ブギーポップ・クルシファイ リミットグレイの妖精逆説

Color 5 妖精の茜色 -fairy red- ⑤

 銀色の少女は、それまでうっすらと浮かべ続けていた微笑みを消して、無表情になって、


「博士──これからあなたの前には、難しい選択肢が現れる。あなたの〝気持ち〟に素直に従って、後悔するか──逆らって、納得するか」


 と言った。銀色の光がやたらと眼の中で乱反射して、視界そのものがぼやけていく。目の前に立っているのが、はたして少女なのか、それともまったく別の何者か、その判別も付かなくなっていく。ただただ、銀色が──


「正直、私はあなたには興味がない──あなたにはがない。あなたは世界の理不尽から切り離されている。それはあなたの不幸だが、同時に武器でもある──やり方次第では、あの〝運命の糸〟に縛られているだけの臆病者よりも、マシなやり方を見つけられるかも知れない。私の立場から言うことではないが──健闘を祈るよ、博士……」


 その言葉ばかりが脳内に響いて、わたしはめまいがして、そして──背後でドアが開く音がした。


(──はっ!)


 ととつに、わたしは振り返った。するとそこには、焼津芽依と府名井柚純の二人が立っていて、


「えと、末真さん──」


 と話しかけてきた。わたしは一瞬茫然として、それからあわてて視線を戻したが──そこにはもう、誰の姿もなかった。最初からそこには何もいなかったのだ、とでもいうかのように、影も形もなかった。



(なんだこいつ──末真和子?)


 府名井柚純は、その少女を改めて前にして、動揺していた。

 彼女から感じられる、不安の〝焦げ〟がなんだか奇妙なのだった。

 おかしなところのない、ありふれた不安のようにも感じられる……だから今までも気にしてなかったのだが……集中して観察してみると、


(なんでこいつ……〝不安〟にブレがないんだ?)


 人の不安というのは、本質的に上下するものだ。揺れ動くから不安なのであり、微動だにしない不安などというものはあり得ない。そのはずなのだが……末真和子のそれは、霧間凪のそれが〝炎上〟だとすると、まるで〝氷結〟で冷凍されて固まってしまっているかのようだった。


(なんだろう──こいつに能力を掛けていいのか、すごく迷う──嫌な感じがする。そう、この前の、あの飴屋という男に対して感じたのと、同じような感覚が──)


 柚純がためらった、そのほんのわずかな瞬間のことだった。


「あ──」


 彼女の横にいた焼津芽依が、末真に話しかけようとしていた、その途中で急に言葉を途切らせて、そして──ぐにゃり、と脱力しつつ、床に崩れ落ちた。

 それと同時に、柚純の全身にもすさまじいけんたい感が襲いかかってきた。いきなりフルマラソンを終えたときのような疲労感が、どっ、と唐突に身体にのしかかってきた。


(──っ?! こ、こいつは──)


 彼女はよろめく身体を、なんとか机にしがみついて転倒を避ける。目の前の末真和子も、同じように倒れかけて、ふらついている。

 そして……かすかに聞こえてくる〝耳鳴り〟──。


(この無差別ぶり──こいつは古嶋俊輝の〈ヒス・バズ〉攻撃だ──あいつ、この予備校で何してやがるんだ……?)


 焦る彼女に、末真が、


「な、なんか──急にだるいし、焼津さんも倒れたし──これって二酸化炭素中毒みたいな──ヤバいかも──」


 と声を掛けてきた。かなり的外れだが、緊急事態であることを認識はしている。


「そ、そうなの……?」

「う、うん──とにかく、ここから離れて、換気の良いところまでいかないと──」


 末真はふらつきながら、こっちに近づいてきて、そして焼津芽依を持ち上げようとして、


「あの──手伝える……?」


 と訊いてきた。柚純は動揺しつつ、


「う、うん……」


 と末真と共に、ぐったりと動かない芽依の身体を持ち上げた。肩と膝をそれぞれ摑んで、ふらつきながらも外に出る。


(しかし……この末真和子……)


 柚純はずっと困惑している。


(こいつ……なんで古嶋の能力があまり効いていないんだ? 対応できる私と同じか、それ以上に──なんで?)


 しかしその疑問を深く考察する余裕もなく、二人はよたよたと予備校の廊下を進んでいく。

 夕焼けの角度のきつい西日が、窓の外から廊下にまっすぐ差し込んできている。

 その茜色の光を浴びながら、芽依は目を見開いたまま、されるがままに運ばれていく。

 その焦点の合っていない瞳が見ている先には──

 

 ……ぼーっとした顔でこっちを見ているそいつが、自分の顔だということに気づくのに、数秒かかった。


(なんだ、これ……あれって──私か? 焼津芽依が、末真と柚純に運ばれていく──)


 自分の心が、身体から切り離されて宙に浮いている──これは幽体離脱というものなのだろうか。


(しっかし──間抜けなツラしてんなー。末真も柚純も焦っちゃってて、みんな馬鹿みたいだな)


 芽依の心には恐怖がまったくなかった。自分は死んだのだろうか、という疑問も少しはあるが、それよりもごとみたいな達観がある。


(くだらないことにあくせくして、眼ェ血走らせてムキになっちゃって──)


 芽依の心がそう思ったところで、すぐ側から、

〝まったくどーしようもねえよな。どいつもこいつも〟

 という声がして、芽依も、

〝自分がまともだって、何の根拠もなく信じてるのがまた、とんだ笑いものだよね──〟

 と言い返して、そして、ひひひひひ、という声が発作的に出てくる。

 芽依が横を見ると、そこにも芽依がいて、うなずきかけてくる。

〝おい、これって──あの愚か者どもには見えていないんじゃないのか〟

 と指差す先には、末真たちの姿がある。確かに二人とも、宙に浮いている芽依たちの様子はわからないようだ。

〝そうだよね──やっぱりだったね。府名井柚純ってのは実際にニセモノだったのが、これで証明された〟

 芽依はうなずきかえす。その横にもまた芽依がいて、その横にもいて、さらにその横にも、前にも後ろにも──みんなで、ひひひひひひひ、と肩を揺らす。

 いや──もはやそれは、焼津芽依ではない。

〝そうだよ、こういうことだったんだ──私たちは〟

〝私たちこそが──〟

〝あの間抜けな肉体に縛られていたのは、私の可能性のほんの一部で──〟

〝あるよな。自分でも自分の才能に気づいていなかった、ってヤツが──〟

〝他の愚図どもは、ただそれに流されていただけだったけど──〟

〝私たちは、それを認識して、支配して──そして結局は〟

〝見るものと見られるもの、すべては同じことで──〟

〝私たちが、みんなに怖れられて、みんなを嘲笑う──〟

〝逆を選べば良いってことを、意地悪して教えてやらずに──〟

〝そう、それが──〟

〝私たちが〈プルハ・メルハ〉だ──!〟

 妖精たちはいっせいに、ケタケタとたがが外れたように笑い出した。