ブギーポップ・クルシファイ リミットグレイの妖精逆説

Color 2 幻影の銀色 -phantom silver- ②

(でも──あの末真和子という少女……あの娘は、もしかしたら……)



 わたし、末真和子はかつて、殺されそうになっていたことがある。

 中学時代に、わたしの方は全然気がつかなかったのだが──連続殺人鬼のまさのりに狙われていたらしいのだ。佐々木は警察にじわじわと遠回りに追い詰められて、捕まる前に自ら生命を絶つことで悲惨な連続殺人事件は幕を下ろした、ことになっているのだが……どうやら彼が、死ぬ前に狙っていた標的が、彼が死ななかったら次に殺されていた少女は、どうやらこのわたし、末真和子だったらしい……のだった。彼の死によって惨劇の連鎖は停まって、わたしは九死に一生を得たようなのだが、わたしには当然ながら、その実感もなければ、自分が他の殺されてしまった少女たちと、何が違っていたのか、その理由などわかるはずもないままに放り出されて、そして……今でもそのまま、宙ぶらりんにされたままだ。

 自分が今、ここで生きていることには、何の理由もない。

 殺人鬼が気まぐれで、やる気を失って勝手に死んでくれただけで、他に理由なんか何にもない。

 この事実にわたしは追い詰められた。怖がったらいいのか、もう大丈夫だからと安心したらいいのか、これが最大の幸運だったとしたら、この先の人生っていったいなんなのか、とか、とてもとても落ち着かない気持ちになった。それで、わたしは本をたくさん読むようになり、霧間誠一と出会ったのだった。彼の著作の中で、突き放したような、でも誰よりも深いところをつかまえているような、不思議な距離感で世界を見つめているような表現の数々に、自分の身に起こった奇妙な理不尽は、実はありふれた断絶の一つに過ぎないと理解できたし、同時に人はみんな、自分なりの理不尽を抱えて生きていかなければならないのだ、とも感じた。

 もちろん、今でも彼の思考を完全に掌握できたなんて思っていないし、一生理解できないだろうとも悟っている。しかし……それでもわたしが読み始めたときには既に亡くなられていた霧間誠一の存在は、末真和子という個人にとって極めて大きな影響を与えたのは、揺るがない事実だ。

 そして──今、その人ののこした一人娘、霧間凪が殺気すれすれの鋭い気配を放ちながら、わたしの前に立ちはだかっている。


「…………」


 凪はわたしのことを値踏みするような、容赦のない視線をまっすぐに突き刺してくる。わたしはそれを受け止めながら、喉がカラカラに干からびていくような緊張に陥る。


「あ、あの──」


 わたしはおずおずと声を掛ける。彼女と話すのは数週間ぶりだ。


「こ。この前はホントに、その……」


 うまく言葉にならない。以前にわたしの友人が、よからぬ集団に成り行きで無理矢理参加させられそうになっていたところを、彼女が間一髪で助けてくれたことがあった。炎の魔女、というのが単なる不良少女のあだではなく、実は人知れず人のために戦う正義の味方の隠された称号なのだと、わたしはそのときに把握している。そして──


(この人は──わたしの生命の恩人──)


 確信がある。殺人鬼佐々木政則の事件──警察は彼の自死と発表したが……解決したのはこの人、霧間凪に違いない。彼女がわたしを見る眼でわかった。事情を知る者たちがわたしを見つめる同情しながらも下卑た好奇心の混じった視線とはまったく異なる、すべてを把握した上での優しいまなしは、それしか考えられないものだったからだ。


(何か秘密があって、凪が直接に佐々木を倒したわけではないかも知れないけれど……決着を付けてくれたのは、この人──)


 わたしは、自分の存在は理不尽の上にあると思っていたけれど、それは凪の苛烈な運命の中のひとつの事象に過ぎないものでもあったのだ。自分は彼女の物語の中の、ひとりの脇役であると認めることは、わたしに掛かっていた重荷を、かなり軽いものにしてくれた。


「え、えと──まさくんは元気かな?」


 一度だけ会ったことのある、彼女の義弟の名前を出してみる。しかし彼女はそれを無視して、ぶしつけに、


「末真──あんた、予備校に行っているのか?」


 と訊いてきた。わたしはびくびくしつつ、


「う、うん──それがどうかした?」


 と訊き返す。すると彼女はポケットから、一つの小さな包みを取り出した。


「あっ──」


 と、わたしが声を上げたのを見て、凪は、


「こいつがなんなのか、わかるか」


 と問いを重ねてくる。ここでわたしは、これが〝尋問〟であることを悟る。


(炎の魔女が、今──新しい事件に挑んでいる──)


 その事実に、わたしの背筋がぴいん、と伸びた。


「う、うん──中に紙切れが入っているんでしょ。それで──」

「何が書いてあった?」


 凪の目つきが、さらに鋭くなっている。わたしは素直に、


「え、えと──〝これを見た者の、生命と同じだけの価値あるものを盗む〟──だったかな」


 と答えた。すると凪の視線はますます鋭さを増していき、


「今、持っているのか?」

「う、ううん。人が落としたのを拾って、なんだろ、って見てたら、講師の先生が持ち主に返すから、って──渡した、よ……?」


 どうしても自信なさげな言い方になってしまう。凪はそんなわたしを見て、少し力みを消して、ふう、と息を吐いて、


「そうか……その方が良かったろう」


 と言った。それから改めて、


「その講師の名前は、わかるか」

「雨宮美津子……って、名札には書いてあったけど」


 その人はなぜか、霧間誠一の名前に妙な反応をしていた、とは、彼女にはなんとなく言えなかった。


「雨宮──リミットの方か」


 彼女はかすかに呟いた。え、とわたしがキョトンとしかけたところで、凪は、


「末真──もうあの予備校に行かない方がいい」


 と注意してきた。わたしが絶句していると、彼女は、


「あんたの成績だったら、別に予備校に行かなくても、行きたい大学に行けるだろ」


 とも付け加えてきた。その発言そのものには無理も強引さもない。でも──わたしは、


「だ──駄目だよ! だって──」


 だってわたしは、藤花と約束してしまったのだから。その誓いを破ることはできるはずもなかった。

 凪はそんなわたしに、割とあっさりと、


「そうか──」


 と認めた。その素っ気なさに、わたしは逆にぞっとした。


(もしかして、もうわたしは彼女に助けてもらえる立場でなくて、既に〝手遅れ〟なのでは──)


 その疑念が湧いてきて、不安になってきた。彼女はわたしの方に近づいてきて、そして──そのまま横を通り過ぎていった。


(あ──)


 わたしはそれを呼びとめることもできずに、去って行く彼女の後ろ姿を見つめることしかできなかった。

 

 霧間凪が、末真和子の横を抜け、追跡していた自分たちの方に近づいてきたので、陰から監視していた府名井柚純たちは、あわててその場から逃げ出した。すぐに駅前の人混みに紛れて、区別をつかなくする。

 表通りまで霧間凪は出てきたが、少し周囲を見回しただけで、すぐに元来た道を戻っていった。


(あいつは、こちらに気づいていたのか──いや、それを下手に確かめようとしてはっきり視認されるのは無駄なリスクだ)


 既に炎の魔女に尋問されている連中が、柚純の名を白状してしまっている可能性は〈ローリング・アンザェティ〉能力の性質上あり得ないから、その心配はないが──柚純自身がヤツに見つかっては元も子もない。


(しかし、炎の魔女があくまで私の邪魔をするというのなら、受けて立ってやる──支配下において、意のままに操って、骨の髄まで利用し尽くしてやるからな──)


 柚純が決意を固めている隣で、まず最初に凪に気づいた焼津芽依は、ちらちらと後ろを不安そうに何度も見返しながら、


(しかし──炎の魔女が現れたのはもちろん驚いたけど──その一瞬前に、宮下藤花が離れた直後に聞こえてきた、あの口笛の音はなんだったんだろう──確かに聞こえた気がしたんだけど……)


 と考えていた。