「楠木ってよ、前に事故って身体動かなくなったって聞いたんだけどさ」
時を遡ること春過ぎのある日の昼休み、将臣は特に普段繫がりもないクラスメイトである武井から、そんな話題を振られた。
常にない展開に疑念はあったが、それこそ去年の今頃、似たような話を色々なヤツから尋ねられ、同じ話を定番の落語のように話していたので、口は勝手に説明を始めていた。
「まあ、そうだな。意識失って、目が覚めたら病院で、下半身ほとんど動かせないって感じ」
「マジかよ不死鳥フェニックスじゃん」
恐らく本人は奇跡の生還的なことを言いたかったのだろうが、ただのダブりワードなのでコメントに窮する。
「下半身動かなくなるってどんなよ?」
「まあ、不便だったよ。リハビリはしんどいし。トイレ行くのも面倒だし」
このあたりで、珍しいものを見た、とでも言いたげな啓示が隣の席に合流してくる。確かに啓示やかすか以外と会話をすることはそんなにないので、単に興味をそそられたのだろう。
それを見た武井は少し苦手そうな顔をしたが、今は将臣への興味が勝ったようだった。
「ぶっちゃけ、アレは勃つん」
「いや、感覚なかったな」
そりゃ一大事だ、と大げさに笑ってみせる武井。
何故か顔を顰めたのは啓示で、そろそろやめとけ、と将臣を肘で小突いてくる。
「一人でシコシコも出来ないんじゃ地獄だな。看護師のおねーさんが優しく手ほどきしてくれりゃ最高だがよ」
「看護師のおばちゃんは優しかったけど、そういうのはないな」
「まさしくせいしの一大事だ」
ギャハハ、と自分で上手いことを言ったつもりなのか、品のない笑い声が響く。廊下にまで届いたのか、一部の生徒が驚いて足を止めていた。
「将臣、もういいだろ。武井もテメエ、他人事だと思って勝手言ってんな。笑い話じゃねえ」
見た目が完全にチンピラをキメている啓示に睨まれたせいか、武井は分かりやすいほどに狼狽する。将臣はそんな啓示に対し、何マジになってんの、という一瞥をくれてやったが、武井も同感のようだった。
「な、なにマジんなってんだよ折戸。俺はただアレだよ。場を和まそうと思ってだな」
「和んでねえって言ってんだ。下らねえ下ネタでエンタメ気取りとか正気かテメエ」
「しょ、正気ってよ。まさか、どっかの貴家じゃあるまいし」
貴家、という名前に一瞬ピンと来なかったのだが、少し考えて思い至る。貴家雲雀。将臣達と同じ学年にいる、電波系美少女と噂の女子。
「顔が良くても頭がおかしいと、それこそアレが勃たねえよ。ありゃ人形だわ。ダッチワイフだわ。不思議ワールドの案内音声でこっちの頭もおかしくなるかもしんねえけど」
この場にもおらず、まして何の関係もない相手にひたすら罵詈雑言を浴びせるその姿は、将臣をしても眉を顰めるに値する。
「俺で遊ぶのはまあいいけど、よその女子の悪口はカッコ悪いんじゃね」
とばっちりで槍玉にあげられちゃって申し訳ないな、という気持ちがあったわけでもないが、特に深く考えず、会話したこともない女子を擁護していた。強いて理由をつけるなら、腫物然に扱われるのがうざったいことは、将臣自身、よく知っていたことだから、だろうか。
「……何だよとぼけたツラして貴家派かよ。ありゃマジもんだ。顔に騙されないうちに脱退しとけ」
ぶつぶつと言い訳のように陰口をまき散らしながら、武井はその場を離れて行った。
結局何しに来たんだアイツは、と隣で啓示がもっともなことを言っている。
「オマエもオマエだ将臣。あんなクソみてえな煽りをいちいち相手してやんな。貴家はともかく、古傷掘り返してチンケな笑いどこにされるとか、キレていいとこだろ、今の」
「血の気が多いな啓示は。別にいいよ。他に俺をいじる要素もないだろうからなあ」
「ったく……むしろわざわざイジリに来たこと自体にキレろよ」
啓示がフォローし甲斐のなさそうな顔で呆れている。将臣にとっては今更の話だし、どうせ武井と絡むことももうないだろう。啓示みたいなタイプを嫌う以上、その傍にいる将臣に近づいてくる理由もないはずだ。
ちなみに、夏休みを迎えようという現在に至るまで当時の武井の真意は理解出来ていない。
ただ、貴家雲雀の名前を将臣が強く記憶する、そのきっかけとなったのは間違いない。
そして時は現在に巻き戻る。
「げっ、お兄ってば土曜に早起きしてなにそんなキメちゃってんの。ヤク?」
朝から自宅の洗面所で妹の日向に大層気味悪がられた。ほぼ同じDNAを持っていながら何て言い草だろう、と将臣は血を分けた兄妹である日向を一睨みし、
「まあ冗談はいいから率直にコメントを寄越せ。女子として、こんな感じの男子はどうよ?」
「ないわ。冗談でもないわ」
瞬殺だった。だがそんなことで挫けていてはこの口の悪い妹の兄はやってられない。
「何がないのかを具体的に言う権利をやろう。……日向様お願いします」
「まずワックスつけすぎ。脂ぎったゴキブリにしか見えないから減点一。ショッキングピンクとかTシャツのセンスがなさすぎ。チャリティーイベントで合唱でもすんの? 減点二。今時ドクロのネックレスはナイ。いつからパンクロッカーになったよって感じっつーかそんなの後生大事に持ってるのがありえないわで減点三。ついでに顔立ちが好みじゃないから減点十」
「最後のはどうでもいいだろ。とりあえず参考にはなった。よし帰っていいぞ日向様」
「いやあたしの家でもあるし。むしろお兄さっさと出てけよ着替えたいんよあたしは」
「べっつにお前の貧相な身体なんぞ出し惜しんでもしょうがないだろ。勝手に着替えろよ」
「多感な中三の女子に向かってその言い草もないわ。超減点。はぁやれやれどうしてこんなデリカシーがないんだか。後で成長期を経たあたしにひれ伏せよ? 豊満だよ? 死ねよ」
そう言いつつさっさと服を脱ぎ始めるあたり、羞恥心のない妹の将来が心配だ。ちなみに豊満を名乗るには麻雀なら十翻は足りない。
軽口を叩き合っているが、別に仲が悪いわけではない。昔からずっとこんな感じなので、よそから見ると険悪なやりとりに見えなくもないらしいが、こんなことで一々腹を立てているようでは楠木家では生き残ることは出来ない。具体的にはケンカなんぞで騒ぎ立てたらあっという間に食事を抜かれる。極まると財布と小遣いの縁切り儀式が執り行われる。成長期だろうが思春期だろうが容赦はない。両親たる楠木夫妻はそういうところは子供だろうが手加減なしである。
「髪のセットなんて雑誌を眺めりゃササッと出来るとタカをくくってたけども、案外難しいな……つか毎日こんなことやってる連中、どれだけ朝早起きしてるんだよ。マゾか」
具体的には啓示を思い浮かべる。医者と薬剤師のハイブリッドだからと勝手に線引きをしていたが、よく考えると髪のセットに医術も調剤も関係なかった。ならば天性の素質か訓練の賜物か。やるな啓示、である。硬派と書いてマゾと読む。
「そりゃ、ファッションは意地で維持すんのよ」
上手いこと言ったつもりか鼻息荒くドヤ顔である。まったく残念な妹だ。
「面倒だなあ。何だよワックスって。床でも磨くのかよ」
「お兄うっさい。自分ビルドくらい黙ってやれ。男下げるよ? ストップ安よ?」
部活にでも行くのか、手早く運動着とハーフパンツを装着し、ささっとトレードマークのショートポニーを束ねた妹が苦情を入れてくる。男なんぞ知らないくせにしたり顔なのが腹立つが、概ね指摘は間違いなかった。
シカトをキメこんでなおもむーむーと唸っていると、日向が隣から顔を覗き込んできて、
「ほんで? もしかしてお兄、女の子と会うん? そんで背伸びしちゃうん?」
「ま、そんなとこだ。そうでもなけりゃ土曜の朝からこんなことするかよ」
ですよねー、と鼻から息を抜くような甘ったるい声を出す。気色悪いことこの上ない。