脳内は混乱一色だったが、その後はのんびり話している時間はなかった。奈月さんたちが業者に立ち会いをお願いされたからだ。
というのも荷物の紛失やら破損やら、そういったトラブルを防ぐために誰かしらが現場に立ち会うのが引っ越し作業の基本らしい。父さんたちの到着は引っ越し業者より遅かったが、家人の俺が在宅中だと伝えてあったので問題なく作業に入ってもらっていたのだ。
奈月さんたちは立ち会いに赴き、父さんは東京ばな奈を抱えてご近所をお詫び行脚、五人姉妹のうち下の二人は「おっきい!」「広いですわ〜!」とか騒ぎながら家の中を探険していた。俺はその間に身なりを整えた。キッチンで調理する心の余裕はなかったので、ブランチはバナナ二本で手早く済ませた。
一時間半ほどをかけて荷物の運び入れが完了すると、仕事をやり遂げたお兄さんたちは帽子を取って爽やかな笑みを浮かべた。
「それでは、ありがとうございました! 良い新生活を!」
トラックに乗り込んで去っていく彼らの背中はザ・仕事人という感じでかっこ良かったが、それはそれとして。
──父さんの招集によって、俺たち八人はリビングに集まって顔を合わせていた。
リビングというか、宮永家の場合はLDKだ。玄関すぐのドアを開けると、手前にソファとテレビの置かれたリビング、奥側には南向きの窓から庭を一望できるキッチンとダイニングテーブル。ニュアンスの効いたホワイトの木目を基調にしつつ、一部の壁や家具にはダークカラーを用いて、全体の印象が甘くなりすぎないよう配慮されている。
父の稼ぎのおかげでそこそこ裕福な暮らしを送っているので、かなり広々とした──一言で言うと明るく開放的で、おしゃれな空間であると言えるだろう。そのおかげか女性陣は感心した様子で吹き抜けの天井を見上げたり、常緑樹の育つ庭を眺めやったりしている。
評価は上々のようで何よりだが、俺にはさっそく突っ込みたい点があった。ダイニングテーブルは、父こだわりのイタリアだかイギリス製だかの細長いセラミックテーブルを使っているのだが……そこに並ぶ椅子の数が倍に増えているのだ。
昼の時点では客人用も含めて四脚しかなかったというのに、今は両側に誕生日席まで設けられ、最大八人が着席できるようになっている。追加注文したのはもちろん父さんだろう。なぜこういうことばかり抜かりなく、手回しがいいのか。俺はわりとふつうに腹が立ってきた。
そんな俺の右隣には父さん、左隣の誕生日席には地夏が座っている。差し向かいには落ち着かなげな水緒。姉妹は年齢順に右回りに着座しているようだ。
それにしても、静まり返っているのが通常運転の我が家にこれだけの人が集まることになろうとは、夢でも見ているような気分である。そうだったら良かったのに。
あと、先ほどから鼻腔をくすぐってくる甘い匂いの正体はなんなのだろう。なんかこう、ふわふわ、ぽわぽわ、って感じの香りがするのだが……どなたか香水でもつけてらっしゃる?
「陸都くん、驚いたわよね」
「うぇひっ」
急に話しかけられた俺は、変な声を出してしまった。椅子にもたれ掛かる父さん越しに、眉を寄せた奈月さんが前屈みになって話しかけてきている。
すわ鼻の穴を膨らませていたところを見られたかと焦るが、彼女が口にしたのはまったく別の件だった。
「無海さん、何も話してなかったんでしょ?」
本人から聞いたわけでなく、そうに違いないと確信を抱いて訊ねているような口調だった。それだけで、本当に父さんはこの人と結婚するんだなと、俺の胸を実感が過る。奈月さんは、すでに宮永無海の無鉄砲さを熟知しているのだ。
「あー……はい」
おずおずと俺が頷くと、「やっぱりね」とため息をつく奈月さん。彼女のじっとりとした視線を横合いから浴びた父さんは、わざとらしく咳払いをした。
「さて。こうして集まったことだし、改めて自己紹介しよう!」
おお、あからさまに話題を変えたぞ……。
「オレは宮永無海。電機メーカーの営業で、全国や海外をしょっちゅう飛び回ってる。若い頃に何か習ってたってわけじゃないんだが、身体を動かすのが好きでな。最近は知り合った人から、あちこちの武術を学ぶのを楽しみにしてるんだ。みんな、これからよろしくな」
そう言って、にかっと歯を見せて笑う父さん。
てっきり俺以外の面々には面識があるものかと思いきや、五姉妹はちらちら父さんを見ながら不安げに顔を見合わせている。……あれ?
俺は少しだけ顔を寄せて、小声で父さんに訊ねる。
「なぁ、父さん。まさかとは思うけど……父さんも、初対面なの?」
「おう。地夏ちゃんたちとは、今日の朝食時に初めて顔を合わせたからな」
まさかが的中してしまった。
それだと、俺と五姉妹の状況はほとんど変わらないことになる。破天荒人間に振り回されているのは同じなのだと思うと、わずかに親近感を覚えた。
「私は無海さんのことも再婚のことも、早めに伝えていたわよ?」
呆れ顔で言ってから、奈月さんが胸に手を当てる。
「次は私ね。改めまして、奈月です。旧姓は杉山」
旧姓ってことは、もう籍入れてるのか──と思いつつ、俺は引っ掛かったことを訊ねる。
「杉山ってことは、もしかして出身は静岡ですか?」
鈴木には敵わないが、杉山という名字の家も静岡にはかなり多い。
すると、待ってましたとばかりに奈月さんは人好きのする笑みを浮かべた。思わずどきっとするくらい、魅力的な表情である。
「当たり。大学進学のときに上京して、今までずっと東京暮らしだったの。半年くらい前に、あなたのお父さん……無海さんとバーで出会って、意気投合してね。彼が静岡在住だったのは、偶然だったけど」
バー……半年前……二人の馴れ初めについてはいろいろ気になるところも多かったが、今は自粛することにした。また聞く機会もあるだろう。
それにしても、朗らかな話し方に親しみやすい笑顔が印象的な女性だ。奈月さんとはうまい距離感でやっていけそうだと思っていると、さらりと情報が付け足された。
「それと、職業は弁護士」
なるほど。親しみやすいが隙のない雰囲気は、弁護士という職業を聞くと納得のいくものだ。
「陸都くんも、何か困ったことがあったらいつでも相談してね」
「頼もしいです」
俺が少しだけ笑うと、奈月さんは顔を綻ばせた。
「じゃあ、自己紹介。お願いできる?」
「はい。ええっと……宮永陸都です。この春から高二になりました。よろしくお願いします」
言いながら、俺はぺこりと頭を下げた。
我ながら無難でおもしろみのない自己紹介である。新しいクラスでも、真ん中の一文を抜いて同じような挨拶をしたのが記憶に新しい。趣味は読書とドラマ鑑賞です、と付け足そうかどうか、直前まで悩んだ末に何も言えなかったのだ。地味な趣味はどうにも人に言いにくい。
微笑ましげに頷いた奈月さんが、俺の隣に視線をやる。
「地夏、いい?」
「ええ。……長女の地夏です。十六歳です」
俺と父さんに向かって、地夏が頭を下げる。その拍子に、括った長い髪が細い肩をさらりと撫でるように滑り落ちた。
小さなつむじと目を合わせながら、そうか、年齢も付け足すべきだったなと俺は反省する。
五姉妹の長女である地夏。少しきつめの顔立ちは、いちばん奈月さんに似ているだろうか。伸びた背筋や丁寧な喋り方から、折り目正しい優等生だというのが伝わってくる。
「じ、次女の水緒です。十五歳で、高一で、火鈴ちゃんの双子の姉、です……」
消え入りそうな声で続くのは、お尻をもぞもぞさせている水緒。君がいい子ってことは、俺もう知ってる。
「三女。火鈴」
口数少なく言い終えた火鈴は、手元のスマホから視線すら動かさなかった。母の再婚相手にも連れ子にも、まったく興味がないと露骨に態度に出ている。むしろ清々しいくらいだ。
「次はわたくし、ですわね」
こほん、と咳払いをするのは風香だ。
「ごきげんよう、わたくしは四女の風香と申します。年齢は十三歳で、中学二年生になりましたわ。特技は歌うこと、好きなことは音楽鑑賞です。以後お見知りおきを」
上品な所作でお辞儀をすると、優雅に微笑む。……リアルで「ですわ」と喋る人間は初めて見たが、服装も相まって深窓の令嬢のようだ。
「空音! ろくさーい! ごじょ! しょうがくいちねんせい!」
末妹の空音は、元気いっぱいに五本指と一本指で「ろくさい」を表現しつつ、「ごじょ」と「いちねんせい」で交互に左右の手を前に出してみせる。
「あ! サッカー好き! です!」
指の扱いに専念しすぎたのか、最後は早口で付け足してから白い歯を見せて笑う。……なんか心がほっこりする。
自己紹介がつつがなく終わったところで、顎に手を当てた父さんがテーブルを見回してしみじみと言う。
「いやはや、それにしても美しい六姉妹だなぁ」
「まぁ、お上手」
奈月さんが口元に手を当てて微笑む。言われ慣れている感じの反応だ。
というのも、父さんの言葉もあながち世辞とは思えなかった。芸能人一家だと紹介されたとして、俺はさほど驚かなかっただろう。それほどまでに彼女たちの美貌はきらめき冴え渡っていたし、どこか浮世離れしていた。
いや、現実離れしているのはこの光景そのものだ。この見目麗しい母娘と、俺は今日から家族になるらしい。自分に改めて言い聞かせてみても、まったく実感が湧いてこない。
「ところで地夏ちゃんは、誕生日いつだっけ?」
そこで父さんが水を向ける。地夏の形のいい眉がぴくっと動いたのを俺は見逃さなかった。
おそらく「地夏ちゃん」という呼称が気に障ったのだろう。出会ったばかりの新しい父親に、彼女たちも心を許しているわけではないのだ。むしろ心理的な抵抗は、男の俺より強いだろう。
「……私は五月生まれです」
「じゃあ四月二日生まれの陸都が、五人のお兄ちゃんになるな!」
「あら、そうなのね。この子たちをよろしくね、陸都くん」
「は、はぁ」
大人二人は勝手に盛り上がっているが、一か月違いで兄も姉もない。
「しかも陸都くんって、料理ができるんでしょう? それを聞いて無海さんとの再婚を決めたまであるの」
こっちは冗談……か? それにしては奈月さんの目は妙に真剣で、父さんは父さんで「えっ、初耳ですが?」みたいな顔をしている。
「というのも実は、私と地夏って──」
「お母さん。そろそろ、買い物に行ったほうがいいんじゃないの?」
一枚の紙を断つように、奈月さんの言葉を遮ったのは地夏だった。腕時計を見やった奈月さんが「あら、もうこんな時間」と目を丸くする。
「よっこらせ」と立ち上がったのは父さんだ。
「それじゃ、あとは若い六人に任せるってことで、オレと奈月さんはいっちょ買いだしに行ってくるか。スーパーとかドラッグストアとか回ってこよう!」
「ええっ」
思わず悲壮感にまみれた声を上げてしまってから、俺は慌てて口元を押さえる。ていうか、若い六人に任せるなんて日本語は聞いたことないぞ。
置いていかないでくれ、と俺は訴えたかったが、心の叫びを察してくれるほど父さんは勘が鋭くはない。それどころか俺と目が合うなり、肩をがっちりと組んで囁いてきた。むさ苦しい。
「──陸都。オレがいないからって、地夏ちゃんたちを押し倒さないようにな」
「アホか……」
俺は天を仰ぎたくなった。あんたの息子は、初対面の女の子──しかも義理の妹になる相手を押し倒すほどエネルギッシュではないし、軽率でもないんだが。
「もうさっさと行ってらっしゃい……」
「ハッハッハ。なんだよ、冷たいなぁ」
父さんと奈月さんが連れ立って出て行く。ややあってから、外からエンジン音が響いた。