に置き、一瞬迷い、筆を口にくわえると、両手を先輩のひざにかけ、そっと、広げる。
タオルのスカートに守られた、最後の部分。
(――ついに、きた)
先輩の顔はランタンの距離と位置的に影に入ってよく見えない。
いや、もう、こちらを見ていようが小林さんに変わっていようが構わない。気にしない。
ここまでくれば、これが夢だろうが現実だろうが、ただもう『儀式』を遂行するのみ。
なにがあろうが『儀式』を成功させるだけ。
――唐突に、小林さんの言葉が思い出される。
あのとき、小林さんはなんていったっけ?
(……ああそうだ、小林さんはこういったんだ、――親しき仲にも礼儀あり、どんなに仲がよかろうが、ケツの穴まで見せてはいけない、と)
(いいながら、いわばケツの穴を見せてくれていたわけだ)
べつに構わないけれど? だってだれもがみんなぼくにケツの穴を見せたがるんだから――ケツという言葉の下品な語感――小林さんが口にしたときビックリした(「ケツって!」)――急に浮かんだ発想に自分で自分を笑いつつ、先輩のひざをさらに広げて、その間ににじり入る。
百に足りない
ためらわず。スカートをまくりあげる――
――最初に感じたのは、既視感。
どこかで見たことがある、というもの。
次いで思い出す。
そうだよく考えれば、ほんの四年前までは妹とお風呂に入っていたんだ。
すっかり忘れてしまっていたが、目にしていても当然か。
よくよく考えてみれば、妹も先輩と同じく女性だったんだ。
同じ生物同じ種族である以上、そこまで劇的に違うはずもない。
なのにぼくは、どうして忘れていたんだろう。
どんなものがあると考えていたんだろう。
いったいなにを期待していたのか――
――なぜぼくは、拍子抜けを感じていながらもほっとして、そのくせこんなにどきどき緊張しているんだろう?
激しい動悸につつまれるなか。
じっと、そこを見つめる。
最後の『目』を描くべき場所。
……いや、なんだろう、どこか記憶にあるのと違う。
いったいなにが――疑問を感じるのと同時、体勢に無理があったのか先輩のひざが動き、広がり、それにつられて合わせ目がさらにほころんで、そのなかになにかがある、うごめいていると感じた瞬間ぼくの両手は動き出し、止める間もなく、両の親指でそのほころびを押し広げ――
――『目』が、合った。
『目』が、ぼくを見つめていた。
においたつほど赤みがかってぬらぬらとつやめく白目。
白濁してくにゃくにゃとゆがんだ虹彩。
その中心で涙にうるむ、ひしゃげた穴が複数同化したような瞳孔――
(――ああ、これは、『目』だ)
(本物の『目』が、ここにある)
(本物の、生きている『目』がここにある。ぼくはまだ描いていないのに)
(百番めの『目』が、すでに、もう、ここにあり、――ぼくをじっと、見つめている――)
あきらかに通常のものではない、異形のそれではあったが。
――ありえないはずのもの、生きた『目』と、にらみあっている――それを認識した瞬間。
ぼくは固まり。
頭のなかが真っ白になり――
「…………目良くん?」
先輩の声と、目の前でまばたき――いや、ひざが閉じられたことの認識、どちらがはやかったのか。
ようやく自分を取り戻し、ぼくは、顔を上げた。
咥えていた筆が口から落ちて転がったが、気にする余裕なんてない。
目の前にはタオルを取り、上半身を起こした、心配そうな先輩の姿。
いつのまにか『詠唱』もとまっていて――
――文字通り、『ぞっ』となる。
いっきに汗が噴き出るのを感じつつ、現実を、かみしめる。
『儀式』は中断――いや、失敗、したのだ。
ぼくが、ありもしないものを見て――妄想を暴走させて、固まってしまったから。
ここまできておきながら、最後の最後で、こんな――いやこれからでも最後の『目』を描けば、――いやとてもじゃないけどそんなこといいだせないしOKがでるとも思えないしそもそもいまさらやれる自信がない――
頭のなかが、どうしようで埋め尽くされる。
どうしよう、先輩を裸にして、あんなとこまで見ておきながら、どうしよう、あんなところで、あんなまねして、挙句の果ては『儀式』をだいなしに――どうしようどうしようどうしよう――?
これこそ夢ならいいのに。
ぜんぜん目覚める気配はない。
あんなところに『目』なんてあるはずないのに。あれが本物のはずがなく、見間違えたか気のせいか、視線を気にしすぎたせいか、ともかくぼくの心が怖がりを越えられなかったということで――しょせんぼくなんか『超克』できないということか――いやそんなのぜんぜん問題じゃない問題は先輩の『儀式』を失敗させてしまったことで、それもただ失敗させただけじゃなく、あんなこと、どうしよう、どうしよう、どうしようどうしようどうしようどうしようどうしようどうしようどうしようどうしようどうしようどうしようどうしようどうしようどうしようどうしようどうしようどうしよう? まてもしかして? いやだめだどうしようどうしようどうしようどうしようどうしようどうしようどうしようどうしようどうしようどうしようどうしようどうしようどうしようどうしようどうしようどうしようどうしよう――
「……ええと。……ほら、落ち着いて? あたしべつに、怒ってないから」
先輩の優しい声色に、しかし怖くて先輩のほうを見られない。
あんな、考えられる限り最悪の方法で『儀式』をぶち壊してしまったのに、怒ってない?
そんなはずない――自分が泣きそうになっているのに気づいて、涙をこぼさないようにするのでせいいっぱい――
先輩が、タオルでほおを、撫でてくれた。
「いや、本当に怒ってないって。……まぁ、びっくりはしたけどね。まさか広げられるとは」
「殺してください殺してください」
「だから怒ってないってば。本当に。……そこまで自分を責められると、――むしろ、あたしのほうがあやまらないといけないかもしれないし……」
思わぬ言葉に、びくりとなる。
「…………え?」
「じつをいうとね、こうなるかも、っていう、……予想? はあったんだ。あなたの目が、『邪眼』っぽいなと思った時に、……確証はなかったけれど、だからこそ、試したかったというか」
「……ええ?」
『邪眼』?
「どこかで読んだ記憶があって、だから、もしかして、って思ってたんだけど……まさか、こんなにぴったりはまるとは。……だから、『儀式』は失敗しちゃったけれど、そんなに気にしなくていいから。半分は、可能性を知っててだまってたあたしのせいだし。広げられるとは思わなかったけど」
「いやそのコロシテ、……その、……あの?」
先輩がなにをいっているのか、まったく理解できない。
けげんを通り越した感情が顔に出てたのか、先輩は笑った。
「……目良くんは知らない? 『邪眼』の破りかた」
「じゃ、邪眼の破りかた、ですか? ……いえ……」
「そう? じゃあよかったんじゃない? 身をもって知ることができて」
「え? え、え?」
――身をもって知ることができた?
なにをいっているのかまったくわからず、先輩の顔をのぞきこむが、先輩は悪戯っぽく微笑むだけでこちらを気にする様子もなく、もう話は終わりといわんばかりに置いてあったスポーツバッグから最初に来ていたジャージではなく学校の制服を取り出し、着はじめる。
九十八の『目』の上に。
なんとはなしにそれをながめ――先輩が下着をはき、ブラジャーをつけるのを見てようやく自分の失礼に気づき――視線をそらし、それでもがまんできずに、ちらり、ちらりと先輩の様子をうかがう。
確かに、怒っているようには感じない。
むしろ、上機嫌にすら見える。
じゃあ、あんな最悪なやりかたで大事な『儀式』を壊してしまったことを本当に怒っていないのか?
――というか邪眼の破りかたって?
この状況とどう関係がある?
身をもって知れてというがそもそも身に覚えがぜんぜんない――ていうか布に包まれた胸部が、さっきまでより明らかに大きく見えるのはなぜ? どういう理屈?
「ほら。つったってないで帰り支度。明日もテストでしょ? 時間は有限!」
「……は、はい」
――わからない。先輩の考えていることが。
この闇の向こう以上に、先輩という人が見通せない――
「じゃあ、あとで連絡するから。またね? センパイ?」
「……はい」
「テストのほうも、がんばって――」



